地下空間の静寂に佇む、見上げるほどに巨大で重厚な木製の二重扉。
若葉ヒナタは扉の前に立つと、修道服の袖から古い意匠が施された鍵を取り出し、巨大な鍵穴へと慎重に差し込んだ。
カチャリ、と静寂を切り裂く重厚な金属音が響き、ゆっくりと鍵が回される。
ヒナタがその華奢な見た目からは想像もつかない腕力で重い扉を押すと、ゴゴゴ……と長年の歴史を感じさせる低い重低音とともに、重厚な扉が内側へと押し開かれていった。
「……さあ、どうぞ。中へお入りください」
ヒナタに促され、セイカとエリはゆっくりとその一歩を踏み出した。
扉をくぐり抜けた瞬間に二人を包み込んだのは、地上とは完全に隔離された極上の静謐と、何万冊もの古い紙、革表紙、そして上質なインクが織りなす濃密な「本」の匂いであった。
「にゅふふふ……! うわあぁぁ……っ! 見てくださいセイカ! どこを見渡しても本、本、本……! 天高く積み上げられた知識の塔と、どこまでも続く書棚の影! これはまさしく……未知の知識と秘術が眠る『知識の迷宮』そのものです!」
エリは黄金色の瞳を輝かせ、声のトーンを抑えつつも溢れ出す興奮を隠しきれない様子で周囲を見回した。
天井の吹抜けまで届く巨大な書棚には、背表紙の文字がかすれた古書や、重厚な鎖で留められた羊皮紙束が整然と、しかし圧倒的な密度で並べられている。
「……声を落としなさい、エリ。貴重な文献が集まる場所で過度な音波振動を起こすのは感心しません」
セイカは静かにエリをたしなめつつも、その瞳の奥で周囲の過給データを詳細に観測していた。
「ですが……驚くべき管理体制ですね。室内温度は摂氏18度前後、相対湿度は45%から50%の範囲で正確に固定されています。加えて、気流の対流設計によって特定の場所に湿気が滞留しない構造になっている……。科学的な空調設備に頼るだけでなく、建築構造そのものによって文献の劣化を防いでいるのですね」
「ふふ、セイカさんは気づいてくれましたか! そうなんです、ここはウイさんがいつも綺麗にお手入れをして、本にとって一番心地いい環境を作っている場所なんですよ」
ヒナタは自分のことのように少し誇らしげに微笑みながら、二人をさらに奥へと導いていく。
__________
無数の書棚が並ぶ迷宮のような区画を抜けると、少し開けた作業エリアへと出た。
そこには無垢材で作られた大きな作業机が何台も並べられており、卓上には拡大鏡や精密なピンセット、特殊な竹べら、自作と思われる大小様々な刷毛、そして植物由来の糊や補修用の和紙が規則正しく整理されて配置されていた。
机の上には、まさに今修復の途中であると思われる古文書が広げられている。虫食いによって穴だらけになった羊皮紙の余白に、寸分違わぬ厚みの補修紙が極小の精度で貼り合わされ、消えかけていた文字が丁寧に保護されていた。
「にゅふふ……! この神業のような手仕事! 時が経ち、傷つき、砕け散ろうとしていた過去の記憶を現代に繋ぎ止める……! これはただの修理ではありません、傷ついた古文書を蘇らせる『魔術師の工房』そのものです!」
エリは作業机に触れないよう絶妙な距離を保ちつつ、身を乗り出してその美しく繊細な修復痕に見入っていた。
「……同感です。感情的な表現は抜きにしても、この技術水準は極めて高い。紙質の繊維を見極めた補強材の選定、インクの酸化度合いに応じた薬品調合……単なる知識だけでなく、長年の経験と執念によって裏打ちされた専門的な技術体系が確立されています」
セイカもまた、卓上の道具や修復途中の文献を観察し、管理者の圧倒的な技能に対して素直な敬意と高い評価を抱いていた。
「ウイさんは、傷ついた本を見ると『かわいそうに……』って言って、何日もここに籠もりきりで治してあげるんです。本に対する愛が本当にすごい方なんですよ」
ヒナタは二人の感心した様子に嬉しそうに頷くと、作業エリアのさらに奥に位置する、小さな木製の扉へと視線を向けた。
__________
「ウイさんは、たぶんこの奥の個室でお仕事をしていると思います」
ヒナタを先頭に、三人は静かにその扉の前へと移動した。
扉に耳を澄ませると、周囲の静けさも手伝って、室内からかすかに「カサリ……」と繊細な紙をめくる音や、カリカリとペン先が紙面を滑る規則的な筆記音が聞こえてくる。
誰にも邪魔されない、本と人間だけの孤独で密密な時間。
ヒナタは呼吸を整えると、トントン、と控えめな音で扉をノックした。
「ウイさん、いますか? ヒナタです。……少しお時間をよろしいでしょうか?」
ノックの音とともに、中からの筆記音がピタリと止まった。
ほんのわずかな沈黙の後、扉の向こうから、どこかめんどくさそうに警戒を含んだ声が返ってくる。
『……ハァ。ヒナタさん……? なんですか、こんな時間に……。私、いま貴重な活字本の補修作業中なんですけど……』
「すみません、作業中に。実はウイさんにどうしてもご相談したいという方たちをお連れしたんです」
『……は? ご相談……? ちょっと待ってください、誰か……連れてきてるんですか……!?』
扉の向こうから、露骨に動揺した気配が伝わってくる。
ガタゴトと椅子を引きずる音と、自信なさげな足音が近づいていき、やがて鍵が開く小さな音が響いた。
__________
細く開いた扉の隙間から、ひょっこりと顔を出したのは、ボサボサの長髪と大きな丸眼鏡が印象的な少女──図書委員長の古関ウイであった。
ウイはヒナタの隣に立つ、ワイルドハントの制服を着た見知らぬ二人──特に冷静な眼差しを向けるセイカと、キラキラした瞳で自分を凝視するエリの視線を浴びるや否や、露骨に眉をひそめて扉の陰へと身を引いた。
「……な、何ですか他校の人って!? ヒナタさん、言いましたよね!? 私、今日は誰とも会わずに静かに本と過ごすって決めてたんです! 日光も人間もシャットアウトして集中する日なんですけど……っ!?」
「あはは……すみません、ウイさん。でも、本当にすごい古文書をお持ちで、ウイさんにしか頼めないような案件なんです。こちら、空見観測研究部のセイカさんと、オカルト研究会のエリさんです」
ヒナタが間に入り、慌てて二人を紹介する。
すると、ウイの警戒心を煽るかのように、エリがパッと前へ踏み出して目を輝かせた。
「初めまして! あなたが噂に聞く、古代の知識を操る『古書館の魔術師』さんですね! お会いできて光栄です!」
「……はぁっ!? な、何を言ってるんですかこの人……っ!?」
ウイは一気に声を張り上げ、激しく狼狽しながら頭を抱えた。
「ま……魔術師って……!? や、やめてください、そんな妙ちきりんな……恥ずかしい呼び名……っ! だ、誰ですか、そんな根も葉もない都市伝説を吹き込んだのは……!? 私のどこが魔術師なんですか……! 私はただの図書委員です。静かに本を読んで、修復して……それだけでいいんです。そんな、陰気な私に変な名前を付けないでくださいよ……っ!」
呆れと困惑と照れ隠しが混ざり合った大声で捲し立て、ウイは「ハァ……ハァ……」と肩で息をつきながらジト目でエリを睨みつける。
ヒナタが「エリさん、ウイさんはその呼び方が本当に苦手なので……!」と慌ててフォローを入れた。
「……失礼しました、ウイ。エリには私から厳重に注意しておきます」
セイカが一歩前に出てエリの首根っこを軽く掴んで下がらせると、落ち着いたトーンでウイを見つめた。
「室笠セイカです。唐突な訪問で不快にさせてしまったのは謝罪します。ですが……私たちは本気で、あなたという専門家の知見を必要としているのです」
__________
セイカの理知的で無駄のない態度に、ウイは「……ハァ」と大きなため息をつき、眼鏡の位置を直しながら警戒混じりのジト目を向けた。
「……専門家だなんて、大げさなことを言われても困るんですが。私、別に他校の人のお守りをするためにここにいるわけじゃないですし……」
「謙遜する必要はありません。先ほど拝見した作業机の修復精度と管理環境を見れば、あなたの知識と技術水準がキヴォトスにおいても極めて突出していることは明白です」
セイカの冷静かつ客観的な事実に基づく称賛に、ウイは「……っ」と詰まり、明後日の方向を向いてボソボソと呟く。
「……べ、別に、当たり前の管理をしてるだけですから……そんな風に言われても何も出ませんよ……。で、なんなんですか。わざわざ私を引っ張り出してまで見せたい本って」
「私たちが持ち得る最先端の観測設備と過給演算シミュレーションを用いても、一切解読できない古本が見つかったのです」
「……解読できない……?」
「ええ。言語体系、文字の配列規則、暗号化のアルゴリズムが既存のキヴォトスのデータベースと一切一致しません。それどころか、物質としての構造や位相データにおいても、通常の書籍ではあり得ない異常値を示しています」
セイカの説明を聞くうちに、ウイの目から「うっとうしさ」が消え、代わりに知識人特有の冷静で疑い深い光が宿り始めた。
「……それ、本気で言ってるんですか? キヴォトスの文字体系から派生したものなら、どれだけ古いものでも、何かしらの系統は残るはずですけど……。それすら見つからないっていうなら……単純に、あなたたちの解析データの精度が足りてないだけなんじゃないですか? ……まさか、そこまで調べておいて分からないから『未知の文字』なんて結論にしたんですか……?」
「言葉で説明するよりも、実物を見ていただいた方が早いでしょう」
セイカは抱えていたアタッシュケースを静かに抱え直すと、ウイの目の前でゆっくりと電子ロックを解除した。
プシュー、という減圧音とともに蓋が開かれ、中から鈍い光を放つ黒い古書がその姿を現す。
__________
「……っ!?」
黒い古書が視界に入った瞬間、ウイの表情が一変した。
めんどくさそうな態度は吹き飛び、丸眼鏡の奥の瞳が鋭く収縮する。
ウイは吸い寄せられるように扉の影から一歩を踏み出すと、自らの鼻先が古書に届くほどの距離まで顔を近づけた。
「な……なんですか、これ……」
ウイの口から、困惑と驚きが混ざり合った声が漏れ出た。
「紙の質感が……おかしい……。羊皮紙でもパピルスでも、和紙でもナイロン混紡でもない……。それにこの製本……糸綴じのピッチが完璧に均一すぎる……。人の手作業のムラもなければ、工場で量産された機械製本の痕跡すら……ない……!?」
専門家としての直感が、彼女の頭の中でアラートを鳴らしていた。
膨大な古文書に触れ続けてきたウイだからこそ、目の前にある「それ」が自分たちの知る「本」の概念から完全に逸脱していることを瞬時に見抜いていた。
「……これ、本当に古文書……なんですか? 外見は本のかたちをしていますけど……こんなの、本という形をした『何か別の気味の悪い構造物』じゃないですか……!」
「私たちにも判断できていません。だからこそ、あなたという専門家の観察力が必要なのです」
セイカが静かに答えると、後ろからエリが「にゅふふ!」と誇らしげに胸を張った。
「見ましたか! やっぱりただの本ではないのですね! これほどの異彩、探求の道は間違っていませんでした!」
「……ハァ。あなた、さっきからいちいち声が大きいです……。オカルトだかなんだか知りませんけど、軽々しく面白がらないでください……」
エリの興奮を即座に冷ややかな毒舌でシャットアウトしつつも、ウイの視線は古書から片時も離れなかった。
__________
ウイはポケットから白い綿手袋を取り出すと、どこか手元を微かに震わせながらそれを装着した。
セイカに無言の視線を送り、セイカが静かに頷くのを確認してから、慎重な手つきで古書の表紙の感触を指先で確かめた。
「……インクの定着具合、表紙の装丁、ページ間の密度……。どれをとっても私の知るどの時代の技術体系にも該当しません。……気味が悪いですが……」
ウイはゴクリと唾を呑み込み、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
人見知りの警戒心を完全に上書きした、本に対する強烈なプライドと知的好奇心がその瞳に宿っている。
「……はぁ。分かりましたよ。そこまで怪しいものを見せつけられて、追い返すわけにもいきませんからね。……少し時間をいただけますか? この本、私がちゃんと調べてみます」
「受けていただけますか」
「……別に、あなたたちのためにやるわけじゃありませんからね。こんな正体不明の不気味な本が放置されているのが、図書委員として気に入らないだけです。……装丁の解体はせず、非破壊検査の範囲で、うちの道具を全部使って……何が書かれているのか解明してみせます」
ウイの少し照れ隠しの混ざった辛辣な言い回しに、セイカの唇が柔らかく微かな笑みを刻んだ。
「ええ、よろしくお願いします。私たちのデータもすべて共有しましょう」
「にゅふふ! 頼もしいですね! 解析によって秘術の扉が開かれる瞬間を、私も見届けるとしましょう!」
「……だから、声が大きいって言ってるじゃないですか……っ」
「ふふ、よかったですね、ウイさん!」
ヒナタも二人とウイのやり取りを見て、嬉しそうに微笑んだ。
__________
ウイは慎重な手つきでアタッシュケースから黒い古書を持ち上げると、自分の修復室の最も大きな作業机の上へと運び込んだ。
部屋の明かりが点灯され、強力な専用ルーペと各種計測器が古書の周囲に配置されていく。
外の喧騒から遮断された静謐な空間で、ウイは白い手袋をはめた指先で、静かに古書の最初のページへと手をかけた。
セイカ、エリ、そしてヒナタが固唾をのんで見守る中、重厚な表紙がゆっくりとめくられる。
未だ見ぬ黒い古書の真実を解き明かすための、新しい解析の段階が今、静かに幕を開けたのだった──。