図書委員会の地下深く、薄暗く静まり返った修祖室。
石造りの壁に挟まれた空間には、古紙と上質なインク、そしてかすかな薬品の匂いが静かに立ち込めていた。
卓上ライトの青白い光が、黒い古書の表紙を鮮明に照らし出している。
古関ウイは白い綿手袋をはめた手で、息を殺すように慎重にページをめくった。
パサリ、と極小の音が密閉された室内に響く。
「……ハァ。言っておきますけど、息を殺して静かにしてくださいね。特にあなたです、オカルトの人」
「白尾エリです! ですが承知いたしました、ウイさん! 今は沈黙こそが秘術の儀式を成功に導く鍵……! 息をひそめ、真理の開示を待ちましょう!」
「……声が大きいって言ってるじゃないですか……っ。もう……本当に静かにしてください……」
ウイは頭を抱えそうになるのを必死に堪え、丸眼鏡のフチを指先で押し上げた。
すぐ隣では、室笠セイカがポータブル観測端末を机の端に配置し、ウイの手元を可視光および各種波長データとしてリアルタイムで記録している。
「気にせず進めてください、ウイ。エリの無用な振動については私が抑制します。あなたの観測手順と知見に集中してください」
「……はぁ。言われなくても、そうさせてもらいます」
ウイは手元に置いた拡大鏡を手に取り、黒い古書の最初のページへと視線を落とした。
ページの上に並ぶのは、見たこともない奇妙な記号の列だ。
一見すると古代のルーン文字や、暗号化された幾何学模様のようにも見える。
ウイはピンセットと特殊な竹べらを用い、紙の繊維を傷つけないよう慎重にページの端を固定しながら、文字の形状、配置のピッチ、インクの固着パターン、そして記号の反復頻度を一つずつ手元のノートへ書き写していった。
規則的なペンの走行音だけが、静寂な室内に刻まれていく。
ウイの瞳からは、先ほどまでの煩わしそうな色が完全に消え去り、膨大な文献と向き合ってきた者特有の、深く静かな集中力が満ちていた。
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「……妙ですね」
作業を開始して十数分が経過した頃、ウイがぽつりと呟いた。
その声には、単なる未知への戸惑いではなく、極めて専門的な「違和感」が混ざり合っていた。
「何か判明しましたか?」
セイカが間髪入れずに問いかける。
ウイは拡大鏡を目から離さず、指先でノートに書き写した記号の列を軽く示した。
「……最初、私はこれを完全な未知の文字言語……あるいは、まったく新しいアルゴリズムで暗号化された文字体系だと思っていました。ですが……いくつもの記号の組み合わさり方に、変な既視感があるんです」
「既視感……?」
「ええ。……この基幹となる縦線と斜線の交差角、それから子音に相当すると思われる要素の配置構造……これ、キヴォトスで使われている古い言語体系と、基本構造が極めて酷似しています」
その言葉に、セイカの瞳が微かに揺れた。
「……キヴォトスの古代言語と酷似している、と? しかし、私の持ち得るデータベースでの照合結果は適合率零パーセントでした。既存のどの時代、どの地域の言語とも一致しなかったはずですが」
「……だから『妙だ』と言ってるんです」
ウイは少し苛立ちを滲ませながら、眼鏡の奥の目を細めた。
「文字構造が似ているだけなら、古代の文献の偽物や、後世に作られた創作言語の可能性を疑います。ですが……もしこれがキヴォトスの既存の言語から派生したもの、あるいは時間経過によって変化したものなら……言語学的に『絶対に存在するはずの痕跡』がないんです」
「存在するはずの痕跡、とは」
「……言語というものは、人が使い、時代が下るにつれて必ず変化します。筆記を簡略化するための崩し字、地域による方言的な崩れ、あるいは異文化と接触したことによる記号の混ざり合い……そういった『歴史の摩耗』が、どんな古文書にも必ず刻まれるんです。ですが……この本に書かれている文字には、それが一切ない」
ウイはノートのページをめくり、二つの記号を並べて示した。
「……キヴォトスの文字構造と『根幹のルール』は同じなのに、派生の仕方がまったく違う。変化の方向性が、私たちの知る歴史のどれとも交差していないんです。……つまりこれは、既存の文字を真似て作った浅はかな偽物でもなければ、私たちの歴史の過去や未来に存在する文字でもない……」
ウイの言葉を受け、セイカは即座に自身の端末を操作し始めた。
「……なるほど。言語変遷における時間的・地理的パラメータの逸脱……。ウイ、あなたの抽出した文字構造データを私の端末に転送してください。別の切り口から計算を実行します」
「……はぁ。勝手に持っていってください」
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セイカの指先が端末の画面上を高速で滑る。
ウイが視覚的・言語学的に導き出した文字構造のデータを入力し、自身のデータベースと照合していく。
「……演算完了。……驚くべき結果が出ました」
セイカの静かな声に、ジッと息を殺していたエリが思わず身を乗り出した。
「にゅふふ……! ついに未知のアルカナの真実が解き明かされたのですか、セイカ!?」
「静かにしなさい、エリ。……ですが、結論から言えばウイの指摘は極めて正確です」
セイカは画面に表示された複雑な散布図を示した。
「既存のキヴォトス全史における言語データベースに対し、この古書から検出された文字体系をそのまま照合すると、適合率は零です。……しかし、『ある特定の時点』において、キヴォトスの文字体系の進化モデルに別のパラメータを代入し、まったく異なる歴史を辿ったと仮定して進化ツリーを再構築すると……適合率は一気に87.5パーセントまで跳ね上がります」
「……は?」
ウイが素頓狂な声をあげた。
専門的な言語解析を行っていた彼女にとっても、セイカが提示した論理の飛躍は予想外のものだった。
「……ちょっと待ってください。それって……どういう意味ですか? 別のパラメータ……歴史が分岐した、とでも言いたいんですか?」
「ええ。単なる未知の文明や異世界の言語として処理するよりも、『キヴォトスの歴史がある地点で枝分かれし、まったく異なる過程を辿って発展した別の系統』と定義した方が、観察されたデータの矛盾が最も少なく説明できます」
「……っ……!」
ウイは絶句した。
本を愛し、歴史を愛し、膨大な古文書の正統な流れを保護してきた彼女にとって、「分岐したキヴォトスの歴史」という概念は、あまりにも常識を揺るがすものだった。
その横で、エリの黄金色の瞳が怪しく輝きを増す。
「にゅふふふ……! なるほど……! つまりそれは……私たちが今生きているこの世界とは異なる、もう一つの世界……『パラレルワールドのキヴォトス』から漂着した、次元の境界を超えた禁断の書……ということですね!?」
「……現時点ではあくまで一つの仮説に過ぎません。ですが」
セイカは端末から目を離し、卓上の黒い古書を凝視した。
「論理的な整合性において、その可能性を排除する正当な理由は存在しません。ウイ、さらに解読を進めることは可能ですか?」
「……っ……! 言われなくても……! こんな不気味で魅力的な謎を突きつけられて、ここでやめられるわけないじゃないですか……!」
ウイは眼鏡をクイッと押し上げると、乱れた息を整え、再び手袋をはめた指先を黒い古書へと向けた。
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それからの時間は、真に没頭の刻であった。
ウイはセイカが構築した「分岐言語の構造変換モデル」を補助線として使いながら、黒い古書のページを一枚、また一枚と解読していった。
記号の羅列が、ウイの脳内で少しずつ意味を持つ「言葉」へと変換されていく。
「……読み進めて、分かったことがあります」
小一時間ほどが経過した頃、ウイが掠れた声で呟いた。
「この本……魔導書や歴史書、あるいは何らかの学術論文の類ではありません。……文章の構成が、極めて個人的です」
「個人的……?」
「ええ。日時の指定こそ特殊な記号で伏せられていますが……『今日、何が起きたか』『誰と会ったか』『何を失ったか』……そういった内容が、主観的な一人称の視点で淡々と綴られています。……これ、一人の人間が自分の生きた証を残すために書き綴った……『手記』です」
ウイの言葉に、部屋の中の空気が一段と重みを増した。
ただの古い資料ではなく、かつてどこかに存在した「誰か」の生の感情が刻まれた記録。
「手記……。その人物は、一体何を記録しているのですか?」
セイカの問いに、ウイはページを指で撫でながら、ぽつりぽつりと解読できた単語を拾い上げていった。
「……崩壊……戦火……空を覆う巨大な影……。……あまり明るい内容ではありませんね。……ここには、崩壊していく世界の中で、最後まで抗おうとした人たちの姿が書かれています」
「崩壊していく……世界……」
ヒナタが胸の前で手を固く握りしめ、悲しげに眉をひそめた。
「……ええ。そして、その記録の中には……何人かの『登場人物』が出てきます。手記の著者が共に行動していたと思われる人物たちです」
ウイはページを凝視し、そこに刻まれた断片的な記述を一つずつ読み上げていく。
「……『空を絶え間なく観測し続け、星の軌道から世界の破滅を試算していた少女』……」
「……っ」
セイカの肩が、微かにピクリと跳ねた。
「……『天を切り裂いて現れた、黒く巨大な宇宙船』……『水色の髪をなびかせ、最後まで引き金を引き続けた兵器の少女』……『全てが終わりを迎える中で、なおキヴォトスを守ろうと足掻いていた者たち』……」
ウイが読み上げる言葉の一つひとつが、重い楔となってその場に打ち込まれていく。
セイカは自分の胸元にある観測端末を握りしめ、無言のままウイの手元を見つめていた。
「(空を観測し続け……破滅を試算していた少女……?)」
それは、どこか自分自身の存在定義に酷似していた。
科学を修め、空を見上げ、客観的なデータによって世界の危機を観測しようとする自らの姿。
だが、手記に記されているその「少女」が辿った結末は、あまりにも過酷で、絶望に満ちたもののように思えた。
__________
「……ウイさん。この手記の著者は、一体誰なのですか?」
エリが、普段の軽快なトーンを完全に潜め、真剣な眼差しでウイに尋ねた。
ウイはページから目を離さず、ゆっくりと首を横に振った。
「……著者自身の名前が書かれていると思われる箇所は、酷く掠れていてまだ読めません。ですが……これだけはハッキリと言えます」
ウイは静かにページを繰り、作業机の上に本を平置きにした。
「……これ、古文書じゃありませんよ。少なくとも、ただの過去の遺物として保管したり、分類したりするべきものじゃないです」
「……では、あなたは何だと判断しますか?」
セイカの静かな問いかけ。
ウイはしばらくの間沈黙し、自身の持つ膨大な本への愛着と、目の前の現実を天秤にかけるように目を閉じた。
そして、静かに目を開けると、真っ直ぐにセイカを見つめた。
「……誰かが、自分の生きた世界で何が起き、どうやって消えていったのかを……絶対に忘れないために遺した『生々しい記録』です。……どこかの世界で、本当にこれだけの悲劇があったという……消せない証明なんです」
ウイの言葉は、専門家としての冷徹な分析を超え、一人の「本を護る者」としての切実な敬意に満ちていた。
異世界の誰かが、滅びゆく世界の中で、血を吐くような思いで書き残した最後の記録。
それが巡り巡って、このトリニティの地下書庫へと辿り着いたのだとしたら──。
「……もう少し、先を読みます」
ウイは再び白い手袋をはめた指先を動かし、手記のさらに奥のページへと進めた。
解読の精度が上がるにつれ、文章の意味がより鮮明に結ばれていく。
「……記録は最終局面に近づいています。……空が落ち、世界が黒い灰に包まれる中で、手記の著者は最後の防衛線を構築しようとしていた……。そして、そこに同行していた『観測者』の少女についての記述が……」
ウイの指が、ページの下部に並ぶ一列の記号の上で止まった。
「……あ」
ウイが小さな声を漏らした。
その表情に、明確な驚愕と戦慄が走る。
「ウイ……? どうしました」
「……これ……この文字列……」
ウイは震える指先で、解読ノートの端にその記号のアルファベット変換を書き殴った。
古代キヴォトス文字の分岐ルールに従い、音写されたその文字列──。
「……あま……のえ……?」
ウイの口から漏れたその音に、室内の全員の視線がセイカへと集まった。
「……っ!?」
セイカの息が止まった。
ウイがノートに書き写した文字列。
そこには、完璧な固有名詞として、紛れもない彼女自身の旧姓──『天野江』に酷似した音韻構造が刻み込まれていたのだ。
『観測者、天野江──最後ノ軌道計算ヲ完了。我ラノ破滅ハ、コレニテ確定ス』
手記のページから読み取れたのは、崩壊する別世界のキヴォトスで、自分と同じ名を持ち、自分と同じように空を観測していた「もう一人のセイカ」が辿った、あまりにも残酷な最期の記録であった。
「……セイカ……さん……?」
ヒナタが不安そうにセイカの顔を覗き込む。
セイカは溢れ出そうになる動揺を必死に抑え込み、冷たくなった指先で自身の端末を握りしめた。
「……ウイ。その先を……読んでください」
「……っ、ですが……!」
「構いません。読んでください。……それが、この記録を持ち込んだ私たちの……私自身の義務です」
セイカの強い言葉に、ウイは息を呑み、再び静かに黒い古書へと視線を落とした。
解読された異世界の記録、そこに刻まれた「もう一人の自分」の影。
未知の古書を巡る探求は、いまや単なる解読の領域を遥かに超え、世界の裏側に隠された深遠なる真実の扉を叩こうとしていた──。