地下の密閉された修繕室。
石造りの壁に挟まれた狭隘な空間には、長きにわたって蓄積された古紙の匂いと上質なインク、そして保存用の薬品が放つツンとした刺激臭が静かに立ち込めていた。
卓上ライトが照射する極めて局所的な青白い光が、黒い古書の不気味な質感を鮮明に浮き彫りにしている。
ウイは白い綿手袋をはめた指先をかすかに震わせながら、羊皮紙とも紙ともつかない謎の材質でできたページを、一枚また一枚と慎重に繰っていた。
解読ノートには、複雑な幾何学記号から音写された文字列が、規則正しく書き連ねられていく。
先ほど判明した『天野江』という、あまりにも重く個人的な一音の判明以来、室内の空気は完全に凍りつき、重苦しい静寂が空間を支配していた。
「……さらに解読を進めます。ここから先は……感情的な記述というより、客観的な数値データの連続です」
ウイの声は湿り気を帯びて静かだったが、そこには図書委員として、そして幾千の文字と言語に向き合ってきた専門家としての強い意地と覚悟が宿っていた。
「『天野江』という名前が出てきた後のページには……膨大な量の天体観測データに、空間歪曲率の測定値、それから……世界規模で進行する崩壊現象の予測シミュレーションまで、びっしりと記録されています。……認めたくはありませんけど、どれも精度は完璧です。こんなもの、偶然で説明できるとは思えません……。この手記を残した人物は……現在のセイカさんが歩んできた経歴と、それから……その頭脳と。……恐ろしいくらい、共通点が多すぎます……」
「……共通点の詳細を提示してください。論理的な比較が必要です」
セイカは胸の内で渦巻く未曾有の動揺を、冷徹な仮面の下に押し殺し、静かに先を促した。
「……ええ。まず、自分の知識と……卓越した技術力を使って、『空見観測研究部』に相当する学術組織を、自ら立ち上げていたことです。……そして、常人には捉えきれないような高次元の天体現象や、キヴォトス全域に及ぶ異常なエネルギーの奔流まで観測していた。……それだけじゃありません。未知の脅威に対抗するための巨大な基盤として、空に浮遊する異質な遺構……つまり、巨大な宇宙船のシステムを利用して……独自の観測・防衛ネットワークを構築しようとしていたんです。……こんなの、偶然の一致で片付けられる話じゃないですよ。セイカさんのやってきたことと……あまりにも、似すぎています……」
ウイが読み上げる内容を聞きながら、傍らに立つヒナタが胸の前で十字を切るように手を固く握りしめる。
「……世界を包み込もうとしている破滅の気配を、誰よりも早く察知して……それを直感やオカルトなんかではなく、徹底的に客観的な数値として算出して、可視化しようとしていた……。……どれを取っても、室笠セイカという生徒が取ってきた行動、そのものなんです。……偶然なんて言葉で片付けるには、あまりにも一致しすぎています……」
「……やはり、私なのですか。あの本に刻まれているのは……私自身の選択の足跡なのでしょうか」
「ええ。少なくとも、この手記の著者は……あなたと同じ構造の頭脳を持ち、同じ動機で天を見上げ、同じように世界を守ろうと足掻いていた人物で間違いありません」
だが、ウイがさらに数ページを慎重にめくった時、その細い指先がピタリと止まった。
丸眼鏡の奥の瞳が、何かを探し求めるように、細かくページの上を何度も往復する。
「……あれ?」
「何か、観測データに異常がありましたか? あるいは、解析不可能な暗号化処理が施されているのですか」
「……いえ。解読そのものは順調です。問題は……その、データじゃなくて……そこに記されている、人間関係の記述なんです」
ウイは解読ノートの端にメモしていた「人物一覧」の項目を、ペンの先で静かに突いた。
「この手記には、著者を技術面や物資面で支援していた協力者、共に戦闘に赴いていたと思われる防衛要員、あるいは高度な理論について言葉を交わしていた研究仲間など……複数人の生徒と思われる存在が記されています。ですが……おかしいんです。決定的な違和感があります」
「何がですか。具体的に述べてください」
ウイは少し言いにくそうに一度視線を泳がせ、やがて腹を括ったように、セイカの真っ直ぐな瞳を正面から見つめ返した。
「……この手記の中には、あなたのすぐ近くにいて、あなたの人生において最も重要な位置を占めているはずの『室笠アカネ』に関する記述が、ただの一箇所も出てきません」
「……アカネが、ですか?」
セイカは眉をひそめた。
「手記の物理的な損傷による欠落、あるいは著者がプライベートな人間関係をあえて記録に残さなかったという可能性は? あるいは、暗号化の工程で私の『天野江』のように、旧姓や別のコードネームで表記されているだけという可能性も十分に考えられます」
「……私も最初はそれを疑いました。だから、あらゆるアナグラムや代入暗号のパターンを検証したんです。ですが……」
ウイは手記の束を慎重に手袋で示しながら、重く首を横に振った。
「この手記の著者は、自分の周りにいた人間について、恐ろしいほど几帳面に記録を残しています。『誰といつどこで出会い、どのような能力を持ち、どういう役割を果たしたか』を詳細に書き留めているんです。それなのに……現在のあなたにとって最も不可分であるはずの人物だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、完璧に欠落している……。これは、記録の省略などではありません」
__________
ウイは解読ノートにまとめた時系列の相関図を整理しながら、淡々と、しかし逃れようのない現実として言葉を重ねた。
「……手記の時系列を正確に追うと、別世界の『天野江セイカ』は、幼少期からただ一人で研究活動を始め、現在のあなたとほぼ同じ年代で、現在の観測部に相当する基盤を一人で作り上げています。ですが……その人生のあらゆるターニングポイントにおいて、室笠アカネとの出会いに相当する出来事が、ただの一度も存在しないんです」
「……」
「学術的な協力関係も、個人的な接触も……一切ない。彼女が歩んだ孤独な軌跡のどこを切り取っても、二人の運命が交差した痕跡が見当たりません」
ウイの提示した分析結果が、修祖室の冷たい静寂の中に重く落ちた。
セイカは無言のまま胸元にそっと手を当て、自らの過去の記憶を静かに遡る。
世界を冷めた数値としてしか捉えられなかった幼少期。空を見上げ、広大な宇宙の冷酷さに怯えていた日々。そして──自分の不完全な世界に介入し、その軌道を大きく変えてくれた、室笠アカネという少女との出会い。
「……つまり。この手記を残した私は……アカネと、出会っていない……?」
「……断定することは、古文書を扱う者として避けるべきですが……この記録から読み取れる客観的な事実として判断するなら……それが最も整合性の高い結論です」
ウイの冷徹なまでに正確な分析。そこに一切の妥協がないからこそ、セイカは反論の言葉を失った。
自分と全く同じ頭脳を持ち、同じように空を観測し、同じようにキヴォトスの滅びを防ごうと奔走した「もう一人の自分」。
だが、その冷たい数式で満たされた人生には、室笠アカネという暖かな存在が、最初から存在していなかったのだ。
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「……手記には、データだけでなく、著者自身の内面や思考プロセスについての手記も残されています」
ウイは手袋をはめた指でページを優しく押さえ、一箇所の文章を静かに読み上げた。
「『観測結果について相談できる相手はいない。しかし、私一人でも計算はできる。客観的な数値さえ出せれば、誰の同意も必要ない』……」
「……っ」
「現在のセイカさんと同じように、極めて理知的で、無駄のない冷静な文章です。……ですが、今のあなたと違って……この手記の彼女は、あまりにも……あまりにも孤独すぎます」
ウイが淡々と読み上げる言葉の数々は、刃となってセイカの胸を刺した。
誰かに己の不安を吐露することもなく、誰かに弱音を漏らして支えを求めることもなく、ただたった一人で世界規模の破滅という途方もない重圧に対峙し、死んだ魚のような目で数字を弾き出し続けていた記録。
『不安を共有することに合理的な意味はない。演算精度を限界まで上げることだけが、私に課された唯一の役割である』
『一人で立つことに疑問はない。私の人生は、最初からそうであったのだから』
「……」
セイカの唇が、微かに震えた。
もし、自分の人生にアカネがいなかったら。
もし自分が一人で空を見上げ続け、一人で世界の重圧を背負い込んでいたら。
手記に刻まれたその痛々しいほど冷徹な言葉たちは、そのまま自分が口にしていたかもしれない言葉そのものだった。
「……たった一人と、出会ったかどうかで」
不意に、静かな声が室内に響いた。
振り向くと、普段は軽快で大げさな態度を崩さないエリが、愛用の帽子を深くかぶり直し、一切の悪ふざけを排した真剣な眼差しで古書を見つめていた。
「……たった一人と出会ったか、出会わなかったか……ただそれだけの違いで、ここまで世界の辿る結末が、人の心が、変わってしまうものなのでしょうか……」
エリの静かな呟きに、ヒナタも胸の前で固く祈るように手を重ね、悲しみに満ちた瞳で頷いた。
__________
「……あ」
ウイがページをさらに数枚めくったところで、再びその指を止めた。
世界の崩壊が決定的な段階に達し、あらゆる防衛線が突破されていく、終末の直前のページだ。
「……ウイ、何が書かれているのですか」
「……手記の終盤、世界の終わりが目前に迫った破滅の渦中で……著者が最後に残した一文があります」
ウイは丸眼鏡の位置を整え、掠れかけた文字を慎重に音読した。
「『もし……私がもう少し早く、誰かと出会えていたなら。この孤独な計算の果てに、違う答えを見出せていたのだろうか』……」
「……誰か?」
「ええ。ですが……その『誰か』が特定の個人を指しているのか、それともただの概念的な願望なのかは書かれていません。……あるいは、ページの激しい摩耗によって、その固有名詞の箇所だけが物理的に消失しているのか……」
セイカはその文章を聞き、強く目を閉じた。
「(アカネ……)」
もし、その手記の著者が最後にすがりつこうとした「誰か」が、アカネだったのだとしたら。
別世界の自分もまた、倒れそうになる極限の孤独の中で、無意識のうちに「自分を暗闇から連れ出してくれる誰か」の存在を狂おしいほどに求めていたのではないか。
自分は、アカネと出会うことができた。
だからこそ、己を縛り付けていた旧姓である「天野江」を捨て、室笠アカネと共に歩む道を選び、冷酷な観測者ではなく「誰かと共に世界を守る者」として立つことができたのだ。
「……私と、この手記の人の決定的な違いは……」
セイカの声は、かすかに震えていた。
「アカネの……室笠アカネという存在の有無……なのかもしれません」
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ウイは「そうかもしれません」とも「違います」とも言わなかった。
古文書と歴史を扱う者として、彼女は安易な同情や客観性を欠いた推測で、目の前の事実を歪めることを絶対に許さない。
「……本に残された客観的な記録から言えるのは、ここまでです。あなた方は非常によく似た思考と人生を歩みながら……決定的に異なる人間関係と環境を生きた、別の存在だったということです」
ウイは白い手袋をはめ直すと、確かな意思を込めた手つきで、さらに次のページへと手をかけた。
「……だからこそ、私たちは知らなければなりません。アカネさんと出会わなかった『天野江セイカ』の世界で……一体何が起き、世界はどうやって滅んだのかを」
ウイがめくった最終章のページ。
そこには、これまで解読してきた古代文字の派生ルールとは明らかに異なる、歪で不気味な記号で記された「ある未曾有の事件」の名称が残されていた。
現在のキヴォトスの歴史においては、未だ起きていない──あるいは、決して起きてはならない、決定的な崩壊の引き金。
「……これは……『色彩』……?」
ウイの表情が、これまでにないほど厳しく引き締まる。
「アカネと出会わなかった世界」で何が起き、どのようにして全てが絶望へと呑み込まれていったのか。
黒い古書が語る真実は、いよいよ世界の裏側に隠された、最も深い深淵へと踏み込んでいく──。