トリニティ総合学園の地下深くに位置する古書館。そのさらに最奥、許可された者以外は足を踏み入れることすら叶わない「密閉修祖室」の空気は、年中変わることのない独特の冷気と古紙の匂いに満たされていた。
円卓の中央に置かれた卓上スタンドライトが、青白い限定的な光の円を卓上に投影している。
その光の輪の中に鎮座するのは、経年劣化によって表紙の革が干からび、黒く焦げたように変色した一冊の古書──別世界から流れてきたとされる『天野江セイカの手記』であった。
特製の保護手袋をはめた指先で、慎重に、まるで繊細なガラス細工を扱うかのような手つきでページをめくっているのは、古書館の管理者であり図書委員長を務める古関ウイであった。彼女の丸眼鏡の奥の瞳は、暗号化された異世界の記述を解読し続けた疲労と緊張によって、微かに血走っている。
「……解読、完了しました」
ウイの掠れた声が、静寂に包まれた修祖室の天井へと低く染み込んでいく。
卓を取り囲むように立っていたエリとヒナタが、同時に息を呑む音が響いた。
「ウイさん……本当ですか? そこに何が書かれていたのですか?」
エリが不安を押し殺した声で尋ねる。
ウイは一度深く吐息をつき、手元の解読ノートを指先でそっと撫でた。
「手記の著者……別世界の『天野江セイカ』の記録ですが……彼女の歩んだ軌跡は、私たちが想像していたものとは根本的に異なっていました。彼女は……アカネさんやその他の誰とも深いつながりを持つことがありませんでした。信頼できる仲間も、支え合える家族も存在せず……ただ一人で『色彩』と呼ばれる概念的災害の解析と迎撃を試み続けた、孤高の観測者でした」
「一人で……ですか?」
ヒナタが胸の前で両手をギュッと握りしめる。
「はい。そして、この手記の凄惨さは……そこに刻まれている文章の無機質さにあります。彼女にとって他者は『関わるべき人間』ではなく、ただの『統計データ』に過ぎませんでした。手記の終盤、キヴォトス全域が崩壊へ向かっていく壊滅的な過程においても、彼女は特定の学園や生徒に介入することなく、ただ『キヴォトス全域のエネルギー消失率』や『各エリアの不自然な空間崩壊速度』を、冷淡な折れ線グラフと計算式として記録し続けています」
ウイはメガネを掛け直すと、解読ノートの最後のページを開き、そこに残された手記の最終ログを朗読した。
『──東部砂漠エリアにおける生存反応、急激に減少。……防衛線の壊滅を確認。だが、介入の必要性なし。私一人で演算を継続する』
ウイの声が途切れる。
「……以上が、手記の全容です。彼女は最後まで誰の手も取らず、誰にも手を伸ばさず……己の絶対的な知性と過給演算のみを信じ込み、最後は計算の限界を迎えて……ただ一人で破滅しています」
__________
修祖室に、氷のように冷たい沈黙が降り積もった。
部屋の壁際に佇んでいた室笠セイカは、無言のまま自らの背後に浮遊する白銀のフィンファンネル群を微かに明滅させた。
圧倒的な長身を包むのは、青と白の洗練された装備。透き通るような紫の双眸は、ウイが差し出した解読ノートのグラフへとまっすぐに向けられている。
「……ウイ」
セイカの静かな、だが深遠な地鳴りのような声音が響いた。
「そのグラフの『東部砂漠エリア』とは……アビドス自治区のことを指しているのですね?」
「……はい。そして……ここからが、この手記の最も恐ろしい『事実』です」
ウイは手元の端末を操作し、かつてこの世界を脅かしかけた『色彩』の襲来データ、および現在「室笠シロコ」としてセイカの娘となった少女──シロコ*テラーに関する過去の観測ログを画面に呼び出した。
「この手記にある『東部砂漠エリアにおける生存反応の完全途絶』のタイムスタンプ……。これを、室笠シロコさん……シロコ*テラーさんが元いた世界線の時系列と照合しました。……完璧に一致します」
「……っ!?」
エリが短い悲鳴を上げて口元を抑えた。
「つまり……どういうことですか、ウイさん!?」
「つまり……手記の『天野江セイカ』が暮らしていた世界こそが、まさにシロコ*テラーさんがいた、あの滅びた世界線だったということです。そして……手記の彼女は、アビドス対策委員会の生徒たちが追いつめられ、命を落とし、シロコさんが絶望の淵に突き落とされたまさにその瞬間すら……ただの『生存反応の減少データ』として数字だけで処理し、見過ごしていたのです」
「そんな……!」
ヒナタがショックのあまり一歩後退する。
「彼女には……悪意があったわけではありません。ただ、誰かと出会い、誰かを愛し、誰かを守るという『人間的な選択肢』そのものが、彼女の孤立した演算式の中に存在しなかった……。だから彼女は、アビドスで少女が傷つき、消えかけていく姿を目の前にしながらも……それを『助けるべき対象』として認識することすらできず、冷酷な数値として記録するだけだったのです」
ウイの説明を聞きながら、セイカはそっと自らの大きな手のひらを目の前に掲げた。
黒き古書を残した「天野江セイカ」と、現在の「室笠セイカ」。
二人は同じ顔を持ち、同じ190cmの長身を誇り、同じ過給演算の理論を扱い、同じ「ソラノミ」という絶対的な兵装を駆る存在である。
持っている能力も、頭脳も、世界の理を計算するスペックすらも、何一つ変わりはなかった。
しかし──二人の歩んだ運命は、ある一つの「分岐点」によって、天と地ほどの隔たりを生み出していたのだ。
「(あちらの私は……誰も愛さず、誰からも愛されなかった。ただの冷徹な計算機として生き、世界を、人を、命を……ただの『数値』としてしか見ることができなかった)」
セイカの脳裏に、かつてアビドスの壊滅した廃墟で出会った「もう一人のシロコ」の姿が、鮮烈な情景として蘇る。
風化しかけたコンクリートの最頂部。
黒く擦り切れた衣装を纏い、歪んだヘイローを明滅させながら、「私は壊れた存在だから、この砂の中で消えてしまえばいい」と絶望の淵で膝を抱えていた少女。
あの日、アビドスの死の領域へ足を踏み入れた時、セイカはこの手記の存在など知る由もなかった。
別世界の自分がどんな最後を遂げたのかも、何も知らなかった。
だが、セイカはあの時、数値を測るためではなく、一人の人間として彼女の前に立ち、その傷ついた心を包み込むように告げたのだ。
『砂狼シロコ。……私の「娘」になりなさい』
『あなたの絶望も、過去の罪悪感も……すべて私の過給演算で受け止め、支えます』
__________
「(……そういうことですか)」
セイカは深く静かに目を閉じ、胸の奥から込み上げてくる温かな情愛と、鳥肌が立つほどの確信を噛み締めた。
「(もし……私がアカネと出会っていなかったら。もし私が『室笠セイカ』にならず、人を数値としてしか見ない冷酷な観測者であり続けていたら……。あの日、アビドスの砂漠で消えかけようとしていたシロコを見つけることも……彼女の手を取り、引き上げることすら……絶対にできなかった)」
手記の「天野江セイカ」が、誰とも関わらなかったがゆえに辿り着けず、最後は孤独の中で破滅していった『誰かを救い、家族にする』という絶対的な正解。
それを、現在の自分は「室笠セイカ」となっていたことで、とっくの昔に達成していたという圧倒的な事実。
運命に導かれたわけでも、手記の予言に従ったわけでもない。
ただ、アカネと出会い、愛を知り、家族という温もりを手に入れていたという決定的な差が、絶望の中にいた一人の少女を「滅びの残骸」から「室笠家の長女」へと救い上げていたのだ。
「……セイカさん」
修繕室の静寂を破り、セイカの隣に立っていたエリが、そっと彼女の顔を見上げた。
「……この本を、一緒に調べられて……本当によかったですね」
「エリ……」
「最初は壊れた悲しい記録に思えましたけれど……。セイカさんが諦めずに私と一緒に図書館の奥深くを捜索して、ウイさんに解読してもらったからこそ……セイカさんが今持っている『幸せ』が、どれほど奇跡的で、かけがえのないものか……証明された気がします」
エリの澄んだ瞳と優しい微笑みに、セイカの胸の奥がじんわりと温かさに満たされていく。
「……ええ。感謝します、エリ。あなたという存在が私と共にこの古書を調査してくれなければ、私はこの重要な解に辿り着くことができませんでした」
「ふふ、お役に立てて光栄です。……さあ、解読も無事に終わりましたし、ウイさんにこの本を預けて……おうちに帰りましょう? ソラノミで、大切なご家族が待っていらっしゃいますよ」
エリの言葉に、セイカは力強く頷いた。
「……ウイ。この古書はトリニティの最重要保管庫へ厳重に秘匿してください。……シロコに見せる必要はありません。彼女が知るべきなのは、過去の滅びの数値ではなく……我が家で過ごす未来だけですから」
「……ええ、わかりました。歴史の異聞として、絶対に彼女の目には触れさせないよう秘匿しておきます」
「それでは、失礼します。エリ、ヒナタ、ウイ……心より感謝を」
エリたちの温かな見送られながら、セイカは重厚な地下修祖室の扉を後にし、地上へと向かって歩み出した。
__________
トリニティの敷地を抜け、上空に潜空待機させていた巨大宇宙戦艦「ソラノミ」のトランスポート光線に包まれた瞬間、セイカの全身を心地よい艦内の温もりと日常の匂いが包み込んだ。
プシュー……という重厚な気密音とともにメインハッチが開放される。
「──お父さんの帰還シークエンスを確認。ただちに艦内室温を最適値である22.5度に維持し、お出迎えプロトコルを完了します」
ハッチのすぐ目の前に立っていたのは、ミレニアムの制服を隙なく着こなした少女──室笠ケイであった。小型端末を胸元に抱え、生真面目な瞳でセイカを見上げた。
「お帰りなさい、お父さん。……本日の夕食メニューに関する長時間の討論ですが、無事にお母さんとお姉ちゃんの意見調整を完了いたしました」
「ただいま、ケイ。どのような着地点になりましたか?」
「お母さんが提示された『特製ハンバーグ』と、お姉ちゃんが強く主張された『カレー』の双方を統合し……『カレーハンバーグ』とする案で最終合意が形成されました。極めて合理的かつ満足度の高い選択です」
淡々と報告するケイの表情には、家族の仲裁をやり遂げたという小さな誇らしさが滲み出ている。
すると、ケイの背後の廊下から、静かで落ち着いた足音が続いて響いてきた。
「……お帰り、お父さん」
灰色の髪をふわりと揺らし、美しい刺繍が施されたエプロンをつけた少女──室笠シロコが姿を現した。
かつて世界の終わりに一人残され、アビドスの絶望の砂漠で佇んでいた『シロコ*テラー』の頃の鋭すぎる諦観や静寂な冷たさは、もうそこには存在しない。口数は少ないままだが、その瞳には、家族と共に暮らす日常のあたたかな温度が確かに宿っていた。
「……お母さんと一緒に、野菜を切った。……手伝い、ちゃんと出来たと思う」
「……肯定します。お姉ちゃんの包丁裁きは非常に正確であり、寸分の狂いもありませんでした。怪我も皆無です」
ケイが横から誇らしげに補足するように頷く。シロコは「……ん」と小さく吐息を漏らし、セイカの前に佇んだ。
「……よく頑張りましたね、二人とも」
セイカは少しだけかがむと、手を差し出し、シロコとケイの頭の上に同時に乗せ、愛おしそうに優しく撫でた。
「……ん。お父さんの手……すごく温かい」
シロコは静かに目を細め、セイカの大きくて温かな手のひらに身を委ねるように、小さく頭を寄せた。
__________
「ふふ、セイカさんったら。帰ってきたばかりなのですから、玄関で子供たちを甘やかして長立ちさせてはダメですよ?」
キッチンの奥から、立ち上る美味しい料理の湯気とともに、洗練された仕草でおしぼりを手にした室笠アカネが優しく微笑みながら歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ、セイカさん。……何だか、とても深く尊いお仕事をされてきたお顔をなさっていますね?」
「……アカネ」
セイカは妻であるアカネからおしぼりを受け取り、愛する妻、そして自分の両脇に立つ大切な二人の娘たち──シロコとケイの顔を順番に見つめた。
冷たい地下修祖室で見た、あの黒き古書。
アカネと出会わず、人を数値としてしか見ず、一人で計算し、一人で破滅していった「天野江セイカ」の悲劇的な記録。
だが──今、自分の目の前にあるのは。
「……お腹、空いた。早く食べよう。お母さんのご飯、冷めちゃうから」
シロコが静かにそう呟くと、セイカの服の裾をギュッと小さく掴み、隣に立つ妹のケイへと視線を向けた。
「……行こう、ケイ」
「了解しました、お姉ちゃん。……配膳作業およびカトラリーの準備シークエンスへと移行します」
頷く次女のケイと、その手を静かに引いて歩き出す長女のシロコ。アカネは「ふふ、仲良しですね」と目を細めながら二人の後を追い、キッチンへと戻っていく。
リビングに広がる温かい光。立ち上るスパイスの甘い香り。
かつて世界の終末でたった一人残され、すべての希望を諦めていた少女が、今や当たり前のように「お姉ちゃん」と呼ばれ、家族の中心で静かに微笑んでいる。
一人で計算し、一人で破滅した別世界の自分の手記。
だが、現在の室笠セイカには──どんな不条理も、どんな色彩の脅威も破ることのできない、絶対的な「我が家」が存在しているのだ。
「……シロコ」
セイカの呼びかけに、ダイニングテーブルへ向かおうとしていたシロコが足を止め、静かに振り返った。
「……なに? お父さん」
「明日も、明後日も……ずっと、この家で温かいものを食べ、妹と笑い、平穏に過ごしなさい。それが、あなたの新しい日常であり……義務です」
シロコは一瞬だけ丸い瞳を見開いたあと、ほんのりと唇の端を緩め、静かな、けれど心からの温もりが宿った返答を漏らした。
「……うん。……分かった。……お父さん」
過去の滅びの記憶も、冷たい数値の記録も、すべては乗り越えられた。
宇宙戦艦ソラノミは、夜空の静寂の中で温かな光を放ち続けている。
そのあたたかなリビングには、家族の穏やかな会話と、幸せな夕食の匂いが、どこまでも満ち溢れていくのだった。