宇宙戦艦「ソラノミ」の夜間航行モードへの移行を示すように、艦内のメイン照明が深みのある琥珀色へと落ちていく。
夕食と配膳作業を終え、シロコとケイはそれぞれの自室へと戻っていた。
広いリビングには、静かなエンジン音の微振動と、蒸気炉から漏れるわずかな温もりが漂っている。
トントン、と磁器のカップがテーブルに置かれる小さな音が響いた。
「お待たせいたしました、セイカさん。今夜はカモミールとアールグレイのブレンドです。……少し、お心が落ち着くようにと淹れてみました」
アカネが優しく微笑みながら、セイカの向かいのソファへと腰を下ろす。
ソファに身を預けていたセイカは、立ち上る湯気を静かに見つめていた。
普段の彼女であれば、妻の細やかな配慮に対して「配慮に感謝します。ですが私の精神状態に乱れはありません」と即座に客観的な数値を返していたはずだった。
しかし──今夜のセイカは、ただ静かに沈黙を守っていた。
そのわずかな間を、アカネは見逃さない。彼女は自らのカップを両手で包み込み、急かすことなく柔らかに問いかけた。
「……今日は、ずっと……何かを深く深く、考え込んでいらっしゃいましたね」
「……」
セイカは透き通るような紫の双眸をゆっくりと閉じ、そして開いた。
「……アカネ」
「はい」
「……あなたにだけ、話しておきたいことがあります」
「ええ。何でしょうか……どのようなことでも、お聞きします」
アカネは深く頷き、静かにセイカの言葉を待つ姿勢を取った。
__________
セイカはテーブルの上に置かれた温かい紅茶のカップに視線を落としながら、静かに、けれど正確に言葉を紡ぎ始めた。
「今日、私はエリと共に、トリニティの最深部……図書委員会地下の古書館に行きました。そこで、ある一冊の古書──『天野江セイカの手記』と呼ばれるものの解読を、古関ウイに依頼していたのです」
「『天野江セイカの手記』……」
アカネが小さくその名を繰り返す。
「はい。ウイによる解読結果は、極めて無機質なものでした。……手記の著者である『天野江セイカ』は、他の誰とも深い関係を築くことがありませんでした。信頼できる仲間も、守るべき者も存在せず……ただ一人で『色彩』の解析を試み続けた、孤高の観測者です」
「……誰とも、関わらずに?」
「ええ。彼女の手記に記されていたのは、個人の名前でも、誰かとの想い出でもありません。キヴォトス全域が崩壊していく凄惨な過程においても……彼女は特定の学園や生徒に介入することなく、ただ『全域のエネルギー消失率』や『防衛線の崩壊速度』を、冷淡なデータとしてグラフ化し続けていました」
セイカは言葉を区切り、一拍の吐息を置いた。
「手記の最後……世界が完全に滅び去るその瞬間まで、彼女は誰の手も取らず、誰にも手を伸ばしませんでした。ただ一人で過給演算の限界を迎え……破滅していったのです」
アカネは口元に手を当て、静かにその悲劇的な記録を受け止めていた。
「……悲しい記録ですね。一人で世界の終わりを計算し続けるなんて……どれほど冷たく、寂しい場所だったのでしょう」
__________
アカネの痛ましそうな言葉を聞き、セイカは緩やかに首を横に振った。
「……アカネ。私が今日、最も打ち明けたかった核心は……そこにあります」
「……核心、ですか?」
「はい。……名前の通り、あの手記を書いたのは、私です」
「……え?」
アカネの美しい瞳が、微かに揺れた。
「正確に言えば……私と同じ容姿、同じ知識構造、同じ思考原理を持った……『別世界の私』です」
セイカは自らの胸元に手を当て、淡々と、しかし重々しく語り続ける。
「ウイが解読したデータと、私の内部演算回路を照合しました。……能力的な差は、何一つありませんでした。過給演算の出力も、ソラノミを操る戦術知能も、世界の理を解析するスペックも……あの手記を残した私と現在の私との間には、何の優劣も存在しなかった」
「能力差が……ない……」
「ええ。能力でも、才能でも、生まれ持った性質でもない。……私とあの手記の私を分けたのは、能力ではなく……『生き方』そのものでした」
セイカの瞳に、言いようのない深遠な光が宿る。
「あの手記の私は……世界を、人を、命を……ただの『演算の数値』としてしか見ることができなかった。だからキヴォトスの少女たちが破滅していく瞬間すら、ただのデータとして無視し……最後は一人で破滅したのです」
__________
静まり返るリビング。
セイカはまっすぐにアカネの目を見つめた。
「……アカネ。二人の私を決定的に分けた分岐点……それは、あなたです」
「……私、ですか?」
「はい。……もしも私が、過去にあなたと出会っていなかったら。もしも私が『室笠セイカ』にならず、誰かを大切にし、愛するという感情を知らない冷酷な観測者であり続けていたら……」
セイカは静かに、自らの大きな手を握りしめた。
「私は……手記の私と全く同じ道を辿っていたはずです。誰かを愛することを知らなければ、家族という概念を理解することもできなかった」
セイカの口から語られるのは、論理的な推論を超えた、確固たる真実であった。
「私がケイを迎え、シロコを救い、今こうしてソラノミで暮らしているのは……私が優れた観測士だからではありません。……あなたと出会い、あなたを愛したことで……私という存在の演算式そのものが、作り変えられたからです」
__________
アカネはすぐには言葉を発しなかった。
カモミールティーの香りが漂う中、彼女はセイカの言葉を一つひとつ、胸の奥で大切に噛み締めるように静かに沈黙を守っていた。
やがて、アカネはふっと柔らかく、どこか少しだけ切ない微笑みを浮かべた。
「……では、私はセイカさんの人生を、大きく変えてしまったのですね」
「ええ。変えられました」
セイカは迷いなく即答した。
「ですが……後悔は、ただの一微塵も存在しません」
その言葉を聞いた瞬間、アカネの微笑みから切なさが消え、温かな光が満ちていく。
「ふふ……それなら、よかったです。……私も、セイカさんと出会えたことを、一度だって後悔したことはありません」
アカネは手元から視線を上げ、セイカを見つめた。
「『運命』だったから、こうなったのではありませんね。……あの日、セイカさんが私を選んでくださって、私がセイカさんの隣に立つことを選んだ……。私たちがひとつひとつ積み重ねてきた『選択』の結果が、今の私たちなのですね」
「……その通りです、アカネ。私たちの選択に、誤りはなかった」
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「……そして、アカネ。あの手記を解読したことで……私はもう一つ、決定的な真実を知ることになりました」
「決定的な真実……ですか?」
「ええ。……シロコが元いたあの世界が、どのようにして破滅へと向かったのか……その構造的な崩壊プロセスです」
セイカは深く息を吐き、重々しい声音で言葉を続けた。
「シロコ自身も……『色彩』の襲来によって仲間を失い、世界が崩壊したという結果しか知らなかったはずです。ですが、手記の私はその全過程を冷酷なデータとして記録していました。特定の防衛ラインの崩壊、通信網の途絶、各学園の分断……そしてアビドス対策委員会が、どのような順序で追い詰められ、途絶えていったのかまで」
「……そんなことまで……」
アカネが胸元に手を当て、痛ましさに息を呑む。
「逃げ場のない、完璧な連鎖的破滅でした。あちらの私が観測していたデータは、まさにあの世界の死に瀕していく悲惨な足音そのものだったのです。……あの子は、それほどまでに絶望的な連鎖の中で一人取り残され、戦い続けて、最終的にプレナパテスとともにこちらの世界に来た……」
セイカは自らの大きな手をそっと握りしめた。
「あの崩壊の全容を知り……私は改めて、あの日アビドスで出会ったシロコのことを思いました。あの時、私が『私の娘になりなさい』と手を差し伸べられたのは……私の中に、あなたと出会ったことで生まれた『親としての愛』がすでに芽生えていたからです。もし手記の私のように冷酷な観測士のままだったなら、あの子の生存反応すらただの異常数値として切り捨てていたでしょう」
セイカの言葉を受け、アカネもまた、自分がシロコの「母親」となった日のことを温かく思い返していた。
「あの子が……シロコが初めて私を『お母さん』と呼んでくれた日のことを、私は今でも鮮明に覚えています。……少しぎこちなくて、照れくさそうにしていて……でも、すごく温かい声でした。あの子が私たちの娘になってくれたことも……私たちが選択してきた答えの、一番愛おしい証明ですね」
__________
「……ただし」
セイカの声音が、再びきっぱりとした凛とした威厳を取り戻す。
「この手記のこと……そして元いた世界がどうやって滅び去ったかの全容について、シロコに話すつもりはありません」
「……あの子を守るためですね」
「はい。理由はいかがわしい隠し事をしたいからではありません。あの子には……自分が元いた世界がどのように滅んだかという過酷な過去の影に縛られることなく……今、ここに存在する『室笠家の長女』として、ただ前だけを見て生きてほしいのです」
セイカの断固とした意志に、アカネも深く頷き、賛同した。
「ええ、私も全く同じ意見です。シロコには……過去の惨劇の記録ではなく、今日食べた美味しい夕食のことや、明日ケイと何をするかという『今の幸せ』だけを大切にしていただきましょう」
二人の間で、シロコの背負う悲劇を静かに包み込み、未来へと導くための固い約束が結ばれた。
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会話が一段落し、静寂が再びリビングを包み込もうとしたその時――。
アカネはふと、セイカの横顔をじっと見つめた。
凛とした佇まいを誇り、過給演算を駆使してどんな難局も打ち破る「最強の観測士」。
だが、今のセイカの中に、アカネは微かな「揺らぎ」を感じ取っていた。
「……セイカさん」
「はい、アカネ」
「……もしかして。ほんの少しだけ……お怖かったのではありませんか?」
「……っ」
セイカの息が、わずかに止まった。
自分と全く同じ知性、同じ能力を持った存在が……世界の崩壊を冷淡に計算し続け、誰一人愛さず、誰からも愛されず、孤独の中で破滅していった。
もしも、自分がアカネと出会う未来を選んでいなかったら。もしも、一歩間違えていたら自分もあの冷酷な観測の果てにいたのかもしれないという……存在の根底を揺るがすような一瞬の恐れ。
普段のセイカであれば、自らの感情を客観的に解析し、「恐れという感情は演算の障害です」と否定していただろう。
しかし――目の前にいるのは、世界でたった一人、自らの心を預けた妻であった。
セイカは数秒間の静かな沈黙の後……小さく、本当に小さく息を吐き出した。
「……はい。……少しだけ」
己が孤独な破滅の道を辿っていたかもしれないという、過給演算ですら拭いきれない一瞬の恐怖。
アカネは静かに立ち上がると、セイカの隣へと腰をかけ直した。
そして、セイカの大きくて温かな手を、自らの両手で包み込むようにギュッと握りしめた。
「でしたら……これからも、ずっと私の隣にいてくださいね」
アカネの掌から伝わってくる、優しく確かな温度。
セイカはその温もりに引き寄せられるように、握り返した。
「……当然です。私の帰る場所は、あなたがいる場所以外に存在しません」
「ふふ……ええ。私たちが出会ったことで生まれた『今』を……これからも大切に作っていきましょう、セイカさん」
「……ええ。私たちの選択が……シロコとケイの明日へ、そして未来へと繋がっているのですから」
過去の悲劇的な別世界を否定し、呪うのではない。
あの孤独な世界が存在したからこそ、今手の中に存在するアカネの温もり、シロコの笑顔、ケイの生真面目な声の価値が……何物にも代えがたい絶対の宝物として浮き彫りになる。
セイカの胸から、一瞬の恐れは完全に消え去っていた。
あとに残ったのは、家族を守り抜くという、過給演算をも超えた圧倒的な愛と確信だけであった。
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「……そろそろ夜も更けてまいりましたね。冷めないうちに紅茶をいただきましょう」
「ええ、いただきます」
二人は静かに温かい紅茶を飲み干し、カップを洗面台へと下げた。
ソラノミの夜間照明がさらに一段落落ち、静寂が深まっていく。
セイカとアカネは並んでリビングを出て、静かな艦内の廊下へと踏み出した。
廊下の先――少し進んだ場所には、室笠家の長女であるシロコと、次女であるケイが眠る居住区の扉が並んでいる。
セイカは足を止め、その扉へと静かに視線を向けた。
あの凄惨な滅びの連鎖を生き延びた少女が、今は温かいベッドの中で穏やかな寝息を立てている。
アカネが、そっとセイカの隣に並び立つ。
「……ふふ。二人とも、とても良い夢を見ているでしょうね」
「……ええ。間違いありません」
セイカはもう、暗い過去の記録や、別世界の孤独へと振り返ることはなかった。
その透き通るような紫の双眸には、ただまっすぐに、愛する家族と共に歩む未来だけが映し出されていた。
「……寝ましょう、アカネ」
セイカが静かに告げる。アカネは嬉しそうに目を細め、妻として彼女の腕にそっと手を添えた。
「はい。……一緒に寝ましょう」
穏やかな足音が、夜のソラノミの廊下に二つ並んで響いていく。
不条理な滅びの記録も、冷たい観測データも超えて――室笠家のあたたかな夜は、どこまでも静かに、深く更けていくのだった。