トリニティでの『天野江セイカの手記』の解読作業から数日が経過していた。
宇宙戦艦「ソラノミ」の最上層に位置する観測ラウンジには、ガラス張りの天井越しに透き通るようなキヴォトスの青空と、遥か上空を流れる雲の海が広がっている。
パチ、とチェスの駒が木製盤を叩く小さな音が響いた。
「ほう……セイア、なかなか思い切った手を指すではないか」
小さな手で顎を撫でながら笑みを浮かべているのは、山海経・玄龍門の門主であり、空見観測研究部の部員でもある竜華キサキである。対座するトリニティ・ティーパーティーの百合園セイアは、優雅に紅茶のカップを傾けながら細い目をさらに細めた。
「ふふ、勝負は盤上の駒数だけで決まるものではないからね、キサキ」
そんな二人の対局から少し離れたソファー席では、もう二人──ワイルドハント芸術学院・オカルト研究会の白尾エリと衣斐レナが、端末のホログラムモニターを挟んで向かい合っていた。
レナは空見観測研究部を兼部しているためソラノミへの出入りは日常茶飯事だが、今回は「先日の古書調査で少し気になることがある」というエリを伴っての訪問だった。
「ねえ、レナちゃん……やっぱり私、どうしても考えてしまうのです」
エリが、手元に広げたメモデータを愛おしそうになぞりながら呟いた。
「どうして同じ『天野江セイカ』でありながら……あの手記に残されていた彼女と、私たちが知っているセイカは、あんなにも違っているのでしょう?」
エリの問いかけに、レナは肘を吐いてフゥと小さく息を漏らした。
「またオカルト的な話? ……まあ、今回は私もちょっと気になってたけどさ」
レナは空見観測研究部の部員として、セイカの扱う「過給演算」や次元観測の凄まじい精度を誰よりも知っている。
「手記の解析データを見る限り、あっちのセイカさんと今のセイカさんの『スペック』には何の差もなかった。過給演算の出力も、知性も、世界線を分析する能力も全部同じ。……怪異や霊的な呪いの類じゃないのは確かよ。能力が同じなら、違いを生んだのは置かれた環境か……あるいは、本人が選んだ何かなんじゃないの?」
「環境、と選択……」
エリは視線を天井の青空へと向けた。
「でも、世界線が違うという理由だけで……誰一人救えず、誰の手も取らずに孤独に滅びてしまうなんて、あまりにも悲しすぎます。オカルト的な視点から言えば……そこには何か『目に見えない、数値では説明できない因子』が働いていたのではないかと考えてしまうのです」
二人のやり取りを静かに聞いていたセイアが、チェスの駒を指先で弄びながら口を開いた。
「目に見えない因子、か。……エリ、それはあながちオカルトと切り捨てることもできないのかもしれないよ」
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「セイアさん……?」
エリが振り返ると、セイアは温かな紅茶の湯気の向こうから静かに微笑みかけていた。
「人はね、誰と出会ったかによって、自分自身の存在の形すら変えてしまう生き物なのだよ。あちらの世界のセイカには……誰かを守りたいと思う『きっかけ』も、誰かを愛するという『選択肢』も与えられなかったのかもしれない」
セイアはゆっくりとカップをソーサーに戻した。
「対して、今のセイカには……アカネという存在との決定的な出会いがあった。そしてその出会いが土台となり、シロコやケイを迎えるという家族の繋がりが生まれたのだ。運命そのものよりも……彼女たちが積み重ねてきた『選択』が、世界線を分けたのではないかな」
すると、キサキがフッと鼻を鳴らし、腕を組みながら口挟んだ。
「ふむ……セイアの言わんとすることは解るが、妾に言わせれば『アカネとの出会い』という一つの奇跡だけを特別視するのも、少々不十分ではないか?」
「おや、キサキ。君は違う見解をお持ちかな?」
「特別な出会いがあったとしても、それを拒絶し、孤独を選ぶ生き方だってあったはずじゃ。……今のセイカが今のセイカであるのは、彼女自身がアカネの手を取ることを選び、シロコを娘として迎えることを選び、ケイを家族として受け入れることを選んだからに他ならん」
キサキの強い眼差しが、ラウンジの空間を射抜く。
「一つの大きな奇跡ではなく、日々繰り返される無数の小さな選択……それこそが、今の『室笠家』という揺るぎない城を作り上げたのだ。セイカ自身の意志を忘れてはならんよ」
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空見観測研究部の二人──セイアとキサキの深い言葉に、エリとレナはしばらく黙り込んでいた。
やがて、エリが静かに、ぽつりと本音を漏らした。
「……私は、やっぱり……あの手記を書いた別世界のセイカが、少し可哀想だと思ってしまうのです」
「エリ……?」
「彼女の冷酷さを責めることなんてできません。誰かを愛する温もりも、家族と食べる夕食の味も知らないまま、一人で世界の終わりを計算し続けるなんて……。ただ『誰かと出会う機会』がなかったというだけで、あんなにも寂しい結末を迎えてしまったのですから」
エリの優しくも切ない言葉に、普段はサバサバとした態度をとるレナも、珍しく素直な表情を見せた。
「……そうね。もし……もしあっちのセイカさんにも、たった一人でもいいから隣にいてくれる奴がいたら……何か、変わってたのかもね」
ポツリと呟いたレナの横顔を見て、エリは目を丸くした。
「レナちゃん……」
「な、何よ! 私だってそれくらい考えるわよ! 別に怪異の心配だけしてるわけじゃないんだから!」
慌てて赤くなってツンと背を向けるレナ。その姿を見て、セイアは可笑しそうにクスリと笑った。
「ふふ、二人とも……良い顔をするようになったね」
「へ? セイアさん……?」
「君たち自身もまた、そうではないかい? 『オカルト研究会』という場所で出会い、互いに支え合い、こうして部境を超えて集っている。……君たちの今の在り方もまた、誰かとの繋がりによって変えられた結果なのだよ」
セイアに指摘され、エリはポッと頬を染め、レナはますます気まずそうに明後日の方向を向いた。
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その時──。
『──ピピッ、警告。艦内メインフレームにて、未知の波形干渉を検出』
観測ラウンジの壁面に埋め込まれたアナウンススピーカーから、機械的な合成音声が響き渡った。同時に、ホログラムモニターに見たこともない複雑な波動データが明滅し始める。
「な、何!? システムの異常!?」
レナが慌ててソファーから立ち上がり、端末を操作する。
「波形パターン……一致率該当なし!? え、ちょっと待って、これって……」
エリがゴクリと唾を飲み込み、少し怯えたように周囲を見回した。
「……ま、まさか、幽霊……!? 別世界のセイカさんの残念(念留体)が、ソラノミに現れたのでしょうか!?」
「やめてよエリ先輩! 冗談でもそういうの笑えないから!」
「ほう。ソラノミの艦内で未知の現象とな。これは興味深いのう」
怯える二人とは対照的に、キサキは扇子を口元に当てて興奮気味に目を輝かせている。セイアもまた、興味深そうに顎を触った。
「……さて。科学の戦艦ソラノミに現れた『何者か』の正体……確かめに行くとしようか」
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4人はラウンジをあとにし、艦の中央観測室へと急いだ。
観測室のメインコンソールでは、巨大なホログラムディスプレイが淡い緋色の光を放ちながら、ゆるやかな波形を描き続けていた。
「レナちゃん、解析は!?」
「今やってる! ……待って、これ、幽霊でも外部からのハッキングでもないわ」
コンソールを叩いていたレナが、不思議そうに首をかしげた。
「これ……ソラノミの過給演算データベースの最深部に残っていた『過去の観測データの残響』よ。セイカが以前、世界線の予測演算を行った時のログが、何かの拍子に再展開されたみたい」
「過去のデータ……?」
エリがディスプレイに表示された数値の羅列に近寄る。
「……不思議です。これは未来を予測するための複雑な数式とグラフの集合体のはずなのに……どうしてでしょう。見ているだけで、胸の奥がぽかぽかと温かく感じるのです」
「……うむ。無機質な数字の羅列のはずだが、どことなく穏やかな波形をしておるな」
キサキもディスプレイを見上げる。
そこに記録されていたのは、世界線崩壊の予測などではない。今のセイカが選択した未来──アカネと共に過ごす日常、シロコやケイと紡ぐ家族の時間の広がりを、過給演算によって数値化した「未来の予測値」であった。
レナは小さく息を吐き、微笑んだ。
「数字だけじゃ説明できないんじゃない? ……こういうのってさ」
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「──皆さん。そこで何をされているのですか?」
静かな、しかし凛とした声が観測室の入り口から響いた。
振り返ると、そこには艦内巡回と観測作業を終えた観測士──室笠セイカが立っていた。紫の双眸で4人を交互に見つめている。
「あ、セイカさん!」
レナが一瞬ギクッとしたように肩を跳ねさせ、慌てて手を振った。
「べ、別に! 何でもないわよ! ちょっとソラノミの幽霊……じゃなくて、システムの誤作動を調べていただけだから!」
「……幽霊、ですか。ソラノミの機密隔壁および精神波シールドの精度を考慮すると、霊体等の存在確率は極めてゼロに近いですが」
真顔で至極真面目に答えるセイカ。その生真面目な回答に、エリが耐えかねたようにクスクスと小さく笑い出した。
「ふふっ……」
「おや、セイアもキサキも……エリまで、何を笑っているのですか? 私は客観的な確率論を述べただけですが……」
首をかしげるセイカを見て、セイアとキサキも意味深な笑みを浮かべた。
「いや、気にしないでくれたまえ、セイカ。君が相変わらず君であってくれたことが、少し嬉しかっただけだよ」
「……何か、私に隠していることはありませんか?」
セイカが微かに眉をひそめると、エリが代表するように一歩前へと出た。
「セイカ」
「はい、エリ」
「先ほどまで、みんなでセイカの話をしていました。……別世界の手記のことも。でも私、今こうしてセイカとお話しできて、本当に良かったと思っています」
エリは、透き通るような純粋な笑顔でセイカを見つめた。
「セイカが今……ソラノミで、アカネさんやシロコちゃん、ケイちゃんと一緒にいて、とても幸せそうで……本当によかった、と思っていたのです」
「……」
エリのまっすぐな言葉を受け、セイカは一瞬だけ目を丸くした。
そして、己を囲む4人の仲間たち──ワイルドハントのオカルト研究会として寄り添うエリとレナ、空見観測研究部として深い思索を共にするセイアとキサキの姿を、ゆっくりと視線に収めた。
別世界の手記を残した彼女は、誰もいない冷たい空間で、一人で世界の終わりを計算していた。
だが……今の自分には、帰るべき「家族」がソラノミにおり、こうして言葉を交わし、心を寄せ合える「仲間」たちがいる。
セイカの唇が、ごく微かに、けれど確かに柔らかく緩んだ。
「……そうですか。……ならば、私も恵まれていますね」
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観測室のトラブルチェックを終え、5人は再びラウンジへと戻っていた。
すっかり日が落ち、天井のガラス越しには、キヴォトスの澄み渡る夜空と、数多の星々が散りばめられた銀河が広がっている。
「では、妾たちはそろそろ帰還としよう。あまり長居しては、アカネの夕食の邪魔になってしまうからの」
「ふふ、そうだね。今日も素晴らしい時間をありがとう、セイカ」
キサキとセイアが別れを告げ、ソラノミの転送プラットフォームへと向かっていく。
「私たちも戻りましょうか、レナちゃん」
「そうね。……あ、セイカさん! また観測データの整理、手伝いに来るから!」
レナが照れくさそうに吐き捨てるように言い、エリの手を引いて歩き出す。
だが、プラットフォームへと向かう直前、エリは足を止め、振り返ってソラノミの大きなガラス窓から夜空を見上げた。
「……エリ先輩?」
「レナちゃん。……やっぱり、誰かと一緒に見る星空は……ひとりで見るより、少しだけ綺麗に見えますね」
「……何よそれ。オカルト研究会っぽい詩的なこと言っちゃって」
レナは呆れたように言いながらも、エリの隣に並び、一瞬だけ同じ星空を見上げた。
「……まあ、悪くはないんじゃない? ひとりで見るよりはさ」
二人のやり取りを背後で見送りながら、セイカは静かに自らの胸に手を当てていた。
夜の静寂がソラノミを包み込む。
だが、かつての別世界のセイカが感じていたであろう冷たい孤独は、どこにも存在しなかった。
この戦艦には、そしてこの場所には、数値では決して説明できない温かな繋がりが……しっかりと根を張っているのだから。