宇宙戦艦「ソラノミ」の朝。
居住区のメインキッチンには、今朝も香ばしいパンの匂いと温かなスープの湯気が漂っていた。
だが、今朝の光景はいつもと少し違っていた。
キッチンへ足を踏み入れたのは、室笠セイカである。普段通り凛とした佇まいで、「おはようございます、アカネ」といつもの挨拶を口にしようとした──その直前のことだった。
朝食の準備の手を止めたアカネが、珍しく自分からトコトコとセイカの方へ歩み寄ってきたのだ。
「あ……」
セイカが言葉を発するよりも早く、アカネは小さな両手をセイカの腰へ回すと、そのまま静かにセイカの広い胸元へと己の頭を預けた。
ぎゅっ、と寄り添う小さな身体の重みと体温。
「……ッ!?」
その瞬間、あの過給演算を駆使し、どんな強敵や難局に遭遇しても一切動じない最強の観測士・室笠セイカが、まるで彫像のようにその場に完全硬直した。
背筋がピんと伸び切り、上げた手は空中で迷子になり、紫の双眸は限界まで見開かれている。内部の処理能力(CPU)が一瞬で全ラインオーバーフローを起こしたかのごとき、劇的な狼狽ぶりであった。
「……あ、アカネ……?」
掠れた声でどうにか問いかけるセイカ。
アカネはセイカの胸に顔を埋めたまま、耳元でふふ、と可愛らしく忍び笑いを漏らした。
「……おはようございます、セイカさん。……少しだけ、このままでいてもよろしいでしょうか?」
うなじ越しに伝わってくるアカネの吐息。
固まっていたセイカの脳内演算回路が弾き出した回答は、迷うまでもなく──いや、0.0001秒の遅延すらなく即答であった。
「……もちろんです」
セイカは空中で彷徨っていた大きな手をゆっくりと降ろし、アカネの細い背中をそっと、壊れものを扱うかのように優しく包み込んだ。
「……あなたがそうしたいのであれば、永久にこのままでも構いません」
「ふふ、永久は少し困ってしまいますけれど……ありがとう、セイカさん」
アカネは満足そうに、セイカの胸元へさらに深く寄り添うのだった。
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朝食を終えた午前中。
セイカはリビングのメインコンソールに向かい、ソラノミの次期航路データおよび空間観測値のチェックを行っていた。
トントン、と指先でホログラムキーボードを叩くセイカ。その表情はいつもの冷徹で知的な「艦長・観測士」の顔に戻っている──はずだった。
そこへ、お茶の入ったトレイを持ったアカネが歩み寄ってきた。
「セイカさん、お茶を淹れましたよ」
「感謝します、アカネ。そこに置いていただければ……」
セイカが言葉を言い切る前に、アカネはカップをテーブルに置くと、すっとセイカの真横のスペースに腰を下ろした。
そして、当たり前のようにセイカの右腕に自分の両腕を絡め、肩へと頭をちょこんと預けてきたのだ。
「……少しだけ、寄りかからせてくださいね」
「……っ」
キーボードを叩くセイカの指が、ぴたりと止まった。
横目で見下ろすと、自分の右腕にしっかりと抱きつき、嬉しそうに目を細めている妻の姿がある。
「……アカネ」
「はい、セイカさん」
「……『少しだけ』とは、客観的な数値で表すと、具体的に何分間のことでしょうか?」
セイカは平静を装い、理知的な問いかけを試みた。
しかし、アカネは首をかしげ、小悪魔的な微笑みを浮かべながら言った。
「ふふ……そうですね。セイカさんが満足するまで……でしょうか?」
「……」
その瞬間、セイカの整った顔立ちが、誰の目から見ても明らかに──目に見えて柔らかく緩んだ。
口元は微かに引き結ばれつつもニヤけそうになるのを必死に堪えており、紫の瞳には隠しきれない歓喜の光が爛々と宿っている。
セイカは迷うことなくホログラム画面を操作し、コンソールをスリープモードへと切り替えた。
『──警告。航路計算タスクが完了していません』
システム音声が虚しく響くが、セイカは真顔で言い放った。
「……ただちに観測業務を一時停止します。優先順位最高位のタスクが発生しました」
「あら、セイカさん? お仕事は大丈夫なのですか?」
「問題ありません。ソラノミの安全よりも、あなたの『満足』を優先することが、現時点における我が艦の絶対的な最適解です」
「ふふ……もう、極端なのですから」
アカネが笑うと、セイカは作業を完全に放棄し、全神経をアカネを抱きしめることだけに注ぎ込み始めた。
__________
アカネは、セイカの太ももの上に自分の手を重ね、セイカの顔を見上げた。
「なんだか……今日は、私からセイカさんに甘えたい気分なのです」
アカネの口から語られた、あまりにもストレートな想い。
普段のアカネは、いつだって温かく家族を見守り、セイカの甘えを包み込む「お母さん」であり「妻」だ。そのアカネが、自ら「甘えたい」と口にしている。
セイカは一瞬、息を呑んだ。
普段ならどんな感情も客観的データとして処理するはずの彼女が、胸の奥から押し寄せる怒涛のような幸福感に、言葉を失っていた。
「……そうですか」
「はい」
「……非常に……非常に、嬉しいです」
噛み締めるように、二度繰り返すセイカ。
その声は微かに震えており、喜びを抑えきれていないことがありありと伝わってきた。
アカネはそんなセイカの様子がおかしくて、思わずクスクスと笑ってしまった。
「ふふっ……そんなにですか?」
「はい。私の予測過給演算モデルが提示していた想定数値を……大幅に上回るレベルで嬉しいです。感情の閾値を超調和しています」
「まあ……そんな難しい言い方をしなくても」
「事実です」
セイカは真顔のまま言いきると、今度は自分からアカネの身体を胸の中へと強く引き寄せた。
いつもなら「アカネの邪魔にならないように」とどこか遠慮がちに抱きしめるセイカだったが、今は違う。アカネが自分に甘えてくれているという事実が、彼女の中に眠る独占欲と愛おしさを完全に爆発させていた。
「……離しません」
「ふふ、離れようとしていませんよ、セイカさん」
セイカの胸元で、アカネは温かな体温に包まれながら、幸せそうに目を閉じた。
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午後になっても、アカネの「甘えモード」は続いていた。
二人でソファに座ってティータイムを楽しんでいる時も、アカネはセイカの手を自分の両手で包み込み、指を絡ませるようにして握りしめていた。
「セイカさんの手は……大きくて、とても温かいですね」
「……そうですか。私の手で、あなたを傷つけないか常に注意を払っていますが」
「いいえ。とっても優しくて、大好きな手です」
アカネがそう言って、セイカの手の甲にちゅっと小さく口づけを落とした。
「っ……!」
セイカの肩が跳ねた。
見れば、普段はポーカーフェイスを崩さないセイカの耳線が、真っ赤に染まっている。
「……アカネ。それは、精神的負担が大きすぎます」
「あら? 嫌でしたか?」
「嫌なはずがありません。むしろ逆です。刺激が強すぎて過給演算回路がオーバーヒートを起こす危険性があります」
「ふふふ……本当におもしろいですね、セイカさん」
アカネはここで、ついに一つの「確信」に至っていた。
「(……なるほど。セイカさんは、ご自身が甘えるのもお好きですが……私から甘えられると、それ以上に理性が吹き飛んでしまうのですね)」
最強の観測士・室笠セイカの、最大にして唯一の弱点。
それは「アカネからの積極的な愛情表現」であった。
アカネは少し悪戯っぽい笑みを浮かべると、さらにセイカの肩にすり寄っていき、セイカの胸元に指先で小さくハートを描くように弄んだ。
「……セイカさん」
「はい、アカネ」
「もしかして……私がこうして甘えるの、お好きですか?」
アカネの問いかけに対し、セイカは一秒の思考時間すら置かなかった。
「……はい。大好きです」
「ふふ、即答ですね」
「否定する合理的理由が一切存在しません。あなたが私に甘えてくださる時間は、私の存在理由そのものです」
「もう……また極端なことを言われて」
言いながらも、アカネはセイカの素直すぎる回答が愛おしくてたまらず、セイカの首元へギュッと抱きつくのだった。
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15時を過ぎた頃、リビングのソファの上では、前日とは完全に「立場が逆転した」光景が繰り広げられていた。
ソファの中央で、アカネがセイカの肩に身体を傾け、預けるようにしてすやすやと眠りかけている。
そしてセイカは、アカネが崩れ落ちないよう、長い腕でしっかりとアカネの肩と腰を抱き抱え、息を殺すようにして固まっていた。
セイカの表情は、まるで世界で最も価値のある国宝を腕に抱いているかのように、緊張と歓喜が入り混じった厳かなものだった。
トントン……。
アカネが寝返りを打ち、少しだけセイカの身体から離れようとした、その瞬間──。
ガシッ。
セイカが無意識のうちに腕に力を込め、アカネの身体を「ギュッ」と自分の元へと引き戻してしまった。
「……ん……? あら……?」
腕の強さに目を覚ましたアカネが、薄目を開けてセイカを見上げる。
「……あら? セイカさん……?」
引き寄せてしまった当のセイカは、ハッと正気に戻り、少々気まずそうに視線を泳がせた。
「……すみません。あなたが離れていってしまうような錯覚を覚え……無意識に力がこもってしまいました。……離れる必要性を感じなかったためです」
「ふふっ……」
焦って言い訳を並べ立てるセイカを見て、アカネはクスクスと可笑しそうに声をあげて笑った。
「ふふ……今日は、セイカさんのほうが甘えん坊さんですね」
「……」
セイカは数秒間沈黙し、観念したように小さな溜息を吐いた。
「……否定できません。あなたに甘えられたことで……私の中の『あなたから離れたくない』という欲求が、平常時の数倍にまで増幅されています」
「ふふ……はい。とっても可愛いですよ、セイカさん」
アカネがセイカの頭を撫でると、セイカは降参したようにアカネの肩口に額を預け、そのまま心地よい温もりに身を委ねるのだった。
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「ただいま戻りました、お母さん、お父さん……」
自室でのトレーニングと勉強を終えたシロコとケイが、リビングへと入ってきた。
二人が目にしたのは、前回とはまったく異なる……しかし、より一層強烈な甘さを放つ光景であった。
ソファで、アカネがセイカの胸元にぴったりと寄り添い、セイカがそれを嬉しそうに抱きしめている。
「……あ」
シロコが足を止め、ジト目で二人を見つめた。
「……今日は、逆だ」
「観測開始。パターン分析……」
ケイがコンソール端末を操作し、セイカのバイタルデータを読み取る。
「驚愕すべき数値を検出。お母さんの甘えに対するお父さんの脳内多幸感物質の分泌量が、通常値を大幅に上回り、オーバーフローに達しています」
ケイが淡々と恐ろしい分析結果を報告するが、セイカは微塵も動じず、堂々とアカネを抱きしめたまま言い放った。
「……当然です。アカネが私を求めてくれているのですから、多幸感が限界を突破するのは物理法則として極めて正当な反応です」
「……お父さん、めちゃくちゃ嬉しそう」
シロコが呆れ半分で言った。
セイカの口元はニヤけるのを必死に堪えているものの、全身から「私は今、世界で一番幸せだ」というオーラが溢れ出していた。
アカネも少し照れくさそうに頬を染めながら、シロコたちへ微笑みかけた。
「ふふ……はい。今日は、私が少しだけセイカさんに甘えたい気分だったのです」
すると、セイカが間髪入れずに宣言した。
「……非常に歓迎します。365日、24時間、いついかなるタイミングでの甘えであっても、私は全リソースを挙げてそれを受け止める構えです」
「……やっぱり、お父さんのほうが大喜びしてる」
シロコがニヤッと笑う。
「明確に嬉しそうです。お父さんの感情パラメータがここまで露骨に上昇する例は、過去の観測データにおいても極めて稀です」
ケイも分析を終え、満足そうに頷いた。
「……お母さん、お父さんを甘やかしてくれてありがとう」
「あら、シロコちゃん……ふふ、どういたしまして」
シロコとケイは顔を見合わせ、微笑ましい両親の姿に温かな溜息をつきながら、夕食の準備を始めるためにキッチンへと向かっていくのだった。
__________
夜が更け、艦内が夜間航行モードの琥珀色の光に包まれる。
静かな主寝室。大きなベッドの中で、二つの身体が重なり合っていた。
掛け布団の中で、アカネは自分からセイカの胸元へとスルスルと寄り添い、セイカのパジャマの胸元をキュッと掴んだ。
「……セイカさん」
「はい、アカネ」
セイカはアカネの身体を優しく抱きかかえ、その髪を撫でながら、心底嬉しそうに呟いた。
「……今日は、ずいぶん甘えてくださいますね。私にとっては夢のような一日でした」
セイカの声には、まだ昼間の歓喜の余韻が残っていた。
アカネはセイカの胸元に顔をうずめたまま、少し照れくさそうに、けれどまっすぐに本音を口にした。
「はい。……本当は、最初は少しだけ甘えるつもりだったのですけれど……」
「……ほう? 途中から心境の変化があったのですか?」
「ええ。……私が甘えるたびに、セイカさんが思った以上に嬉しそうな顔をしてくださるので……それが可愛くて、愛おしくて……私まで嬉しくなってしまって」
アカネが上目遣いにセイカを見つめる。
「セイカさんが喜んでくださるのが……嬉しかったのです」
「……ッ」
セイカの息が、止まった。
静寂が寝室を支配する。
セイカはしばらくの間、何も言わずにアカネのことを見つめ続けていた。その紫の双眸には、言葉にできないほど深い愛おしさと情熱が渦巻いていた。
やがて、セイカは噛み締めるように、ぽつりと呟いた。
「……それは、反則です」
「え……? 反則、ですか?」
アカネが首をかしげると、セイカはアカネの身体を折れてしまいそうなほど強く、けれどかけがえのない宝物を抱くように固く抱きしめた。
「はい。反則です。そのようなことを言われたら……私は明日も、明後日も、あなたが私に甘えてくれることを期待してしまうではありませんか」
「ふふ……」
アカネはセイカの腕の中で、嬉しそうに目を細めた。
「ふふ……では、明日も甘えてしまいましょうか?」
アカネが囁くように問いかけると、セイカは一秒の迷いもなく、力強い声で答えた。
「……是非、お願いします」
どちらが甘え、どちらが包み込むのか。
そんな境界線すら溶けていくほどに、二人の愛はどこまでも深く、甘く、ソラノミの夜の中に溶けていくのだった。