アビドス砂漠──かつて豊かな緑と水に恵まれていたその土地は、今や見渡す限りの乾いた砂と、絶え間なく吹き荒れる熱風に支配された死の地へと変貌を遂げていた。
その巨大な砂丘のただ中に位置する、列車砲シェマタ。
普段であれば、風が砂を撫でる音だけが寂しく響くはずのその空間は、今や息を詰まらせるような凄絶な重圧と、粘の如き絶望感によって満たされていた。
「……あ……あぁ……っ……!」
砂嵐が渦巻く中心。膝を折り、打ち震えているのは小鳥遊ホシノであった。
彼女は華奢な両腕で自身の頭を強く抱え込み、必死に何かを拒絶するように身体を丸めている。その頭上に浮かぶヘイローは、かつての温かな琥珀色の輝きを完全に失っていた。不気味な明滅を繰り返し、時折、惨劇を予感させるような赤黒い「テラー」の光芒が脈打つように走り抜ける。
その瞳から生気という生気が奪われ、深く、暗い虚無の底へと落ちていく。
かつて背負った罪悪感。死に別れた梔子ユメに対する痛切な後悔。自分という存在に対する諦念。それら過去の傷口が、目に見えない悪意によって苛烈に抉り開かれていた。
そして、その背後──現実の次元が微妙に歪んだ「隙間」の暗がりから、不気味で粘着質な存在の気配が、じわじわと彼女の精神を侵食し続けている。
「ホシノ先輩! お願いです、しっかりしてください……! 目を覚ましてください……!」
「ダメ……っ! 声が……私たちの声が、何も届いてない……!」
吹き荒れる熱風と砂塵を突き破り、アヤネが涙声で叫び続けていた。ノノミとセリカもまた、荒い息を吐きながら必死に手を伸ばす。
しかし、その指先がホシノの身体に触れることは叶わない。
彼女たちの手は、ホシノの数十センチ手前で、まるで目に見えない不可視の分厚い透明な壁──あるいは空間そのものが切り離されたかのような異常な不連続面に阻まれ、激しい衝撃とともに弾き返されてしまうのだ。
「っ……! なんなのこれ……! 何が起きてるっていうのよ!?」
「セリカちゃん、無理に突っ込んじゃダメです! ……ダメです、ホシノ先輩の周囲の空間座標そのものが、私たちのいる現実とズレています……!」
ノノミが銃を構えようとするが、弾丸すらもホシノを取り囲む歪んだ不連続面に触れた瞬間、エネルギーを失って虚空へと霧散してしまう。
弾かれ、砂地に倒れ込んだセリカをアヤネが支える。全員の顔に、爪を立てられたかのような深い焦燥と絶望線が刻まれていく。
「先生……! ホシノ先輩が……っ!」
血を吐くような叫びが交錯する中、砂狼シロコは虚ろな目で打ち震えるホシノを見つめ、固く握りしめた拳を全身で震わせていた。彼女の足元には、無情にも拒絶され弾き飛ばされたアサルトライフルが転がっている。
「先生……今のホシノ先輩には……私たちの言葉も、想いも、何一つ届かない」
砂狼シロコの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、熱い砂の上に落ちて瞬時に蒸発していった。
「あんなの……もう、ホシノ先輩自身じゃないみたいで……っ。助けたいのに……こんなにも近くにいるのに、手も届かないよ……! 私たちが……私たちが不甲斐ないから……!」
彼女たちの前で成立しているのは、圧倒的な理不尽であった。
単純な敵の武力や、兵器による威圧ではない。
──「混沌の領域」。
アビドス砂漠の地下深く、現実の次元から巧妙に隔離された絶対の安全圏。そこから「地下生活者」と呼ばれる怪異が仕掛けた、悪意に満ちた「ゲーム盤」。
ホシノの精神を過去の記憶で苛み、現実から遮断し、不可逆の反転(テラー)へと引きずり落とす。そのために構築された「ルール」そのものが、このアビドス砂漠の一角を完全に支配していたのだった。
シロコはホシノを救いたいと強く願い、心の中で叫び続けながらも、自分たち生徒の力だけでは決して突破できない「構造上の壁」が存在することを、恐ろしいほどの現実感とともに痛感させられていた。
砂狼シロコが絶望に押し潰され、熱い砂の上に膝をつきかけた、まさにその時。
"──大丈夫だよ、シロコ"
不意に、静かで、けれど砂嵐の音を吹き飛ばすほど揺るぎない確信に満ちた声が響き、温かな手が砂狼シロコの肩にそっと置かれた。
「……先生……?」
砂狼シロコが涙に濡れた顔を上げると、そこに立っていたのは、吹き荒れる砂塵の中でも決して目を逸らさない「先生」の姿だった。
"私たちの手だけじゃ、この『壁』は越えられない。どれだけ叫んでも、地下生活者が用意したルールの中では、私たちの声は消されてしまうんだ"
先生は上着のポケットから、通常のシャーレ用連絡端末を取り出した。だが、先生の指が操作したのは一般的な緊急回線ではない。黒と紫の重厚な装飾が施された、完全暗号化プロトコルによる特殊通信ライン。
"でもね、シロコ"
先生の指先が、画面の最上部に鎮座する唯一の接続先を正確にタップする。
"こういう『理不尽なルール』を、正面から壊せる人がいる"
砂嵐を突き破るように、端末から重低音の接続信号が鳴り響いた。
そこに表示されたのは──地上からは決して肉眼で捉えることのできない、成層圏に滞空する超宇宙戦艦の識別記号であった。
"……聞こえるかい、セイカ"
先生の呼びかけに対し、ノイズ一つ混ざらないクリアで重厚な音声がスピーカーから溢れ出した。
『──状況は、すべて把握しています。先生』
響いたのは、深く、静かで、全てを見透かすような絶対感を含んだ男の声。
室笠セイカの声であった。
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キヴォトスの上空数万メートル。青い地球の輪郭と漆黒の宇宙の境界線に、滑るように滞空する巨大宇宙戦艦「ソラノミ」。
その中央観測室は、地上のアビドス砂漠で繰り広げられている絶望的な惨状とは対照的に、冷徹なまでに静謐な空気に満たされていた。
全周を覆う巨大な立体ホログラムモニターには、アビドス砂漠を中心に広がる異次元の歪みと、激しく乱高下する因果律のデータがリアルタイムで秒単位の描画を続けている。
「……アビドス砂漠中央・地下領域にて、存在状態の不確定な特殊空間を確認」
メインコンソールの前で、光のキーボードを超高速で叩くケイが、淡々とした、けれど明確な緊張を孕んだ声で状況を報告する。
「通常の物理空間とは大きく異なります。確率論的重ね合わせ状態が意図的に固定化され、現実の確定条件が何者かの意図によって書き換えられています。複数の不確定状態が同時に成立しているようです……お父さん、これは」
「ええ。……なるほど」
室笠セイカは、紫の双眸を冷たく冴えわたらせ、モニターに映るアビドス砂漠の拡大映像と、そこに渦巻く不気味な因果の乱れを見つめていた。
「これが……あなたの『ゲーム盤』ですか」
セイカの視線は、地上の砂嵐やホシノの姿を通り越し、その「領域」を成り立たせている概念構造そのものに向けられていた。
地下生活者が仕掛けた「混沌の領域」。
セイカはそれが単純な武力行使や巨大な兵器による破壊ではなく、「現実そのものの成立条件やルールへ干渉している」という本質を即座に見抜いていた。
安全圏から現実へ干渉し、ホシノの心理的隙を突いて確率や存在条件を操作する。地上の生徒たちがどれほど叫ぼうと、「届かない」というルールがその空間に適用されている以上、通常の手順や武力では決して救い出すことはできない。
"彼女を止めてほしい"
ホログラム通信の向こうから、地上にいる先生の切実な声が響く。
"地下生活者のゲームを壊せるのは……この世界の常識やルールに縛られない、君たちだけだ"
セイカはしばしの間、深く沈黙した。
その隣には、黒いドレスを纏った室笠シロコが立ち、モニターに映る「もう一人の自分」と苦しむホシノの姿を、胸の前で固く拳を握りしめながら見つめている。
「……分かりました。ですが、先生」
セイカは静かに、けれど絶対的な意思を込めて告げた。
「私はホシノさんを倒しに行くのではありません。……彼女を縛っているものを、断ち切ります」
「セイカさん」
メイド姿のまま観測室へ駆けつけていたアカネが、心配そうにセイカの腕へそっと手を添える。
「どうか……無理だけはなさらないでくださいね」
アカネの瞳には、いつだって家族の無事と帰還を願う温かな光があった。セイカは一瞬だけ表情を和らげ、優しく頷いた。
「……ええ。必ず帰ります」
セイカはすぐに向き直り、我が子たちへ指示を出す。
「ケイ。ソラノミの支援演算をフルで稼働させなさい」
「了解、お父さん。戦闘演算、フル・オンライン。ソラノミ側の観測・支援システム、接続可能です」
「シロコ、出撃準備を。……道は、私が作ります」
「……うん」
室笠シロコが強く頷き、愛用のライフルを握りしめてカタパルトへと走る。
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上空から、巨大な漆黒の影──ソラノミがアビドスの上空へ到達した。
だが、セイカは最初からホシノを直接攻撃するような野蛮な真似はしない。
ソラノミの最前線に立ち、観測器を通してアビドスを取り巻く異常領域をじっと注視する。
「……見つけました」
セイカの低い声がブリッジに響く。
「ホシノさんを閉じ込めているのは、彼女自身ではない。この世界と、彼女の心の境界そのものが……書き換えられている」
セイカの紫の双眸が、神々しく、そして怪しく発光した。
──『空見の閃』
絶対的未来視、多元領域観測術。
能力が発動した瞬間、セイカの視界の中で、現在という確定した時間軸が幾重もの可能性のレイヤーへと分解されていく。現在だけでは説明できない複数の可能性、そして地下生活者が隠れ潜み「ゲーム」を成立させている不条理な因果の結び目が、白日のもとに晒されていくのだった。