アビドス砂漠──かつて数多くの人々と豊かな緑、澄み切った水に恵まれていたその土地は、今や見渡す限りの乾いた砂利と、絶え間なく吹き荒れる熱風に支配された死の地へと変貌を遂げていた。
大気を焼く陽光と、視界を遮る赤茶けた砂塵。足を踏み入れる者すべての体力を容赦なく奪い去るその灼熱の荒野の中央に、古の時代に打ち捨てられた巨大な遺跡群が鎮座していた。風化し、崩れかけた巨柱や崩落した外壁の隙間を、干からびた風が鳴狂うように通り抜けていく。
だが、この日アビドス砂漠の中央に漂っていたのは、自然界の苛酷さなどとは遥かに質の異なる、あまりにも不気味で重苦しい歪みであった。
「……あ……あぁ……っ……!」
砂嵐が渦巻く中心。砕けた大理石の石畳の上で両膝を折り、激しく打ち震えているのは小鳥遊ホシノであった。
彼女は華奢な両腕で自身の頭を狂おしいほど強く抱え込み、耳を塞ぎ、必死に何かを拒絶するように身体を丸めている。その小柄な身体から放たれているのは、かつての穏やかでどこか抜けた日常の気配などでは断じてなかった。全身を包み込んでいるのは、どろりとした漆黒と粘着質な紫色が混ざり合った、目視する者すべての精神を腐濁させる不気味なオーラである。
彼女の頭上に浮かぶヘイローは、かつての温かな琥珀色の輝きを完全に失っていた。まるで命の灯火が消えかけるかのように不気味な明滅を繰り返し、時折、痛痛しい放電音とともに、惨劇と破滅を予感させるような赤黒い「テラー」の光芒が脈打つように走り抜ける。
その瞳からは、生気という生気がことごとく奪い去られていた。
深く、暗い虚無の底。そこには、過去に背負った痛烈な罪悪感が渦巻いていた。死に別れた梔子ユメに対する取り返しのつかない後悔。自分がもっとしっかりしていればという苛烈な自責。自分という存在そのものに対する深い諦念。それら胸を抉る記憶の傷口が、アビドス砂漠の地下深層に潜む「地下生活者」の悪意によって苛烈に抉り開かれていたのだ。
ホシノの視界には、もはや目の前に広がる砂漠も、自分を呼ぶ仲間の姿も映っていない。彼女の精神は、終わることのない過去の惨劇の記憶──冷たい砂の上に横たわる先輩の姿という、無限の拷問部屋に閉じ込められていた。
「ホシノ先輩! お願いです、しっかりしてください……! 目を覚ましてください……!」
「ダメ……っ! 攻撃が……弾かれてる……! 声も、何も届かない……!」
吹き荒れる熱風と砂塵を突き破り、アヤネが涙声で叫び続けていた。セリカとノノミもまた、荒い息を吐きながら必死に前へ進もうと砂を蹴る。
しかし、その指先がホシノの身体に触れることは叶わない。彼女たちの手や踏み出そうとした足は、ホシノの数十センチ手前で、まるで目に見えない分厚い装甲板──あるいは空間そのものが切り離されたかのような異常な不連続面に阻まれ、激しい物理的衝撃とともに弾き返されてしまうのだ。
「なんなのよこれ……! 何が起きてるっていうのよ!? なんでホシノ先輩のところに行けないのよ!?」
「セリカちゃん、無理に突っ込んじゃダメです! ……ダメです、ホシノ先輩の周囲の空間座標そのものが、私たちのいる現実とズレています……!」
ノノミが悲鳴のような声を上げながら必死に機関砲を構え、牽制の弾幕を張ろうとする。しかし、放たれた巨大な弾丸すらもホシノを取り囲む歪んだ不連続面に触れた瞬間、運動エネルギーを奪われ、まるで静止したかのように虚空へと霧散していった。
弾かれ、熱い砂地に激しく打ち付けられたセリカをアヤネが支え起こす。全員の顔に、爪を立てられたかのような深い焦燥と絶望の影が刻まれていく。
「先生……! ホシノ先輩が……っ!」
対策委員会の生徒たちの叫びと焦燥の中、満身創痍の身体を引きずりながら一歩前へ出たのは、ゲヘナ学園風紀委員長──空崎ヒナであった。
彼女の制服はあちこちが破れ、白い肌には痛々しい擦り傷や煤汚れが刻まれている。しかし、その瞳だけは衰えることのない鋭い意志の光を宿していた。ヒナは重厚な機関銃『終幕:デストロイヤー』のグリップを握り直し、引き金に指をかける。
「……退いて、みんな。……私が、小鳥遊ホシノの目を覚まさせる」
ヒナの声は静かだったが、そこには風紀委員長としての矜持と、先生の期待に応えようとする執念が込められていた。彼女は砂を破裂させるように地を蹴った。
視界を覆う紫のオーラに向かって、ヒナは間合いを詰める。そして、限界まで練り上げた神秘を帯びた銃口をホシノの不連続面へと突き突き、引き金を絞り切った。
ドドドドドドドドドッ──―!
圧倒的な密度の砲火が炸裂し、砂漠の熱気を吹き飛ばすほどの衝撃波が周囲に広がった。だが、その破壊力をもってしても、ホシノを覆う「壁」を打ち破ることはできなかった。
ヒナの放った神秘弾の一粒一粒は、不連続面に到達した瞬間に紫の歪みの中へと吸い込まれ、無残にも分解・無効化されていく。衝撃の反動が逆にヒナの身体を苛み、彼女は小さな呻き声を上げて後方へと大きく吹き飛ばされた。
「くっ……あぁっ……!?」
「ヒナさん!」
砂地に膝をつき、肩で荒い息をつくヒナ。彼女の手から銃が一瞬滑り落ちそうになる。どれほどの火力を叩き込もうとも、物理的な破壊という概念そのものが機能していないのだ。
『ククク……ヒヒッ……ハハハハハ! 無駄ですよ、空崎ヒナ。貴女がどれほど抗おうとも……この小生の用意した盤面からは、もはや逃れられないのです!』
アビドス砂漠の地下深層。次元の隙間に潜む「地下生活者」の、歪んだ高笑いが砂嵐の底から歪んで響き渡った。
『無駄なのだよ、キヴォトスの哀れな生徒たち! ヒヒッ……これは、この小生が丹念に、丹念に構築した最高のエンドゲームなのだからね! 彼女は今、自らが犯した『絶望』という過去の確定事象に閉じ込められている。そう……既に確定してしまった過去にね。そして、この領域におけるルールは――この小生が上書きした! 生徒という『キヴォトスのルール』の枠組みに囚われた君たちでは、どう足掻こうとも覆せない。攻撃も、言葉も、想いすらも……ヒヒッ。彼女の『確定した絶望』に、指一本触れることすらできはしないのだよ!』
「……くっ……! そんな……理不尽な……!」
ヒナは悔しさに唇を強く噛み締め、血の味が口中に広がるのを感じた。どれほど強い神秘を持とうと、どれほど不屈の意志を持とうと、「ルールそのものが届かないと設定されている」という圧倒的な絶望。自分たちの存在そのものが拒絶されているという無力感が、ヒナの胸を強く締め付けた。
__________
地下生活者の不快な高笑いが砂嵐に乗り、絶望の影をより一層深めていく。
先生は拳を強く握り締め、対策委員会の生徒たちとヒナの背中を見つめていた。キヴォトスの生徒たちがどれほど優れ、どれほど美しい絆を持っていようと、世界そのものの前提条件を書き換えられた「ゲーム盤」の上では、その努力すらもあざ笑うための駒にされてしまう。
だからこそ、先生は動いた。
ポケットから取り出したのは、シャーレの標準的な通信端末ではない。黒と紫の重厚な装飾が施された、この世界には存在しない特殊なプロトコルを組み込んだ通信機器。
先生はその画面を迷わず操作し、暗号化された回線を接続した。
『──状況は、すべて把握しています。先生』
スピーカーから溢れ出したのは、ノイズ一つ混ざらないクリアで重厚な音声であった。
響いたのは、深く、静かで、全てを見透かすような絶対感を含んだ凛とした女性の声。
室笠セイカの声であった。
「セイカ……頼めるかい」
『ええ。……我が家の大切な家族が、そちらで悲しんでいますから。それに──この不条理な澱みは、我が家の平和を乱します』
次の瞬間、アビドス砂漠の上空──成層圏の遥か高空から、天を割るような重低音が地表へと届いた。
ズズズズズズズズズズンっ──―!
見上げれば、雲海を押し割り、日光を遮るほどの巨大な漆黒の影──宇宙戦艦「ソラノミ」がその姿を現していた。その存在感は、砂漠全体を覆い尽くすほどの圧迫感とともに、周囲の歪んだ空気を強引に圧し潰していく。
「な……!? 戦艦……!? もしかして、あれは……!?」
セリカが上空を見上げ、アヤネの端末が異常な数値を検知してけたたましくアラームを鳴らし始める。ヒナもまた、目を見開き、その巨大な影に言葉を失った。
地下生活者の嘲笑が、唐突に止まる。
『な……なんだ!? 私の観測データに存在しない高エネルギー反応……!? バカな、私の「混沌の領域」は次元的に完全に隔離されているはずだぞ!?』
「──ならば、キヴォトスの外のルールを叩きつけます」
地下生活者の狼狽を断ち切るように、天から静かで、けれど圧倒的な密度を持った声が降り注いだ。
ソラノミの艦底から放たれた深紫の光芒とともに、一人の人物が砂嵐を切り裂いて降り立つ。
激しい衝撃波とともに熱砂が舞い上がり、それが晴れた中心に立っていたのは、洗練された漆黒の軍服風衣装を身に纏い、圧倒的な威厳と息を呑むほどの美しさを漂わせた女性──室笠セイカであった。
その背後には、青と白の輝きを放つ複数機のフィンファンネルが優雅に浮遊・展開されている。そして彼女の両手には、身の丈ほどもある重厚かつ強烈な概念威力を誇る武装『メテオバスターライフル』が整然と構えられていた。
「な……!? あなた……は……!?」
突然、自身のすぐ隣に降り立った存在に、ヒナは息を呑み、息を止めた。
セイカから放たれる気配は、ゲヘナの最高戦力である自分とも、トリニティの聖園ミカのような圧倒的な神秘とも、全く異なる質のものだった。世界そのものを「観測し、定義する」者だけが持つ、絶対的な存在感。
セイカは紫の双眸を冷たく冴えわたらせ、前方で泥濘のように渦巻く紫のオーラ──ホシノの姿をじっと見つめた。その表情に一切の動揺や恐怖はない。
「先生の招集です。……それに」
セイカはちらりと、後方で涙を拭いながらホシノを見つめている砂狼シロコと、ソラノミの艦内で待機している室笠シロコへ意識を向け、静かに言葉を継いだ。
「あの子が助けたいと願った。ならば、親としてその道を阻む障害を排除するのは当然のことです」
__________
「な……生意気なことを! 正体不明の闖入者が!」
アビドス砂漠の地下深層から、地下生活者の怒声が響く。
『無駄だ! ヒヒッ……誰が来ようと、結果は同じなのだよ! この『混沌の領域』が成立する条件は、確率の重ね合わせによって現実そのものから切り離されている……! そう、既にこの世界の『ルール』の外側に存在しているのだ! 理解できるかね? キヴォトスの哀れな生徒たちよ! どれほど強大な破壊兵器を持ち出そうとも、どれほどの力を叩き込もうとも――その存在に干渉することなど、できはしない! ヒヒヒッ……なぜなら、君たちが攻撃しているその場所そのものが……もはや『現実』ではないのだからねぇ!』
「確率の重ね合わせ、ですか」
セイカは地下生活者の金切り声を鼻で笑うように、冷徹に呟いた。
彼女の紫の双眸が、神々しく、そして怪しく発光を始める。
──『空見の波』
絶対的未来視、多元領域観測術。
能力が発動した瞬間、セイカの視界において、アビドス砂漠を取り巻く世界が幾重もの可能性の層に解体・可視化されていく。
地下生活者が「安全圏」と呼び、高くそびえ立たせていた確率の壁。その構造、ホシノの精神を現実から遮断している因果の結び目、そして地下生活者が隠れ潜む次元の座標までが、セイカの前で白日のもとに晒されていく。
「見つかりました」
セイカの低い声が、砂嵐の音すらも抑え込んで響く。
「ホシノを閉じ込めているのは、彼女自身の過去ではない。あなたという醜悪な小細工師が仕掛けた、現実の不具合に過ぎない。……空崎ヒナ」
「……ええ」
突然名前を呼ばれ、ヒナが肩を跳ねさせる。セイカは視線を正面に向けたまま、隣のヒナへ淡々と指示を出した。
「私があの『確率の壁』を破砕します。……その瞬間に、あなたの持つ最大火力の光を叩き込んでください」
「っ……! でも、あの壁は物理的な攻撃が届かないのよ!?」
「言ったでしょう。キヴォトスの外のルールで叩き潰すと」
セイカの言葉には、不快な疑念を一切挟ませない絶対の確信があった。ヒナは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐにその瞳に力強い光を取り戻し、大きく頷いた。
「……分かった。……協力するわ」
ヒナは再び『終幕:デストロイヤー』を力強く構え直し、残された全身の神秘を限界を超えて銃口へと集束させ始めた。
セイカは耳元に装着された通信機にそっと手を触れる。
「ケイ。ソラノミの支援演算をさせなさい。世界の成立条件を力ずくで剥ぎ取ります」
『了解。お父さん、出力固定。……ソラノミの全演算システム、オンライン。概念干渉照準、固定完了しました』
成層圏に佇む戦艦「ソラノミ」の全超演算ユニットが限界突破の駆動音を上げ、セイカの肉体へと膨大な演算バックアップが流れ込んでいく。セイカの周囲の空間に、幾重もの紫色の幾何学陣が展開され、現実の物理法則が軋みを上げた。
──『空見の閃』
ホシノの絶望が成立している現在と未来の可能性を、セイカの圧倒的な観測力が力ずくで「無効」へと書き換えていく。
背後に浮遊するフィンファンネルが一斉に超高速回転を始め、ホシノを取り囲んでいた不可視の不連続面に向けて、精密な概念干渉光線を照射した。
バリバリバリバリッ──―!
空間そのものが断末魔の悲鳴を上げるような凄まじい損壊音が響く。地下生活者が自信満々に組み上げた「絶対の壁」に、目に見えるほどの巨大な亀裂が無数に走り出していった。
「な……なにぃっ!? わ、私の……私の『絶望の領域』が……! 因果率が、崩壊していくだと……!? あり得ない……あり得ない、あり得ないぞ……! この小生が構築した因果の連鎖が、たった一個体の観測と改変によって……崩されている……!? ヒヒッ……いや、待て……。そんなはずはない……! このキヴォトスに、このような観測力と改変力を併せ持つ個体など……存在するはずがないのだよ! いったい、貴様は……何者なのだ……!?」
地下生活者の悲鳴が上がる。セイカは両手で構えた『メテオバスターライフル』の銃口を、亀裂の走る中心へと完璧に照準した。
「──そこまでです、地下生活者。……あなたの盤面は、私が閃かせました!」
セイカが引き金を引く。
放たれたのは、熱線やエネルギー弾などという生易しいものではない。確率の壁そのものを概念ごと消滅させる、極大の光束。
その光芒は、ホシノを守っていた絶対の防御概念を真っ向から貫通し、徹底的に摩耗・破砕した。
「──今です、ヒナ!」
「はぁぁぁぁっ──―!」
セイカの鋭い一閃とともに、待機していたヒナが限界まで溜め込んだ壊滅的な魔力光線を解き放った。
セイカが穿ち開いた絶望の穴。そこへ向かって、ヒナの渾身の破壊光線が完璧な精度で追撃として叩き込まれる。
セイカの貫通光と、ヒナの破壊光。
二つの強大なエネルギーが一切のズレもなく重なり合い、空間を切り裂いて暴走するホシノの身体を真っ直ぐに直撃した。
砂漠全体を揺るがすほどの凄まじい衝撃波が吹き荒れ、大量の熱砂が天高く舞い上がった。
ホシノの身体を包み込んでいた不気味な紫のオーラが、二人の放った光の奔流によって跡形もなく吹き飛ばされ、綺麗さっぱりと霧散していく。
__________
静寂が、アビドス砂漠に戻ってきた。
舞い上がっていた砂塵がゆっくりと地上へと落ちていく。その中心で、紫のオーラを剥ぎ取られたホシノが、崩れ落ちるように地面へと倒れ込んでいた。
「やった……!?」
「ホシノ先輩の周りの壁が……消えてる!」
アヤネとセリカが喜びの声を上げる。ノノミも胸に手を当て、安堵の深い息を漏らした。
ヒナもまた、膝をつきそうになる身体を銃で支えながら、荒い息の下で微かに口元を緩めた。自分たちの攻撃が、あの理不尽な壁を破ったのだと。
しかし──セイカだけは、一切の構えを崩していなかった。
彼女の紫の双眸は、いまだ『空見の波』を発動させたまま、不気味なほどの冷たさでホシノの倒れる場所を見つめ続けていた。
「……違います」
セイカの低い呟きが、静まり返った砂漠に落ちる。
「……なにが……?」
ヒナが怪訝そうにセイカを見上げた、その時であった。
『ククク……ハハハハ! アハハハハハハハハハっ!』
アビドス砂漠の地下深層から、先ほど以上の狂気と歓喜に満ちた地下生活者の高笑いが、空間全体を振動させて響き渡った。
『素晴らしい! 実に見事だよ、『室笠セイカ』! ヒヒヒッ……! 君のその絶対的な観測力……そして、キヴォトスの外側から持ち込まれた、圧倒的な『理外』の力! まさかここまでとはねぇ……! 小生の想定を遥かに超えているよ! いやぁ、最高だ! まさしく最高のアシストだった! 君という『想定外』が加わったことで……このゲームは、ようやく次のフェーズへ進めるのだからねぇ! ヒヒッ、ヒヒヒヒッ!』
「……何ですって……?」
ヒナの顔から、一瞬で安堵の表情が消え去る。
『ヒヒッ……そう、それでいい! 君は見事にこの小生の『確率の壁』を破壊し、彼女の状態を強制的に『確定』させた! だが――それこそが、この小生の真の狙いだったのだよ! 君が叩き込んだ『絶望の破砕』……あれほど強烈な確定力を持つ干渉だからこそ、彼女の精神のさらに深い深淵へと到達できたのだ! 言葉でもない。過去でもない。ましてや、表層的な感情などでもない……。そのさらに奥――彼女という存在を形作る、唯一絶対の『本質』! ヒヒヒッ……そうとも! 君の一撃こそが、それを叩き起こすための唯一無二のトリガーだったのだよ! まさか自分が、小生の計画を台無しにしていると思っていたのではあるまいね?
――違う。
君は今この瞬間まで、完璧に小生のゲームを進めてくれていたのだよ!』
地下生活者の叫びとともに、地面に倒れていたホシノの身体が、不自然に浮き上がり始めた。
一度は綺麗に霧散したはずの紫のオーラが、先ほどとは比べ物にならないほどの圧倒的な質量と密度となって、アビドス砂漠全体の空気を吸い上げるようにホシノの中心へと集束を開始する。
ゴォォォォォォォッ──―!
大気が悲鳴を上げ、集められた紫のオーラは、やがて空間そのものを灼き尽くすような禍々しい「漆黒の炎」へと変貌を遂げていった。
ホシノの瞳が開かれる。しかし、そこには自我も、感情も、生の光も存在しない。ただひたすらに世界を滅ぼし、すべてを終わらせるための、底なしの暗黒だけが広がっていた。
彼女の頭上のヘイローは原型を留めないほど歪に反転していく。
「……あ……あぁ……っ……」
ヒナの身体が、恐怖と圧迫感で激しく震えた。ゲヘナの頂点に立つ彼女ですら、足の震えを止めることができない。目の前に立っているのは、もはや自分たちの知る「小鳥遊ホシノ」という生徒ではなかった。
「……まさか、これって……生徒の枠組みを超えた……『終わりの象徴』……!?」
アビドスの最悪の未来。
過去の絶望をすべて受け入れ、不可逆の反転を果たした姿──ホシノ:テラーが、アビドス砂漠の上に完全に降臨した瞬間であった。
放たれる漆黒の圧力が、周囲の砂丘を津波のように押し流していく。対策委員会の生徒たちは息をすることすらできず、地面に伏伏することしかできない。
そして──その凄惨な光景の中心で、室笠セイカは佇んでいた。
「……観測……失敗……?」
セイカの口から、掠れた声が漏れ出た。
彼女の紫の瞳の中で、『空見の閃』が捉えていた「ホシノを救い出し、平和な未来へ繋がる」はずの幾重もの可能性の線が、たった今降臨した漆黒の絶望によって、ボロボロと音を立てて崩れ落ちていく。
彼女の未来視が示した幸福な確定事項。それすらも地下生活者の計算に含まれ、ホシノをテラー化させるための「最悪の引き金」として利用されていたのだ。
あらゆる未来を見通し、理不尽なゲーム盤を壊してきたはずの自分が、まんまと敵の仕掛けた本当の罠へと誘導されていたという事実。
セイカの手から、一瞬だけ『メテオバスターライフル』の重みが失われそうになる。
砂嵐が黒く染まり、絶望の深淵が、アビドス砂漠のすべてを呑み込もうとしていた。