アビドス砂漠の最深部──そこは、もはやキヴォトスという世界の理そのものが崩壊を破綻させられた「終焉の領域」と化していた。
地下生活者の放った不条理な因果干渉は、砂丘を沈め、古代の遺構を粉々に粉砕し、空から昼と夜の境界すら削ぎ落としていた。頭上に広がるのは、蒼空でも暗夜でもない。泥濘のように濁った紫と漆黒が狂暴に渦巻く、不気味な虚無の天蓋であった。
その渦の中心に、降臨した「ホシノ:テラー」が佇んでいる。
かつての小鳥遊ホシノの面影を残す小柄な身体は、空間そのものを腐濁させる漆黒の波動に覆い尽くされていた。背後に展開された死の象徴たる漆黒の翼が羽ばたくたび、狂風が巻き起こり、熱砂を黒い灰へと変えていく。彼女の頭上に浮かぶ反転したヘイローからは、生ある者の精神を狂わせる脈動が絶え間なく放たれていた。
「……あ……あぁ……っ……!」
先生を庇い、地上に伏している対策委員会のメンバーたちは、息をすることすら叶わない。あまりにも強大な存在の圧。アヤネが抱える端末からは断魔的な警告音が鳴り響いていたが、やがてその画面すら黒く焼け焦げて消えた。
「くっ……はぁ……っ……!」
ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナは満身創痍の身体で膝を打ち震わせながら立ち上がろうとしていた。だが、ホシノ・テラーから放たれる圧倒的な密度の影の波動は、彼女が限界を超えて練り上げた魔力弾すら届く前に消滅させる。物理的・概念的な距離そのものが、絶望という壁によって完全に遮断されていた。
『ククク……ヒヒヒッ……ハハハハハ! 無駄だ、無駄なのだよ、空崎ヒナ! そして『室笠セイカ』! 君たちがどれほど足掻こうとも……この小生の勝利は、もはや確定しているのだからねぇ!』
崩壊する次元の底から、地下生活者の歓喜に満ちた高笑いが響き渡る。
『ヒヒヒッ……! 一度確定した『テラー』という本質は、もはやキヴォトスの如何なる因果をもってしても覆せないのだよ! 君たちのあがきも、抵抗も、そのすべてが――彼女をこの深淵へと導くための、実に素晴らしい『糧』となった! そう……君たちは自らの手で、彼女の絶望を完成させてしまったのだよ! ヒヒヒヒッ……さあ、これで終わりだ。この世界はもう逃れられない。彼女の絶望という名の結末によって――すべて、塗り潰されるのだからねぇ!』
「……くっ……!」
室笠セイカは、立ち昇る暗黒の嵐の中で引き金を引いたままの姿勢で留まっていた。美しくも威厳に満ちたその容姿には焦燥の色が影を落としている。
彼女の背後に展開されたフィン・ファンネル。だが、先の「確定」を逆手にとられた攻撃の反動、そして領域全体の崩壊に伴う過酷な概念侵食により、黄金の光を放っていたファンネルの表面には禍々しい紫の亀裂が走り、その制御系が重度のノイズに晒されていた。
「(『空見の閃』による確定行動が、テラー化のトリガーへ変換された……。私の観測力を逆利用し、絶望の確率を100%へと固定化させたというのですか……!)」
セイカの紫の双眸に、激しい演算の光が奔る。
幾千、幾万の未来の可能性をミリ秒単位で検索・観測する。だが、どの未来の平行線を手繰り寄せようとしても、その先にあるのは暗黒の翼に潰されるアビドスの姿ばかりであった。地下生活者が構築した絶対の破滅方程式が、セイカの未来視そのものを侵食・包囲していたのだ。
先生たちは再び、完全なる手詰まりと絶望の底へと突き落とされかけていた。
__________
その時であった。
崩壊し、次元の亀裂が幾重にも走る荒野の向こう側から、足音が響いた。
ザッ、ザッ、と熱砂を踏みしめる静かな音。
吹き荒れる漆黒の狂風をものともせず、一人の少女が崩落した大理石の瓦礫を越えて歩み寄ってくる。
黒い戦術服。頭部を覆うマフラー。そして、青と黄のオッドアイ。
そこに立っていたのは──室笠シロコであった。
かつて全てを失い、死と破壊の象徴たる「テラー」の深淵を経験しながらも、先生と仲間の絆によって、そしてセイカとアカネによってその絶望を乗り越え、己の意志で戦うことを選んだ少女。
「……!? 私…………!」
砂地に倒れる砂狼シロコが、かすれた声で叫ぶ。
室笠シロコは立ち止まり、激しく荒れ狂うホシノ・テラーを見つめた後、ゆっくりと視線をセイカへと向けた。
その静かな瞳が、セイカの紫の双眸と正面から交差する。
「……お父さん」
セイカに向けられた、静かな、けれど戦場の狂風を破って届いたその呼び声。
愛娘からの言葉に、セイカの胸を絶対的な熱量が突き動かす。
「……シロコ」
セイカは視線を柔らかく和らげ、静かに、けれど力強く応えた。
「いけますか?」
「……うん」
室笠シロコは愛用のライフルを固く握り直し、ホシノ・テラーへ向けて一歩踏み出す。
「今度は私がホシノ先輩を連れて帰る」
その瞳に迷いは微塵もなかった。
セイカにとって、目の前で苦しむホシノを救うこと。そして今、自らの意思で歩み出そうとしているシロコを守り抜くこと。その二つはもはや別々の課題ではなかった。すべては「我が家の大切な家族と、その絆を守る」という、親としての唯一無二の誓いへと結実した。
__________
「ケイ! ソラノミの全演算系統をシロコに同期させなさい!」
セイカが通信機へ叫ぶ。
「彼女の存在する『縁』の波長を、この破滅した戦場の絶対基準点として設定します!」
『了解、お父さん!』
成層圏に滞空する「ソラノミ」のブリッジで、ケイの指先が光のコンソールを高速で叩き壊すような勢いで舞う。
『メイン・サブすべての量子演算プロセッサ、限界過給駆動! お姉ちゃんの存在確率を因果干渉の絶対軸として固定……システム、起動します! ……今の私たちは、一人ではありません!』
その瞬間、上空のソラノミから極大の概念光粒子が砂漠へと降り注いだ。
地下生活者が構築した絶望の計算式に対し、「シロコ・テラーが存在し、ホシノの手を取る」という強力な現実のアンカーが強引に打ち込まれていく。
ソラノミの艦橋。モニターに映し出される過酷な戦況を見つめていたアカネが、エレガントなメイド服の裾を静かに揺らしながら、艦長席の前に進み出た。
彼女の穏やかな表情の中に、家族を想う母親としての揺るぎない覚悟が宿る。
「──ソラノミ、全リミッターおよび出力制限、完全解除」
アカネの澄んだ声がブリッジに響き渡る。そして、通信回線を通じて戦場に立つ愛しい伴侶へ、優しく、けれど絶対に退かない言葉を贈った。
「セイカさん」
『……アカネ』
「あの子を……私たちの大切な友人を、連れ戻してきなさい!」
続けて、漆黒の戦場に立つ愛娘へ、母親としてのあたたかな想いを届ける。
「シロコも……無理はしないでくださいね。帰ってきたら、あたたかいご飯が待っていますから」
シロコは一瞬だけ口元を微かに緩め、小さく頷いた。
「……うん、お母さん」
覚悟は決まった。
セイカの紫の双眸が、限界を超えた神聖な輝きを放つ。
キュイィィィィン────っ!
侵食され、紫の亀裂が入っていたセイカのフィン・ファンネル。だが次の瞬間、それらの表面から泥濘のような紫の澱みが一気に剥ぎ取られ、純白と清冽な蒼の光が炸裂した。
12基の『白と青のフィン・ファンネル』。
黄金の輝きを超え、室笠家の象徴たる白銀と蒼穹の光を纏った機体が、天へと一斉に舞い上がった。
シロコが解き放つ、絶望を越えて磨き抜かれた黒い粒子。
セイカが『メテオバスターライフル』の概念干渉炉から絞り出す紫の光。
そして、天から舞い降りるフィン・ファンネルの白と青の光条。
黒い炎に包まれていたアビドス砂漠の最深部が、まるで天界の庭園を思わせる神聖な「白銀の領域」へと、瞬く間に塗り替えられていった。
__________
「な……なんだとぉっ!? わ、私の『絶望の領域』が……白銀の光によって、上書きされているだと……!? ば、馬鹿な……あり得ない! こんなことが……! 『テラー』の絶望を打ち消す理論など、キヴォトスには存在しないはずなのだよ! この小生が知らないはずがない……! それなのに……なぜだ!? 何が起きている!? まさか……あの白銀の光は、キヴォトスの因果そのものに干渉しているというのか……!?」
地下生活者の絶叫が響く中、シロコ・テラーが地を蹴った。
白銀の光の中を、一筋の疾風となってホシノ・テラーの懐へと突入する。
ホシノ・テラーが本能的な危機感を覚え、背後の漆黒の翼から無数の死の波動を群れなして放った。重空間を抉り、触れるものすべてを風化させる絶対の破壊。
だが──
ババババババンっ──―!
シロコ・テラーの身体にその攻撃が届く直前、セイカの操る『白と青のフィン・ファンネル』が寸分の狂いもなく旋回し、シロコ・テラーの全周に幾重もの六角形幾何学障壁を展開した。
親として、娘を傷つけるような真似は絶対にさせない。
セイカの圧倒的な精密制御により、ファンネルはシロコ・テラーの進路に立ちはだかる黒い波動をことごとく叩き落とし、完璧な突撃路を穿ち続けていく。
「くっ……私も……まだ戦えるわ!」
後方で倒れかけていたヒナが、最後の力を振り絞って立ち上がった。
白銀に染まる戦場を見つめ、彼女もまた己の全存在をかけて機関魔銃の引き金を絞る。
ヒナの放った決死の極大光線が、ホシノ・テラーの側面を直撃。ホシノを覆っていた黒い影の外殻を大きく削り落とした。
「……今です!」
セイカの眼光が光る。
彼女は再び『空見の波』を発動させ、無限に広がる可能性の未来の層を観測した。だが、今回のセイカは、都合の良い未来を選び取って強引に現実へ固定化するような真似はしなかった。
「……私は、未来を決めません」
セイカが見つめたのは、未来の数値ではない。
ホシノの中に眠る、対策委員会の仲間たちと過ごしたかけがえのない日々。先生と交わした約束。シロコ・テラーが手を伸ばそうとしている切実な想い。その「人々の繋がりの強さ」そのものを観測した。
「確定させるのは……未来ではなく」
セイカの手で、メテオバスターライフルが完璧な照準を完遂する。
「……彼女たちの『帰る場所』です!」
セイカの叫びが響き渡る。
「先生! 今です!」
__________
"ホシノ────っ!"
セイカの合図とともに、先生が破砕された黒い影の隙間へ向かって、全力で手を伸ばした。
ホシノ・テラーの暗黒の意識の底。
冷たく、誰も届かない死の海の底で膝を抱えていたホシノの心に、先生の声が、シロコの手の温もりが、そして白銀の光が届いた。
彼女の脳裏に泥のようにこびりついていたユメ先輩の死の記憶。その惨劇の向こう側に、今自分を呼んでいる「新しい家族」「大切な仲間たち」の笑顔が、はっきりと差し込んできたのだ。
「あ……あぁ……みんな……っ!」
ホシノの瞳に、絶望の影を押し退けて、温かな生の光が兆した。
砂狼シロコと室笠シロコが、黒い炎を突き破ってホシノの身体を強く、強く抱きとめる。
「……掴まえた。……帰ろう、ホシノ先輩」
「──これで、終わらせます!」
セイカが引き金を絞り切った。
メテオバスターライフルから放たれた極大の紫色の概念干渉光束が、ホシノを囚われていた暗黒の繭を、根底から鮮やかに切り裂いた。
『バ、バカな……! バカな、バカなバカなバカなッ! ヒ……ヒヒッ……!私の……この小生の、完璧な盤面が……! すべての因果を計算し、すべての可能性を潰したはずの、この完璧なゲームが……なぜだぁッ!? なぜだ!? なぜ『絶望』が確定しない!? 確定したはずだ! 彼女の未来は、破滅へと収束するはずだった! なのに……なぜだ……なぜ未来が計算通りに破滅しないのだぁぁぁッ!? あり得ない……! こんな結果は……この小生の計算に、誤りなど……あるはずがぁぁぁッ!!』
地下生活者の狂乱した悲鳴が、白銀の光の中でかき消されていく。
崩壊していく異次元の底を見下ろし、セイカは冷徹に、そして静かに言い放った。
「簡単なことです」
セイカの言葉は、敗北した地下生活者への、そして理不尽な運命に対する引導であった。
「あなたが知らなかっただけですよ」
「人は、一人では未来を決めない」
ドォォォォォォォンっ────―!
ホシノを覆っていた禍々しいオーラが、風に洗われる砂のようにサラサラと崩壊していく。
頭上に浮かんでいた反転ヘイローが激しい光を放ち、やがて元の温かな琥珀色の輝きを取り戻して正常化した。
空間を支配していた黒い波動は影も形もなく消滅し、崩壊しかけていたアビドス砂漠の空間座標が、ソラノミの演算と白銀の光によって急速に正常化されていく。
不気味な暗雲が裂け、地平線の向こうから、あたたかな太陽の光──朝日が差し込んできた。
金色に輝く熱砂の上に、ホシノが静かに膝をつく。
「……あ、れ……?」
ホシノがゆっくりと目を開く。その両眼には、いつものオッドアイの温かな輝きが戻っていた。
目の前に広がるのは、泥濘の虚無ではない。心配そうに自分を取り囲むセリカ、アヤネ、ノノミ、シロコそして涙を流して微笑むシロコ・テラーの姿。
「先生……? みんな……?」
先生はホシノの前で屈み込み、優しくその頭を撫でた。
"おかえり、ホシノ"
「……う、うあぁぁぁん……っ! 先生ぇ……っ!」
ホシノは幼子のように先生の胸へと飛び込み、声を上げて泣きじゃくった。長く、辛い悪夢は、ついに完全に終わりを告げたのだった。
__________
激しい戦いの残り香が、朝風とともに砂漠の彼方へと吹き去っていく。
セイカは静かにメテオバスターライフルの出力を落とし、背後の12基の『フィン・ファンネル』を完璧な動作で格納していった。美しい漆黒の軍服を着こなす彼女の佇まいに、崩れは一切ない。
その隣へ、静かな足取りでシロコ・テラーが歩み寄ってくる。
「……お父さん」
シロコ・テラーが少しだけ首をかしげてセイカを見上げた。
「終わった?」
「ええ」
セイカは凜とした姿勢のまま、愛娘の頭へそっと手を置き、優しく撫でた。
「あなたも、お疲れ様でした。見事な働きでしたよ、シロコ」
「……ん」
シロコ・テラーは嬉しそうに目を細め、セイカの手のひらに頬を寄せる。
その時、通信機からアカネの柔らかくあたたかな声が響いた。
『シロコ、セイカさん。……二人とも、本当にお疲れ様でした』
シロコ・テラーは通信機に向かって、はっきりと声を届ける。
「……お母さん」
「ただいま」
『……はい』
画面の向こうで、アカネが胸に手を当て、感極まったように微笑む姿が見えた。
『おかえりなさい』
『お父さん、お姉ちゃん』
続けて、ケイの弾んだ声が通信を割り込んでくる。
『二人とも、本当に無事でよかったです。ソラノミの全データ、正常値に復帰しました。室笠家の完全勝利です』
「……ケイも、ありがと」
『当然です。だって、私たちは家族ですから』
セイカ、アカネ、シロコ・テラー、そしてケイ。
かつては孤独や別々の世界に苛まれていた存在たちが、今や「室笠家」という不可侵の絆で強く、強く結ばれている。その事実が、セイカの胸をこれ以上ない満足感で満たしていた。
「……演算終了」
セイカは静かに告げた。
「……全事象、正常化。……私たちは、勝ちました」
隣でシロコ・テラーが誇らしげに胸を張り、小さく頷く。
セイカはその横顔を愛おしそうに見つめ、普段の厳格で美しい表情を和らげて、ほんの僅かな、けれど心からの温かな微笑みを浮かべた。