アビドス砂漠の最深部。
地下生活者が張り巡らせた陰湿な因果の網を打ち破り、漆黒の絶望に呑み込まれかけていたホシノ・テラーの手を取り戻した歓喜の余韻が、砂嵐の去った戦場にまだ僅かに漂っていた。
肩で息を突く対策委員会の面々。安堵の溜息を漏らす先生。「室笠家のお父さん」として凛とした威厳を放つ室笠セイカの周囲には、過酷な激闘を乗り越えた者たちだけの絆と、手繰り寄せた平穏への手応えが存在していた。
しかし──世界はその平穏を許さなかった。
二人が繋いだ手から伝わる温もりが冷めやらぬその瞬間、アビドスで最も因果の歪みが集積してきた特異地点──砂漠の最深部の地殻が、まるで悲鳴を上げるかのように不気味に震動し始めた。
ド……ド……ド……ド……。
それは地鳴りなどという生易しい現象ではなかった。
キヴォトスという世界を支える概念、物理法則、神秘の「理」そのものが内側から暴力的に破綻していく擦過音。
熱砂が重力を無視して津波のように天へと逆流し、古代アビドスの巨大な遺構群が浮かび上がっては、瞬間的に微粒子レベルへと破砕されていく。頭上に広がる蒼穹からは、青という色が削ぎ落とされ、どす黒い紫と漆黒の閃光が狂暴に渦巻く異次元の天蓋へと変貌を遂げていった。
『──警告。アビドス上空、高度30,000に異常な高次元位相を確認』
遥か上空に滞空するソラノミのブリッジから、通信機越しにケイの静かで無機質な声が響く。その声には感情の揺らぎが一切存在せず、淡々とした正論とデータ分析のみが紡がれる。
『既存の全データベースとの合致率、0%。これは通常の物理的存在、あるいは既存の色彩・ヘイロー反応として判定・観測することが不可能です。……観測不能な「怒り」の概念そのものと定義します』
息の詰まるような沈黙。ケイは論理に基づき、地上に立つセイカへ極めて客観的な危険性を告げた。
『解析データがリアルタイムで破壊されています。該当存在の周囲では因果の収束率が完全に破綻しており、接触した物質の存在確率は一秒間に数億回の単位でゼロへと収束します。生存確率は著しく低く、交戦は非合理です。……お父さん、即座に退避してください。戦術的撤退を推奨します』
砂塵が激しく舞い散る地表で、室笠セイカは静かに空を見上げた。
漆黒の軍服の裾を夜風のごとき砂嵐に揺らしながら、紫の双眸を僅かに細める。
「……いえ。逃げられません」
セイカの声には、揺らぎ一つなかった。
「私がここで目を逸らせば、この波──このノイズはアビドスだけに留まらず、キヴォトス全土を飲み込む。そうなれば、私たちがようやく手繰り寄せたあの温かな『日常』が、家族の笑顔が……完全に消し去られてしまう」
その言葉が終わるや否や。
バリァァァァァァァァンッ────―!
頭上の空そのものが、巨大なガラスの天球のように真っ二つに砕け散った。
歪んだ空間の亀裂、その向こう側に広がる不条理な虚無の深淵から、禍々しい紫電を全身に纏った超巨大な異形が姿を現す。
──降臨:セトの憤怒。
神話の時代から切り離され、因果の裏側に封印されていた絶対なる破壊の権化。
その巨体が解き放つ「神威」の圧触だけで、何百キロも離れた地表の砂丘が一瞬でクレーター状に爆砕し、空気中の分子が強制励起されて紫色の放電が空間を満たしていく。かつてアビドスを覆った「地下生活者」の緻密なゲームすら、この無差別な理不尽の前には児戯に見えてしまうほどの純粋な「不条理」の具現であった。
「……空見の波、全開」
セイカの紫の瞳が、限界を超えた演算の光を宿す。
彼女の時間感覚が幾千倍に引き伸ばされ、セトが解き放つ攻撃の軌道、空間の崩落点、無数の「未来の可能性」が濁流となって意識へ流れ込む──はずであった。
しかし──。
「……っ!?」
セイカの美しい顔立ちが、苦痛と激しい焦燥に歪む。
「ダメです……演算が追いつかない……! 存在確率が常に変動している……! 確定させるべき『未来』そのものが、毎秒数億回単位で書き換えられている……!」
未来を観測し、最善の一手を確定させる。
セイカが誇る絶対の「空見」の能力そのものが無効化されていた。セトという存在は、因果律の法則の外側に立ち、攻撃が届いたという「結果」を乱雑に叩きつけてくる。
セトが巨大な腕を振り上げる。
空間が捩れ、セイカの足元の地殻が一瞬で削り取られていく。
『セイカさん!!』
通信機越しに、ソラノミの艦長席に座るアカネから悲痛な声が飛ぶ。
「……大丈夫です、アカネ。……ケイ」
『はい、お父さん。通信回線およびデータリンクは正常に維持されています』
「私の演算だけでは足りません。……ならば、私一人で戦う必要もありません。家族の力を、貸してください」
『了解しました』
ケイの音声データから一切の揺らぎが消え、即座に大容量兵装の展開シークエンスへと移行する。
『ソラノミ中央格納庫、緊急開放手順を実行。【メテオストライカー】を地上へ射出します。……全火線バイパス完了。お父さん、持ちこたえてください』
__________
ドガガガガガガァンッ!
セトの巨体から無数の紫電が放射状に放たれる。
それは単なる雷撃ではない。複数の次元を同時に貫通し、「回避する」という概念そのものを潰しながら確実に命中の結果を叩きつける絶対の壊滅波。
セイカは空間を連続して歪め、極限の制動で直撃軌道からは身をかわしたものの、余波として叩きつけられる神威の圧触が彼女の体を鋭く薙ぎ払う。
「くっ……!」
膝を突きそうになるセイカ。
脳内に渦巻く高次演算回路に重度の過負荷が生じ、視界が紫色のノイズで埋め尽くされる。背後に浮遊させていた標準ファンネルの幾何学障壁には、禍々しい亀裂が走り、ルミナス粒子の供給が瞬時に乱れた。
「(確定すべき未来が収束しない……! 向こうが『破滅の確率』をランダムに拡散させ続けている……!)」
セトの不条理な攻撃の前では、一秒の遅れがそのまま存在の消滅を意味する。
ソラノミから射出された【メテオストライカー】が大気圏を突破し、地上のセイカのもとへ到達して完全同期を果たすまでの時間は、およそ数秒。
だが、因果を無視して迫るセトの追撃を前にしては、その数秒が果てしなく遠い永遠に思えた。
セトが再びその禍々しい巨腕を掲げ、セイカの存在する空間ごと押し潰さんと圧力を高めていく。
死の概念が、紫電の輝きとともにセイカの頭上へと振り下ろされようとした──その時。
爆風と熱砂を吹き飛ばし、引き裂かれた戦場に怒号が轟いた。
「──させないわよぉぉぉぉッ!!」
__________
バババババババババンッ!!
砂漠の静寂を切り裂く、苛烈な連続射撃音。
セトの巨腕から伸びていた紫電の束に、無数の実体弾と光弾が叩きつけられ、その攻撃の集束を強引に数ミリズラしてみせた。
銃弾を放ったのは、黒見セリカであった。
先の地下生活者との決戦、そしてホシノ・テラーの救出劇によって、彼女たちの身体は既に満身創痍であった。制服は破れ、足元はおぼつかず、誰もが立っていることすら奇跡のような状態。
それでも、黒見セリカが、十六夜ノノミが、奥空アヤネが、そして砂狼シロコが──その手に固く握りしめた銃口を一切ブレさせることなくセトへ向けていた。
「セイカだけに……背負わせるわけにいかないんだからっ!」
セリカが歯を食いしばり、熱くなったアサルトライフルの弾倉を叩き込む。
「そうです! 私たちの街を、私たちの日常を……助けてもらったお返しもできないまま、奪わせたりしません!」
ノノミがミニガンを咆哮させ、アヤネは手に持つ通信端末が過負荷で白煙を上げるのも構わず、セトの不条理な波動を解析・相殺するための逆位相データをセイカの全周へ展開し続ける。
「……ホシノ先輩を救ってくれた。……今度は、私たちが手伝う」
砂狼シロコと、室笠シロコ。
二人のシロコが背中合わせに並び立ち、一糸乱れぬ完璧な連動射撃でセトの脚部、その因果の結節点と思われる高濃度エネルギー部位へ集中砲火を浴びせていく。
そして──。
膝をついていた小鳥遊ホシノが、琥珀色の瞳に消えることのない強い闘志を宿し、巨大な盾を砂漠へ強く突き立てた。
「……んへへ。頼りないおじさんだけどさ……こんな素敵な『お父さん』を、ここで死なせるわけにはいかないよね……!」
ゴオォォォォォォンッ!
ホシノが展開した盾が、セトから漏れ出た二次衝撃波を正面から受け止める。衝撃でホシノの腕の腕が悲鳴を上げ、砂煙が吹き荒れるが、彼女の一歩は決して後ろへ下がらなかった。
だが、セトの憤怒は止まらない。
対策委員会の一斉射撃を鬱陶しそうに払いのけようと、異形の頭部から巨大な紫電の奔流が展開される。アビドスの面々の防衛線を一瞬で灰塵に帰すほどの極大威力が練り上げられた──その瞬間。
ズドォォォォォォォンッ!!
遥か後方から放たれた極大の魔力光線が、空間を鮮やかに切り裂いてセトの右腕を直接穿った。
激しい火花と不条理な概念の破片が飛び散る。
そこに立っていたのは、ゲヘナ学園風紀委員長──空崎ヒナであった。
華奢な身体を過酷な戦いに晒し、砲門からは揺らめく熱気が立ち昇っている。吐息に僅かな血の混じるほどの満身創痍でありながら、その姿には神聖なまでの威厳が宿っていた。
「……くっ……はぁっ……! 室笠セイカ……!」
ヒナは激しく肩を上下させながらも、その鋭い瞳でセイカを見据えた。
「あなたの……その『一手』……私たちが繋いだこの数秒で……確実に通しなさい!」
アビドス対策委員会、そして空崎ヒナ。
己の限界を遥かに超えて命を燃やした少女たちの死闘が、セトの「不条理な確定」を力ずくで引き延ばし、崩壊しかけていた戦場の因果を繋ぎ止めた。
「……みなさん……!」
セイカの紫の双眸に、温かく、そして激しい感謝の決意が宿る。
『お父さん! 頭上より【メテオストライカー】、大気圏突入軌道を離脱し到達しました!』
ケイの無機質な、しかし確実なアナウンスが戦場全体に響き渡った。
__________
ドォォォォォォンっ!
暗雲立ち込める天蓋を打ち破り、ソラノミから撃ち出された目も眩むような大光量が地表へ降臨する。
一直線にセイカのもとへ着弾したのは、二基の【ルミナス・コア】を搭載した超大型兵装ユニット──【メテオストライカー】。
二基のコアが互いに共鳴し合い、莫大なエネルギーが機体全体へと行き渡る。
装甲の放熱スリット、12基のファンネルバインダーから、高濃度のルミナス粒子が爆発的に放出された。
白と青に彩られた重厚な装甲。
そこから溢れ出す無数の光粒子は、夜空の天の川のような美しい光の軌跡を描き出し、アビドスの荒涼とした砂漠を神聖な白銀の世界へと塗り替えていく。
セイカは宙へ跳躍し、メテオストライカーと背面で完璧に接続した。
ガシィィィィンッ!
「……ルミナス・コア、ダブルコア同期」
『同期率100%に到達。全システム、極限安定稼働状態に移行しました』
ケイの無機質なデータリポートが届く。
『ルミナス粒子の放出速度、規定値を維持。慣性制御フィールドの作動により、機体質量影響は99.8%相殺されました。運動性能の低下現象は認められません。……お父さん、出力正常です。いつでも行けます』
ルミナス粒子が機体の重量と慣性を再定義し、戦艦クラスの巨体がまるで質量を持たないかのように滑らかに空へ舞い上がる。
セイカの水色の翼が何十メートルもの長さに広がった。
「……行きます」
メテオストライカーが、爆発的な加速とともに空間から消えた。
__________
ドガァァァァァァンっ!
セトから解き放たれる無数の紫電。複数の並行次元を跨ぎ、「回避」という概念そのものを消去する絶対の一撃。
だが、ルミナス粒子を全身に纏ったメテオストライカーは、セトが確率を固定しようとするその「隙間」をあり得ない角度と軌道で縫うように超高機動で飛翔する。
「……未来を、一つに決める必要はありません」
12基のフィン・ファンネルが一斉に展開。
白と青の光条が空間を走り、ルミナス粒子が長い光の尾となって歪んだ天蓋を白銀と蒼穹の幾何学模様で塗り替えていく。
『警告。敵概念体の周囲にて時空歪曲波の発生を確認』
ケイの冷徹な正論が即座に通信機を打つ。
『通常の軌道計算では0.02秒後に左翼部への接触確率が99%を超過します。右30度方向へ概念推進を推奨。こちらの処理能力は十分に追随可能です』
「ええ、頼みますケイ!」
12基のフィン・ファンネルがセトを全周から完璧に包囲し、白と青の光条でその動きを封鎖する。
中央の固定式メテオバスターライフルがゆっくりと砲口を向け、ダブルコアの膨大なエネルギーとセイカ自身の紫の演算光が集束していく。
「……あなたの『怒り』が、どれほど不条理でも」
セイカの脳裏に、守るべき家族の姿、そして命を賭して時間を繋いでくれた少女たちの姿が過る。
「私たちの『日常』を……奪わせるわけにはいきません」
背後で輝く12基のフィン・ファンネル。
白。青。そして中心で狂暴なまでに渦巻く紫の演算光。
「……室笠家の平和を乱した代償──払ってもらいます」
メテオストライカーが極限まで加速し、白と青の光粒子を引きながらセトへ向かって肉薄する。
中央のメテオバスターライフルから解き放たれた紫の閃光と、12基のファンネルからの交差光条が、セトの不条理な障壁と激しく激突した──!
ズガガガガガガガガガァァァァァァァンッ!!
砂漠全体を揺るがす圧倒的な衝撃波。
しかし、セトの胸元から湧き出る暗黒の怒りと神威は、セイカの極大光線を押し返さんと狂暴に渦巻いている。
『敵概念体の高次元障壁、完全相殺には至っていません』
ケイの淡々とした、しかし緊迫したアナウンスが通信機を打つ。
『セトの出力の上昇を確認。……お父さん、向こうも因果の書き換え速度を増加させています。ここからが、真の交戦領域です』
閃光と爆音の中で、セイカは紫の双眸を強く輝かせ、敵の巨体を見据えた──。