アビドス上空を埋め尽くしていた漆黒と紫の天蓋が、嘘のように雲散霧消していく。
神の不条理そのものを体現していたセトの憤怒は、存在確率を完全に摩滅させ、概念の砂となって風に溶けた。
狂暴に荒れ狂っていた熱砂も、世界を切り裂くように奔走していた黒い雷撃も、今はもうどこにもない。焦土と化したアビドス砂漠の最深部には、ただ静寂だけが横たわっていた。
天から地へと、柔らかな朝の光が差し込んでくる。
暗黒の夜を押し返しながら広がる朝陽は、削り取られた荒野を優しく包み込み、長かった死闘の終わりを静かに告げていた。
その光の真下。
緑色のルミナス粒子を放ち続けていた超大型兵装【メテオストライカー】が、ゆっくりと着地を果たした。
ズ……ン……
巨大な推進バインダーが駆動音を落とし、静かな放熱音とともに可動パーツが本来の収容位置へと戻っていく。
背後のダブル・ルミナス・コアは静かに閃光を沈め、十二基のフィン・ファンネルもまた、バインダーへと一基ずつカチリ、カチリと音を立てて整然と格納されていく。
ハッチが排気音を放ちながらゆっくりと開放された。
コクピットから降り立ったのはセイカである。
過負荷による「空見の閃」の代償で、その紫色の双眸にはまだ僅かな熱線と疲労の色が色濃く残っていた。だが、彼女の足取りは確かであり、凛と地表を踏みしめる動作に迷いは一切なかった。
「……終わりましたね」
セイカの隣に降り立ったのは、アカネであった。
完璧な給仕の所作を一切崩さず、しかしその瞳には安堵の色を隠しきれずに、彼女はセイカの軍服の肩に付着した僅かな砂塵を細やかな手つきで払い落とす。
「ええ、セイカさん。全て消滅いたしました。敵概念体の応答、周囲の空間異変、共にゼロです」
「……ケイ、そちらの負荷はどうですか? 状況を分析してください」
セイカが問いかけると、彼女の脳内通信、そして実体化した端末のスピーカーから、どこか誇らしげで、しかし僅かに弾んだ声が返ってきた。
『高次演算回路のオーバーヒート、およびデータ帯域の飽和状態はすべて冷却プロセスへ移行しました。……問題ありません、お父さん。私たちは、勝ちました』
「理解しました。……よくやってくれましたね、ケイ」
セイカは静かに息を吐き、静まり返った砂漠を見渡した。
そこには、互いに肩を借り合いながらも誰も欠けることなく立ち尽くしている、アビドス対策委員会の面々の姿があった。
ホシノが巨大な盾を砂に突き立てて空を見上げており、その横でセリカとノノミ、シロコにアヤネがへたり込みながらも微笑み合っている。
そして、少し離れた場所にたたずむ一人の少女。
かつてすべてを失い、絶望の果てに彷徨っていたところを室笠家に迎え入れられた室笠シロコ。
さらに、空からの支援を完遂し、漆黒の翼を静かに収めながら降下してきたゲヘナ学園の風紀委員長、ヒナ。
「まったく……無茶苦茶な戦闘だったわね」
ヒナが溜息をつきながら歩み寄ってくる。その手には使い古された愛銃が握られていたが、すでに殺気は消えていた。
「神格の概念体と正面から打ち合い、存在確率そのものを書き換えて打ち破るなんて。……ゲヘナのデータベースを探しても、こんな戦術の記述はどこにも存在しないわ」
「奇策ではありませんよ、ヒナさん」
アカネが洗練された動作で一歩前へ出た。その手には、どこから取り出したのか、すでに完璧なセッティングが施されたティーセットと、湯気を立てる銀色のティーポットが握られている。
「ただ、私の大切な主が……私たちの家族が、引き下がる選択肢を持っていなかったというだけの話です」
「……こんな状況で、よくそんなものを持っていられるわね」
ヒナは呆れたように眉をひそめたが、その表情にはかすかな敬意と可笑しさが混ざり合っていた。
__________
焦げた匂いがかすかに残る熱砂の上に、折りたたみ式の小さなテーブルと白磁のティーカップが並べられた。
アカネの手によって注がれる紅茶は、朝日を反射して美しい琥珀色に輝いている。
湯気とともに立ち上るのは、厳選された茶葉の華やかな香りと、柑橘系の爽やかなベルガモットの香り。死線の直後であるはずの戦場に、場違いなほど優雅で穏やかな時間が広がっていく。
「どうぞ、ヒナさん。それから……ホシノさん、みなさんも」
「うわぁ……すごいです! こんな砂漠の真ん中で本格的な紅茶がいただけるなんて……!」
ノノミが両手を頬に当てて目を輝かせる。セリカは「な、なんでこんなものまで準備してあるのよ……」と困惑しつつも、手渡されたカップから広がる温かな香りに、緊張の糸がほつれていくのを隠せなかった。
「……んへへ、助かるよ~、メイドさん。おじさん、もう体中の関節が悲鳴を上げててね……温かい飲み物が沁みるなぁ」
ホシノはカップを受け取ると、ふうふうと息を吹きかけて一口含み、心底幸せそうな溜息をついた。
その輪から少し離れた場所で、砂漠の風に髪を揺らしていたシロコ*テラーの元へ、アカネがそっと近づいていく。
「シロコ。あなたも、どうぞ」
差し出された白磁のカップを、シロコは静かに見つめた。
オッドアイの瞳に映るのは、湯気立つ琥珀色の液体と、母親としての温かな眼差しを向けるアカネの姿だった。
「……お母さん」
「ええ。よく頑張りましたね。戦いは終わりました。今はただ、温かいお茶を飲んで息を吐きましょう」
アカネの手が、シロコの頭を優しく撫でる。
拒絶の要らない、確固たる愛に包まれて、シロコは小さな手でカップを受け取った。一口含んだ瞬間、温かな液体が身体の奥底まで染み渡り、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「……温かい」
「ええ。私たちが淹れた、いつもの紅茶です」
シロコはカップを見つめたまま、ゆっくりと視線をセイカへと向けた。
「……ありがとう、お父さん」
ぽつりと落とされた娘の声に、セイカは静かに振り返り、その視線をまっすぐに受け止めた。
「……お礼を言われるようなことではありません、シロコ」
セイカは過負荷の残熱が残る手に手袋をはめ直し、静かな間を置いてから、どこまでも重く、揺るぎない口調で言い切った。
「娘を守り、家族と共に家に帰る。……私にとって、それは当然果たすべき最低限の義務であり、確定事項ですから」
「……うん」
シロコの唇に、ほんの僅かな、けれど心からの温かな笑みが浮かんだ。
『補足させていただきます、シロコお姉ちゃん』
端末からケイの声が滑り込む。
『お父さんの「空見の閃」による最適解の算出において、お姉ちゃんが保持していた「因果の歪み」は決定的な補正要素として機能しました。お姉ちゃんがセトの足元を食い止め、防衛概念を挫いたからこそ、【メテオストライカー】の全火力は因果の「遅れ」へ完璧に収束できたのです』
ケイはデータのリポートとして語りながらも、嬉しそうに端末の画面を明滅させていた。
『つまり、今回の勝利はお父さん一人ではなく、家族である私たちが共に戦った成果です。……数値上の確定事項です』
「……そっか。……ありがとう、ケイ」
__________
「いやー、それにしてもさ」
カップを置き、ホシノがのんびりとした足取りでセイカへ近づいてきた。
その琥珀色のオッドアイは、どこか悪戯っぽく、けれど深い親愛の情を込めてセイカを見上げている。
「まさかこんなかっこいい『お父さん』が隠れてたなんてねぇ。この前の箱舟の時も思ったけど、おじさん本当に安心したよ」
「……そう評価していただけるのは光栄です、ホシノ。ですが、私はただの親ですよ。我が子と守るべきものを正しく守るために、合理的な手段を講じたに過ぎません」
セイカは一切の冗談や照れを表に出すことなく、淡々と真面目な顔で言葉を返した。
「んへへ、そういう固くて頼もしいところ、すごく良いと思うよ~」
ホシノは頭の後ろで両手を組み、背後の巨大なメテオストライカーを見上げた。
「でもさ、セイカちゃん。君がいてくれて本当によかったよ。……私やアビドスのみんなを助けてくれて。このアビドスの空を、もう一度青く戻してくれて」
「……感謝すべきなのは、私の方です」
セイカはホシノの視線を静かに受け止め、言葉を紡いだ。
「あなた方が地上でセトの足止めを行い、防衛構造の隙を作り出してくれなければ、私の演算は成立しませんでした。私一人では……家族を守り切ることはできなかったと判断しています」
「互い様、ってやつだね」
ホシノは満足そうに目を細めた。その横から、アカネが静かに歩み寄り、セイカの隣に立つ。
「ホシノさんのおっしゃる通りです。セイカさんは時折、全てを自分一人の演算で背負おうとなさいますから」
「……アカネ。私は単に、最も成功確率の高い解を模索していただけです」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
アカネはクスリと微笑み、それから真摯な瞳でセイカを見つめた。
「ですが、私と子供たちにとって……そしてここにいる全員にとって、セイカさんは代わりの効かない存在です。確率や不確定要素に溢れたこの世界において……セイカさんは、私たちの世界に一つだけの『確定事項』なのですから」
確定事項。
無数の未来の分岐を視る「空見の閃」を持つセイカにとって、これ以上重く、そして美しい言葉はなかった。
「……アカネ」
セイカは一瞬だけ言葉を詰まらせ、静かな間を置いてから、真っ直ぐに妻を見つめ返した。
「……理解しました。あなたの言葉を、重く受け止めます」
「ええ。ですから、あまり無茶はなさらないでくださいね。帰ってからの作業が増えてしまいますから」
『同意いたします、お父さん。今回のフレームにかかった過負荷のチェックとメンテナンスには、少なくとも三日間はかかります』
「……了解しました。速やかにメンテナンスシークエンスに移行しましょう」
やはり真顔のまま淡々と答えるセイカを見て、ホシノは「あはは、良い家族だなぁ」と嬉しそうに目を細めていた。
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一方、静かに紅茶を飲み干したヒナは、腕を組んでメテオストライカーの脚部フレームを見上げていた。
「……万魔殿に見せたら、間違いなく失神するでしょうね、これ」
「何か問題でもありましたか、ヒナ」
セイカが歩み寄ると、ヒナは視線だけを彼女に向けた。
「いいえ。ただ……驚いているだけよ。これほどの質量、これほどの出力を誇る兵器でありながら、設計の根底にある思想が『破壊』ではないことに」
ヒナの手が、メテオストライカーの装甲にそっと触れる。冷たい金属の感触の奥から、かすかな温もりが伝わってくるようだった。
「圧倒的な火力で敵をねじ伏せるための兵器なら、もっと無骨で、もっと非効率な構造になるはずだわ。でも、この機体は違う。すべてのパーツ、すべてのエネルギーバイパスが、乗員を守り、家族を護り、確実に『生きて帰る』ために最適化されている」
ヒナはセイカをまっすぐに見つめた。
「あのシロコ*テラーという少女を受け入れ、娘として守る理由が分かった気がするわ。ただの破壊兵器じゃない。あなたという親の想いと、家族の絆が形になったものなのね」
「……その分析は正確です」
セイカは静かに頷いた。
「この機体は、私の思想だけではなく、家族全員の意図と覚悟が結実した存在です。……だからこそ、これを単なる破壊のために使うことは許されません。守るために使い、生きて帰る。それこそがこの機体の本来の運用定義です」
「ふん……相変わらず隙がなくて、重い人ね」
ヒナは小さく鼻を鳴らしたが、その表情には柔らかい笑みが浮かんでいた。
「とにかく、アビドスの危機は去ったわ。私も……そろそろゲヘナへ戻って、溜まりに溜まった書類仕事を片付けないと」
「ヒナさん」
離れようとするヒナを引き止めたのは、アカネの声だった。
「よろしければ、近いうちに『ソラノミ』へお越しになりませんか?」
「ソラノミ……? あなたたちの拠点のこと?」
「ええ。今回のお礼も含めて、最高の紅茶と、出来立てのお菓子でおもてなしをさせていただきます。もちろん、セイカも歓迎いたします」
「……ええ。私の管轄領域へお越しいただけるのであれば、歓迎の意を表します」
セイカの淡々とした言葉に、ヒナは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの冷徹な風紀委員長の顔に戻した。
「……気が向いたらね。私、これでも結構忙しいの」
「はい。いつでもお待ちしております」
背を向けて歩き出すヒナの足取りは、先ほどまでの重圧から解き放たれ、どこか軽やかだった。
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陽は完全に昇り、アビドス砂漠は金色の光で満たされていた。
地表の熱気が揺らめき、見渡す限りの大砂丘が美しく輝く。戦いの爪痕はまだ残っているものの、そこには確実に、新しく平和な一日が始まろうとしている気配があった。
「さて……そろそろ私達も帰りましょうか」
ノノミが背伸びをしながら言った。セリカとアヤネも満足そうに頷いている。
「そうね! 対策委員会の部室に戻って、片付けをしないと!」
「あ、セリカちゃん、今日は私が掃除当番ですよ~」
「いいのよ、みんなでやればすぐ終わるんだから!」
賑やかな声を上げる対策委員会の面々。その横で、砂狼シロコが静かに室笠シロコの隣に立った。
「……ん。またね」
「……うん。また」
二人のシロコが互いに顔を見合わせ、小さく頷き合う。自分の居場所を見つけたシロコ*テラーの表情には、もう過去の影は残っていなかった。
セイカはメテオストライカーの遠隔稼働モードを起動し、機体を自動追従・格納シークエンスへと移行させた。
「メテオストライカー、格納シークエンスを開始します」
巨大な金属の翼がゆっくりと閉じられ、光学迷彩とシールドによって、その神々しい姿が空気の中に溶け込んでいく。
「……セイカさん」
アカネが隣に並び立ち、シロコがセイカの服の裾を掴んだ。
「帰ったら、何が食べたいですか?」
「……そうですね」
セイカは静かに思考を巡らせ、それから端末を手にしたケイ、そして隣に立つシロコへ視線を向けた。
「ケイ、シロコ。あなたたちにメニューの決定権を委ねます。何かリクエストはありますか?」
「はい、お父さん。私のデータベースにおける優先度が最も高く設定されているメニューがあります」
ケイが胸を張ると、シロコ*テラーもぽつりと口を開いた。
「……オムライス。お母さんの作る、デミグラスソースの」
「同意いたします、シロコお姉ちゃん。「勝利のオムライス」こそ、この難局を乗り越えた私たちに最もふさわしい栄養素および精神的満足度を供給します」
二人の娘の言葉に、アカネが嬉しそうにクスリと笑った。
「ふふ、決定ですね。……セイカさんも、それでよろしいですか?」
「……ええ。合理的な判断だと思います。アカネの作るオムライスには、一切の不服もありません」
「かしこまりました。では、戻ったら腕によりをかけて準備いたしますね」
セイカは妻と娘たちの頭にそっと手を置き、一歩を踏み出した。
かつて、彼女の持つ力はただただ世界の異変を観測し、破滅を回避するためだけの「孤独な演算」だった。
だが今は違う。
背後には、信頼を寄せる仲間たちがいる。
隣には、温かな紅茶を淹れて寄り添ってくれる愛する妻・アカネがいる。
脳内と目の前で、嬉しそうにデータを跳ねさせる娘のケイがいる。
そして、しっかりと自分の手を握り返してくれる大切な娘のシロコがいる。
メテオストライカーの圧倒的な力は、もはや神を討つためだけの兵器ではない。
この愛おしく、何物にも代えがたい家族の日常を守り、自分たちの「家」へ帰るための、静かな守護者なのだ。
__________
風が砂漠を吹き抜けていく。
熱砂の向こうに見えるアビドス高等学校の校舎が、朝陽を受けて眩しく輝いていた。
そこには、明日も、明後日も続いていく、くだらなくも愛おしい日常が待っている。
言葉はもう要らなかった。
セイカは凛とした軍服の裾をなびかせ、愛する家族とともに、まっすぐに前を見据えて歩き出す。
その一歩一歩が、確固たる『未来』を刻んでいた。
神の威光すら塗り替えた最強の兵器は、静かに彼女たちの背後で見守っている。
家族の笑顔を守るために。
帰るべき温かな場所を守るために。
室笠セイカと、彼女の家族たちの物語は──この晴れやかな朝空の下、新しい日常へと続いていく。