アビドス高等学校の敷地内では、ささやかな、けれど温かな勝利の宴が催されていた。
ソラノミから持ち込まれた温かい料理や出来立てのパンが並べられ、対策委員会の面々やシロコたちが声を弾ませている。
だが、その賑わいから遠く離れた砂丘の陰。
静まり返る夜の荒野に、二つの影がたたずんでいた。
室笠セイカと、空崎ヒナである。
夜風がセイカの漆黒の軍服をかすかに揺らす。その紫色の双眸は、月光に照らされた何もない荒野の一点を、じっと見据えていた。
「……まだ、一つだけ残っています」
セイカの静かな一言に、ヒナが隣で振り返る。その手にはすでに愛銃が握られていた。
「セトの残骸?」
「いいえ。あれよりも不確定要素の強い、厄介な代物です」
セイカは視線を逸らさず、淡々と答えた。
「観測データを共有します。……地下生活者が最後に残した切り札。《雷帝の遺産》です」
セイカの言葉に、ヒナの表情がわずかに硬くなった。
「……雷帝の遺産ですって?」
「はい。現在、それは通常の物理空間には存在していません。『位相の裏側』に凍結された状態で隠蔽されています。現状は停止状態ですが……完全に消滅したわけではありません。特定の因果系が成立した場合、現実世界へ干渉し、再起動する可能性が残されています」
ヒナは眉をひそめ、セイカの横顔を見つめた。
「それを今まで放置していたの?」
「放置していたわけではありません」
セイカの紫の瞳が、かすかに光を帯びる。
「排除するための最適な手順を、計算していただけです」
__________
「私の『空見の閃』により、数多の未来分岐を観測しました」
セイカは風に髪をなびかせながら、静かに言葉を重ねる。
「その中には、《雷帝の遺産》が再起動する未来も確かに存在しています。ですが、それらの未来には一つだけ共通する前提条件がありました。……『起動ボタンが押される』ということです」
「条件……?」
「ええ。私はその条件を逆利用しました。『起動ボタンが押されない未来』を選択・観測し、その世界線を現在の記述として固定しました」
ヒナは思案するように顎に手を当てた。
「つまり……存在はしているけれど、絶対に起動しない状態にした、ということ?」
「肯定します。ですが、存在そのものが残留している以上、確定事項とは言えません。因果の揺らぎによる確率の変動を完全にゼロにするには、物理的な消滅が必要です」
「……なら、今ここであなたが壊せばいいんじゃないの?」
ヒナの当然の疑問に対し、セイカは首を横に振った。
「現在の私は、『空見の閃』の全演算領域を『起動しない未来の固定』に割り振っています。この状態で私が物理的な攻撃介入を行うと、演算の並行処理能力を超え、因果の固定が破綻します」
「なるほどね。あなたが抑え込んでいるから、あなた自身は手が出せない」
ヒナは納得したように頷き、銃口を夜空へと向けた。
「だから……私に壊せというわけね?」
「はい。それが最も成功確率の高い解であると判断します」
「了解したわ」
__________
「作戦を説明します」
セイカの服が、微かな音を立てて締め直される。
「私が『空見の閃』の出力を一時的に変更し、位相の裏側に存在する核を、この現実空間へ引きずり出します。ただし、固定が緩むため、維持できる時間は一瞬です」
「十分よ。外すつもりはないわ」
ヒナの身体から、ゲヘナの風紀委員長たる圧倒的な魔力と威圧感が溢れ出す。夜の砂漠の空気が、キリキリと引き締まっていく。
「……では、お願いします。ヒナ」
「ええ。任せなさい」
__________
セイカの瞳が、深遠な紫色に輝いた。
「──『空見の閃』、局所的位相置換」
ズ……ツ……
何もない空間に、世界を切り裂くような縦の亀裂が生じた。
その亀裂の向こう側から、黒い鋼鉄の異形──《雷帝の遺産》の核心部が、引きずり出されるように現実世界へと露出する。
禍々しい圧力を放つ巨大な機体。
だが、それは動かない。駆動音すら上がらない。
セイカが「起動しない未来」を固定しているため、その兵器はただ存在することしか許されず、完璧な「標的」としてそこに立ち尽くしていた。
「……今です」
ヒナの背後に、巨大な神秘の影が立ち昇る。
「……随分と贅沢な組み合わせね」
ヒナは静かに引き金を指にかける。
「ミレニアムの『お父さん』と、ゲヘナの風紀委員長」
凝縮された過酷なまでのエネルギーが、銃口の一点へと収束していく。
「──終幕よ」
閃光が、夜の砂漠を白昼へと変えた。
放たれた一撃は、空間を歪めながら直線的に奔流し、《雷帝の遺産》の中心核を寸分の狂いもなく貫き通した。
__________
再起動のシークエンスすら立ち上がらず、反撃の確率すら計算されず。
かつてキヴォトスを激震させた遺産は、ただの一度も威容を誇ることなく、内側から完膚なきまでに崩壊していった。
極大のエネルギーが黒い鋼鉄を粒子へと還元し、夜風の中へと吹き散らしていく。
核の完全破壊を確認し、セイカは静かに「空見の閃」を解除した。
荒野に、再び穏やかな夜の静寂が戻ってくる。
ヒナは硝煙を吐く銃口を下ろし、大きく息を吐いた。
「……これで、本当に終わったのね」
セイカは端末のデータと視覚情報を照合し、環境の不確定要素を演算する。
「……環境内の脅威反応、ゼロ。はい。アビドスに残された潜在的リスクは、全て排除されました」
「……そう」
ヒナの表情から険しさが抜け、わずかに肩の力が降りた。
「なら、あの子たちも……本当の意味で安心できるわね」
「ええ。そのように判断します」
__________
セイカは足元に置いていた小型の冷蔵コンテナを持ち上げ、カチリとロックを外した。
中から取り出したのは、白磁の器に入った鮮やかな赤色のスイーツである。
ヒナが怪訝そうな顔でそれを見た。
「……何、それ?」
「アカネが作ってくれたベリームースです。『空見の閃』を長時間使用した後は、脳の糖分消費が激しいため、補給が必要です」
「……こんな状況でスイーツ?」
セイカは一切の冗談を含まない、完璧な真顔で答えた。
「こんな状況だからこそです。糖分と栄養の摂取は、私の演算負荷軽減において最も効果的な手段ですから。……ヒナ、あなたもいかがですか。消費した魔力の回復に寄与すると判断します」
差し出された器を、ヒナは呆れたように見つめたが、断ることもせず受け取った。
一口口に運ぶと、ベリーの甘酸っぱさと上品なクリームの風味が口いっぱいに広がる。
「……おいしいわね。本当に、抜け目がないというか」
ムースを味わいながら、ヒナは改めてセイカの横顔をじっと見た。
「……あなたって、本当にミレニアムの生徒なの?」
「そうですが? 所属上、何の問題もありません」
「なんというか……普通の生徒の枠に収まっているようには見えないけれど」
セイカはほんの少しだけ、口元に静かな笑みを浮かべた。
「当然です」
そして、どこまでも真っ直ぐに、揺るぎない声で言い切った。
「私は、『お父さん』ですから」
ヒナを一瞬だけ黙らせるほど、それは重く、温かな自負に満ちた言葉だった。
「おーい! セイカちゃーん! ヒナちゃーん! おかえりー!」
遠くから、ホシノののんびりとした呼び声が夜風に乗って届いた。
「……帰りましょうか。みんなが待っているわ」
「はい。行きましょう」
セイカとヒナは器を片付け、ソラノミの温かな光が漏れるアビドス校舎の方へと歩き出した。
その向こうには、笑顔で手を振る対策委員会の面々がいて、温かい紅茶を準備して待っている妻のアカネがいて、嬉しそうにデータを跳ねさせるケイと、静かに自分たちの帰りを待つ娘のシロコがいる。
二人が去ったあとの砂丘には、もう何も残っていない。
かつて世界を脅かした《雷帝の遺産》があった場所には、ただ穏やかな夜風が吹いているだけだった。
雷帝の遺産さえも、室笠家の日常を彩る最後の花火に過ぎなかったのだから。