名前の響きと、甘い嫉妬
夜の砂漠は、熱を失うと同時に果てしない静寂へと沈み込んでいく。
無数の砂粒が月に照らされて銀色に煌めき、どこまでも続く砂丘の起伏は、まるで静止した巨大な波のようだった。吹き抜ける風は冷たく、昼間の死闘が嘘であったかのように静まり返っている。
アビドス高等学校の校舎からは、窓越しに柔らかなオレンジ色の光が漏れ出していた。
室内では、室笠家の移動拠点『ソラノミ』から運び込まれたできたての料理や温かいスープ、焼きたてのパンがテーブル狭しと並べられ、対策委員会の面々が賑やかに勝利の余韻を分かち合っているはずだった。ホシノののんびりとした笑い声や、セリカの威勢の良い声が、夜気の中にうっすらと溶けて消えていく。
その賑やかな灯りから少し離れた夜道。
足跡すら風によって瞬く間に消されていく砂の上を、二つの影が並んで歩いていた。
室笠セイカと、空崎ヒナである。
地下生活者が遺した最後の脅威──位相の裏側に潜んでいた《雷帝の遺産》を、計算し尽くされた一瞬の隙と《終幕の光》の極大火力によって完全消滅させた直後の行軍。
セイカの纏う漆黒の軍服は、夜風を受けてしなやかに裾を揺らしていた。過負荷による《空見の閃》の残熱はすでに収まり、その紫色の双眸には、いつもの冷徹なまでに研ぎ澄まされた理知の光が宿っている。
その隣を歩くヒナの手には、すでに愛銃が収められていた。
ゲヘナ学園の風紀委員長としてキヴォトスの重圧を背負い続けてきた彼女の肩から、長年の戦いでこびりついていた緊張の糸が、ほんのわずかだけ解けているのが見て取れた。
ふと、ヒナがその小さな足取りを止める。
風が砂丘を撫でる微かな音だけが響く中、彼女は隣を歩くセイカを見上げた。
「……ねえ、セイカ」
セイカもまた、何一つ乱れのない確実な足取りをぴたりと止め、静かに振り返った。
「何か? ヒナ委員長」
セイカの声音には冗談も照れもなく、ただ誠実で合理的な問いかけだけが含まれていた。
その淡々とした響きに対し、ヒナはほんの少しだけ照れくさそうに視線を泳がせたが、すぐに意図を決したようにまっすぐな眼差しをセイカへと向けた。
「『委員長』も、『さん』もいらないわ」
「……?」
セイカは過負荷の残る頭脳の中で、瞬時に言葉の意図を検索しようとするように首を傾げた。ヒナは小さく息を吐き、言葉を継ぐ。
「今夜、私たちはアビドスに残された最後の脅威を処理したわ。神格の概念体を退け、誰も踏み込めない位相の裏側から引きずり出した遺産を打ち砕いた。……文字通り、命を預け合って戦った戦友よ」
ヒナは夜空に浮かぶ月を見上げ、それから再びセイカの紫の瞳を直視した。
「形式的な距離感や、所属学園の違いによる肩書なんて、今の私たちには必要ないと思うの。だから……名前で呼び合いましょう」
セイカの脳内で、言葉の意味が即座に解読されていく。
言葉の裏にある感情、戦友としての敬意、そして互いの信頼を一段階引き上げるという提案。セイカの論理的な思考回路は、その提案が現状においてきわめて自然であり、拒絶する理由が一切存在しないという結論を導き出した。
「……理解しました。戦友としての信頼関係の更新、およびコミュニケーションにおける冗長な肩書の省略ですね。……了解しました、ヒナ」
一切の気負いもなく、淡々と自分の名を呼んだセイカの口調に、ヒナの唇がかすかに綻んだ。
険しい戦場の中でしか生きられなかったゲヘナの風紀委員長が、ほんの一瞬だけ見せた、年相応の清々しい笑みだった。
「ええ。それでいいわ、セイカ」
二人は互いの名前の響きを確かめるように小さく頷き合うと、再び校舎の灯りを目指して歩き出した。
夜砂を踏みしめる二人の足音は、先ほどまでの重苦しさを削ぎ落とし、どこか心地よいリズムを奏でていた。
__________
ソラノミの重厚な気密扉が滑らかにスライドし、温かな空気と柔らかな灯りが二人を包み込んだ。
リビングの中に漂っているのは、柑橘類の爽やかな香りが混ざったハーブティーの芳醇な香りだ。焦げた砂の匂いと硝煙が充満していた外の世界とは、まさに天地の差だった。
「おかえりなさい、セイカさん。……随分と晴れやかなお顔をされていますね?」
出迎えたのは、完璧な給仕の所作を纏った女性──アカネであった。
セイカの愛する妻であり、室笠家のお母さんとして家事と日常の一切を仕切る彼女は、二人を迎えると同時に洗練された動作で温かいおしぼりを手渡す。
「お疲れ様でした、ヒナさんも。外は冷え込んでおりましたでしょう」
「ええ、ありがとう」
ヒナがおしぼりを受け取って指先を温める横で、セイカは手袋を外し、アカネに身を委ねた。
アカネの手は吸い付くような巧みさで、セイカの軍服の肩に付着していたわずかな砂塵を払い落とし、歪んだ襟元やネクタイの結び目を丁寧に整えていく。
「懸念事項であった《雷帝の遺産》の完全破棄を確認しました。……ヒナの協力のおかげです」
セイカはごく自然に、先ほど取り決めたばかりの「戦友としての新しい呼び名」を口にした。
一切の他意も隠し事もない、ただの事実の報告として。
──ピタリ。
セイカの服を滑らかに整えていたアカネの指先が、完璧な静寂の中で止まった。
一瞬、リビングの空気がわずかに凝縮されたような錯覚を覚える。
アカネの顔から笑顔が消えたわけではない。むしろ、その口元には完璧すぎるほど上品で、柔らかい笑みが保たれていた。だが、その背後に漂う空気が、微かな熱気を帯びて揺らめいていた。
「……今、『ヒナ』と仰いましたか?」
アカネの問いかけは、鈴の音のように可憐で静かだった。
セイカは自分の判断に何一つ不備はなかったという確信のもと、疑問に思うように紫の瞳を瞬かせた。
「……? ええ。呼び捨てで呼ぶようにと提案されましたので。空見の波で観測する限り、彼女との信頼係数は今夜の戦闘を経て極めて良好な値に達しています。呼称の簡略化は相互理解の深化を示す論理的な帰結です」
セイカがいつものように淡々と、至極まじめな顔で分析を語ろうとした、その時である。
アカネが、いつも以上の滑らかで無駄のない動作で、すっとセイカとの距離をゼロ詰めた。
香水の柔らかな香りがセイカの鼻腔をくすぐると同時に、アカネの細い手がセイカの服を優しく、けれど確実に逃がさない力加減で、少しだけキュッと締め直した。
「あ、アカネ……?」
首元にかかる微かな圧力に、セイカの背筋がピンと伸びる。
アカネはセイカの顔を至近距離から覗き込んでいた。その瞳は極上の微笑みを称えているが、その奥底には、愛する夫に対する隠しきれていない、甘く重い「妻としての嫉妬」が濃密に揺らめいていた。
「……ふふ、そうですか。あのゲヘナの風紀委員長さんと、下のお名前で呼び合う仲に」
「……言葉の定義として、戦友としての信頼関係の表れであると説明しました」
「……戦友、というわけですね。ふふ、ふふふ」
アカネのクスクスという含み笑いが、セイカの鼓膜を心地よく、しかし背筋を寒からしめる絶妙な振動で揺らした。
__________
リビングの少し離れた場所に置かれた高級感のあるソファ。
そこで静かに温かいお茶を飲んでいた室笠家の家族たちが、この尋常ざる事態に反応を示し始めていた。
膝の上にタブレットを置き、リアルタイムで環境データとセイカの生体バイタルをモニタリングしていたケイが、スピーカーを明滅させる。
『お父さん。現在のバイタルデータおよび脳波パターンを確認しました。……報告します。お父さんの高次演算能力の約一五パーセントが、「お母さんの嫉妬」に対する原因解析とリスク回避に強制割り振られています』
セイカは眉間にかすかな皺を寄せ、脳内通信へ視線を向けた。
「……私が、ですか? 私は単に現在の状況を客観的に観察しているだけですが」
『肯定します。通常の戦闘後疲労や演算負荷とは明らかに異なる、未知の精神的ストレスパラメータが発生しています。処理速度が急激に低下しています』
淡々と数値を読み上げるケイの音声には、機械的な冷徹さと同時に、どこか哀愁を帯びた「お父さんへの同情」が混ざっていた。
さらに、ケイの隣に座っていたシロコが、ゆっくりとマグカップをテーブルに置いた。
その瞳が、完璧な微笑みを崩さないアカネの横顔をじっと見つめる。
「……お母さん、怒ってる?」
シロコの短くぽつりと落ちた一言に対し、アカネは首を可憐に傾げ、花が開くような満面の笑みを向けた。
「ふふっ。怒っていませんよ、シロコ? お母さんはただ、セイカさんが他校の素敵な女の子と仲良くなれて、とっても嬉しいだけです」
その声のトーン、表情、空気感。
しかし、シロコはオッドアイの瞳を微小に細めると、一切の迷いも躊躇もなく、一秒で即答した。
「……怒ってる」
『……私もお姉ちゃんの判断に同意します。データ上の感情パラメータは極めて高い圧力を示しており、計測限界に達しつつあります』
「……」
神格の概念体を最適解の演算で打ち破り、世界の因果すら書き換えて見せた最強の観測士、室笠セイカ。
実の二人の娘たちから容赦ない「真実」を客観的データとして突きつけられ、彼女は生まれて初めて、論理的思考が完全に詰み上がるという感覚を味わっていた。
__________
「セイカさん?」
逃げ場を探そうと無意識に視線を泳がせたセイカに対し、アカネは追撃の手を緩めなかった。
彼女はさらに一歩足を踏み込み、セイカの耳元へと顔を寄せる。
「明日は私も、その『ヒナさん』と一緒に、お掃除に参加しましょうか?」
アカネの言う「お掃除」という言葉。
それが単なる部屋の清掃ではなく、室笠家における敵対存在や妨害要素の「戦闘的排除」を意味する隠語であることを、セイカは当然熟知していた。
「あ、アカネ。ヒナは敵性存在ではありません。アビドスの安全を共に確保した協力者であり──」
「ええ、分かっておりますとも」
アカネはセイカの言葉を柔らかな吐息で遮ると、耳朶に触れるか触れないかの距離で、甘く囁いた。
「ですが……私のことも、もっと情熱的に呼んでくださって構わないのですよ? 『アカネ』と呼んでくれていますが……それ以上の愛を込めて」
──ぞく。
セイカの背筋を、熱い電撃のような感覚が駆け抜けた。
日頃、どんな過酷な戦場でも真顔と平静を貫いてきたセイカの頬が、見る見るうちに朱に染まっていく。
過負荷の熱線とは違う、あきらかに体温の上昇に伴う赤面。冷静さを保とうとどれほど論理回路を回転させても、跳ね上がる心拍数を抑え込むことができない。
「……あ、アカネ。それは……その……善処、します」
セイカの口から漏れたのは、およそ最強の観測士には似つかわしくない、しどろもどろな返答だった。
「善処、ですか。ふふ、楽しみにしていますね、お父さん?」
アカネは満足そうに微笑むと、ようやくセイカの服から手を離し、トレイの上のハーブティーを手に取った。
__________
セイカは深く息を吐き出し、胸に手を当てて乱れた心拍を整えようとした。
かつて彼女は、空見の閃を用いて無数の未来の分岐を観測してきた。
神格存在『セトの憤怒』の攻撃パターン。
キヴォトスの地下深くに眠る古の因果律のねじれ。
《雷帝の遺産》が現実へ干渉する再起動確率。
どのような複雑怪奇な数式であれ、どのような絶望的な未来であれ、彼女の頭脳は常に解を導き出し、確定事項として世界を上書きしてきたのだ。
しかし──。
目の前で優雅にお茶を注ぐ愛する妻の、「ほんの少しの嫉妬」という現象。
いくら空見の閃を稼働させ、無数の未来分岐を観測しようとも、「どう返答すればアカネの機嫌が完璧に治るのか」という問いに対する正解の選択肢だけは、どこを探しても弾き出せなかった。
ケイが端末画面をパチパチと明滅させる。
「……お父さん。私の高次演算回路でも、お母さんの感情モデルの完全予測は不可能です。応援しています。頑張ってください」
さらに、横にいたシロコがそっとソファから立ち上がり、セイカの服の裾を小さな手でキュッと引っ張った。
「……お父さん、頑張って」
「……はい」
娘たちの温かくも逃げ場のない声援を受け、セイカは静かに、けれど弱々しく頷くことしかできなかった。
__________
一方、ソラノミのバルコニー。
夜風が心地よく吹き抜けるテラスの縁に、空崎ヒナは一人で腰かけていた。
彼女の手には、先ほどアカネから「お疲れ様でした」と手渡された白磁の器と小ぶりなスプーンがあった。
中に入っているのは、鮮やかな赤色が映えるアカネ特製のベリームースだ。
ヒナはスプーンでひとすくいし、静かに口へと運ぶ。
「……甘いわね」
月を見上げながら、ぽつりと呟いた。
ベリーの爽やかな酸味と、生クリームの上品で重厚な甘みが、疲れた体に染み渡っていく。
そこにいるヒナの顔には、ゲヘナ学園の風紀委員長として常に見せていた、厳しい殺気や重圧の影はどこにもなかった。
今夜、セイカと共に戦い、アビドスに残された最後の脅威を完全に葬り去ったこと。
そして、互いに「セイカ」「ヒナ」と対等な名前で呼び合える戦友となったこと。
口の中に広がる甘いムースとともに、彼女はその心地よい余韻を、静かに、噛み締めていた。
__________
ソラノミの温かなリビングの中。
アカネの愛ある追撃と甘い嫉妬に包まれ、完全に困惑しきっている父親・セイカ。
その状態を容赦なく冷酷なデータとしてリアルタイム報告し続ける娘・ケイ。
「お母さん、怒ってる」と真実を突きつけたまま、お茶とお菓子を美味しくかじる娘・シロコ。
そして窓の外には、月明かりの下で静かにスイーツを味わうヒナの穏やかな姿があった。
最強の観測士、室笠セイカ。
神の威光すら塗り替え、危険な遺産を葬り去り、確定した未来を掴み取る彼女をもってしても──
愛する妻の「ほんの少しの嫉妬」という、最も身近で最も愛おしい不確定要素だけは、どうしても閃かせることができないのでした。
戦いのすべてが終わった夜に残ったものは、世界を脅かす恐怖などではなく。
大切な家族の賑やかなやり取りと、戦友が味わう甘いスイーツの余韻。
アビドスを舞台に繰り広げられた室笠セイカの長い戦いは、「どうやって妻の機嫌を取るか」という新たな戦いにシフトしていくのだった。