雲海を断ち切り、静寂の空を渡る巨大な影があった。
室笠家が誇る宇宙戦艦『ソラノミ』。
無数の戦闘と因果の歪みを越えてきたその鋼鉄の巨躯は今、エンジン音すら殺した穏やかな自動巡航モードへと移行し、キヴォトスの上空数千メートルを静かに滑空していた。
艦の上層に位置する特別展望デッキ。
そこは外部の過酷な風圧や低温から高度な力場シールドで遮断された、完璧なリゾート空間であった。
磨き上げられたウッドデッキの上に並べられているのは、純白の磁器とアンティーク調のティーセット。
戦火の硝煙も、神格存在の放つ重圧も、今のここには存在しない。漂っているのは、焼きたてのスコーンが放つ芳醇なバターの香りと、熟成された柑橘系ハーブティーの可憐な香りだけであった。
「……ふむ。まさかキヴォトスの空を、風紀委員長と散歩することになるとはね」
セイアは、風に遊ぶ自らの綺麗な狐耳を微かに揺らしながら、手元のカップに視線を落とした。
その向かいに座るセイカは、一切の無駄がない姿勢で袖口を整え、ごく淡々と事実を述べる。
「私の高次演算回路が導き出した、現在の気象条件において最も揺れの少ない航路です。……気圧変動、風速、局所的な熱流の乱れをすべてリアルタイム予測し、高度三千五百メートルでの安定巡航を維持しています」
「相変わらず、完璧すぎる配慮だな。これでは船に乗っていることすら忘れてしまいそうだ」
セイアがくすりと笑みを漏らした、その時である。
セイカが微かに指先を滑らせると、彼女の背後に待機していたフィン・ファンネルが一基、静かに浮上した。
本来ならば位相の裏側すら穿つ極大火力を秘めたその誘導兵装は、水平器のように寸分の狂いもなく姿勢を保ちながら、その平滑な装甲の上にアカネ特製のクロテッドクリームとジャムを添えたスコーンの皿を載せ、極上のトレイとしてヒナの目の前へと滑らかに差し出された。
ヒナはその圧倒的な精度で差し出されたスコーンと、ファンネルの銃口付近を交互に見比べ、深々と溜息を吐いた。
「……相変わらず、とんでもない力の使い方をするわね、セイカ。概念体すら消滅させる兵器でしょう、それ」
「用途の流用であり、合理的な資源活用です。高度な慣性制御と反重力推進は、崩れやすい焼菓子を衝撃ゼロで運搬するにおいて最も適した仕様と言えます」
「……はいはい。あなたが言うならそういうことにしておくわ」
ヒナは呆れたように小さく首を振りつつも、差し出された香ばしいスコーンを一つ手に取り、小さな口で食んだ。サクッという軽やかな音が、デッキの静寂に心地よく響く。
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テーブルの中央では、室笠家の日常と家事の一切を完璧に仕切る妻──アカネが、洗練されたメイドの所作で黄金色のハーブティーを全員のカップへと注ぎ足していた。
「お口に合いますでしょうか、キサキさん」
「うむ、感謝するぞ。アカネの淹れる茶はいつ見ても見事なものよ。絶景を眺めながらの茶会とは、なかなかに乙な趣があるのう」
小さな身体を揺らしながら満足げに目を細めるのはキサキである。
セイアが青空に浮かぶ千切れ雲を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……セイカと、私。そしてキサキ。……こうして集まると、改めて思うよ。私たちは、少々『視えすぎてしまう』傾向にある、とね」
セイカはその紫色の双眸を微かに動かし、セイアへと視線を向けた。
「視えすぎることが、観察対象または観測者自身に不利益をもたらすとお考えですか?」
「不利益、というわけではないさ」
セイアは自らの手のひらを静かに見つめ、どこか慈しむような視線を投げかける。
「ただ……未来を視る者ほど、往々にして足元を見失いやすい、ということだ。遥か先にある破滅や不確定な災厄を回避することに全神経を注ぐあまり、今、目の前にある温もりや、過ぎ去っていく時間の本当の価値を見落としてしまう」
キサキもまた、煙管から上る薄い煙の向こう側を見つめながら、重重しく頷いた。
「セイアの言う通りじゃ。未来ばかりに眼を奪われておれば、今ここにある茶の味すら見落としてしまうやもしれぬ。どれほど完璧な未来の計算式を組み上げようとも、我々が肉体を持って存在しておるのは、常に『現在』という不可逆の一瞬に過ぎんのだからな」
二人の言葉を聞きながら、セイカは胸の奥に広がる巨大な演算領域を静かに見つめ直していた。
かつての自分は、破滅の未来を書き換えるための最適解だけを追い求める、冷酷な計算機のような存在だった。
だが、今の自分には「帰る場所」がある。
目の前で微笑みながらカップを差し出す妻・アカネ。
留守を守る娘たちと過ごす賑やかな時間。
そして、隣で静かにスコーンを味わい、戦友として肩を並べる空見観測研究部の部員の存在。
それらはすべて、未来の計算式をいくら弄ぼうとも手に入らなかった、「現在」という奇跡そのものであった。
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「……ヒナ」
未来についての議論が一段落したところで、セイカは静かな声でヒナへ呼びかけた。
「何かしら、セイカ?」
セイカは胸ポケットから、掌に収まるほどの小さな角型の装置を取り出した。
白と青の超高密度合金フレームで補強され、表面には繊細なルーン状の回路網が刻まれた、まるで高級なペンダントのようなお守りである。
「これを」
差し出されたお守りを見つめ、ヒナは怪訝そうに細い眉をひそめた。
「……何よ、これ?」
「洗脳、および精神干渉・認識改変への対策用プロテクト・デバイスです。簡易的なペンダントの形状に偽装していますが、内部には私の『空見の波』の干渉波形を模した遮断結界発生器が組み込まれています」
ヒナはペンダントと、セイカの無表情な顔を交互に見比べ、どこかわずかに不満そうな、訝しげな視線を向けた。
「……私にそれが必要だっていうの? ゲヘナの風紀委員長が、精神干渉ごときに後覚を取るとでも思っているの?」
「必要になる可能性が、確率論的に完全にゼロではないからです」
セイカの声音には、一切の照れも煽りも存在しなかった。ただ純粋な、危機管理上の論理的な提示。
「この前のホシノの件をおもいだしてください。強大な精神力や信念を持つ者であっても、トラウマや認識の隙間を直接攻撃される形で精神を揺さぶられ、あたかも自らの意思であるかのように誘導されたケースが存在します。精神の強靭さと、外部からの概念的干渉を防ぎ切れるか否かは、全く別次元の問題です」
セイカはまっすぐにヒナの瞳を見据えた。
「……同じ構造の攻撃が、あなたに対して試みられないという保証はどこにもありません」
「……」
「これは、あなたを信用していないからではありません。……二度と、大切な戦友の意思を何者にも奪わせないための、絶対的な予防措置です」
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ヒナは手渡された小さな金属の塊をじっと見つめていた。
ゲヘナの頂点に立つ者としての誇りや、自らの強さへの自負がある。安易に他者からの保護を受け入れることは彼女の流儀ではない。
だが、セイカの言葉の裏にある「論理」と、隠し切れない「心配」の感情を、ヒナ自身も正しく理解していた。
「……私が、あんな連中に操られると思ってるの?」
少しだけ口を尖らせるように尋ねるヒナに対し、セイカは即座に首を横に振った。
「思っていません」
「……なら」
「ですが、『思っていない』ことと、『対策を講じる必要がない』ことは完全に独立した別問題です。感情的信頼とリスク管理は厳密に分離して計算されるべきです」
一切のブレもないセイカの返答に、ヒナは呆れたような、けれどどこか心地よさそうな溜息を洩らした。
「……随分と用心深いのね、セイカ」
ヒナは小さく笑うと、セイカの手からお守りをしっかりと受け取った。
「……ありがと。持っておくわ」
その光景を横で温かな目で見守っていたアカネが、くすくすと可憐に微笑む。
「ふふっ。ヒナさん。セイカさんが自分から誰かにこのようなお守りを手渡すなんて、本当に珍しいことなんですよ?」
ヒナが少し驚いたように目を丸くする。セイカはわずかに頬を硬くして、いつもの冷徹な表情を装った。
「……単なるリスク管理の一環です。戦友の損耗は私の演算における重大な損失に直結しますので」
「ええ。分かっていますよ、セイカさん」
アカネはセイカの不器用な情の厚さをすべて見抜いた上で、深く頷いた。
ヒナは手のひらのお守りを指先で撫で、静かに胸のポケットへとしまつた。
「……二度と、仲間同士で傷つけ合うような惨劇を起こさせないため、ね」
「……はい」
セイカの短い返答には、確かな重みが宿っていた。
「未来をどれほど精密に観測できても、発生するすべての危険を事前にゼロにすることはできません。だからこそ……私たちは、今できる最大限の備えを行わなければならないのです」
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「ふむ。未来の不確定性を語っておったと思えば、今度はお守りの授与か。随分と実践的な茶会になったのう」
キサキが楽しそうに笑う。
「ふふっ。これもまた、未来を視る者の務めということだね」
セイアも同調するように優しく目を細めた。ヒナは二人の顔を見渡し、小さく肩をすくめる。
「……あなたたち、本当に変な部ね」
「肯定はしませんが、否定もいたしません」
セイカの生真面目な返しに、テラスの周囲に爽やかな笑い声が広がった。
ふと、周囲の空気が幻想的な光を帯び始める。
陽が沈みかけ、キヴォトスの天空が深みのある茜色と紫色の美しいグラデーションに染まっていく。
ソラノミのメイン推進機関から微量に放出された緑色のルミナス粒子が、尾を引くオーロラのように風に乗って流れ、夕日の光を受けて煌めいていた。
フィン・ファンネルが、その光の中に佇んでいる。
茜色の残光、ファンネルの清廉な色彩、そして空を舞う緑のルミナス粒子。
それらが奇跡的な調和を見せ、デッキ全体を包み込んでいた。
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風が凪ぎ、茜色の光が徐々に深藍へと溶け込んでいく。
遠くの水平線に滲む雲の群れを眺めながら、セイアがカップを置いて静かに呟いた。
「未来を視るということは、ただ先の景色を眺め続けることではない。いま手の中にある温もりを確かめ、大切な存在と共に歩むための足場を確かめること……そうかもしれないね」
「……同意します」
セイカは自らの掌を握り締め、隣に立つアカネの手へ視線を向ける。
アカネはそっとその視線に応え、セイカの手に自らの温かな指先を重ね合わせた。
「演算がどのような不確定性を弾き出そうとも、私の選択は変わりません。観測し、備え、守り──この手の中にある時間を紡ぎ続けるだけです」
ヒナは胸のポケットに収まったペンダントの硬い感触を確かめ、静かに息を吐いた。
背負うものの重さは変わらない。だが、過酷な戦場の途上でこうして温かなお茶を飲み、言葉を交わす仲間がいる。それだけで、胸の奥に灯る炎は途切れることなく燃え続けるのだった。
「セイカさん。お茶が冷めてしまいますよ。もう一杯、注ぎましょうか?」
アカネが穏やかな笑みをたたえ、新しいティーカップを取り上げる。
「……ええ、お願いします、アカネ」
キサキは満足そうに最後のひとくちを味わい、セイアは夜の訪れを告げる一番星を見上げ、ヒナは静かにカップへと手を伸ばす。
静寂に包まれたキヴォトスの空。
巨体でありながら風のように軽やかに進む『ソラノミ』は、デッキの灯りを小さく灯しながら、夜の境界線をどこまでも滑らかに越えていく。
不確定な未来がどれほど広がっていようとも、この船に乗る者たちの手には、決して揺らぐことのない今日という日の記憶と、確かな絆が残されていた。