ソラノミのメインリビング。
普段ならば高次演算のブルーライトや観測データが宙に踊るその空間は、今日に限って奇妙な静寂に包まれていた。
大型ソファの真ん中に、セイカはピシッと隙のない姿勢で着席していた。
着慣れた清潔感のある私服にはシワひとつなく、背筋は定規で測ったように伸びている。その紫色の双眸は、正面のローテーブルに置かれた湯気を立てるお茶と、その横に座る二人の女性──妻のアカネと、腕を組んで仁王立ちするレナを交互に往復していた。
「……アカネ。それから、レナ」
セイカはごく真面目な顔で口を開いた。
「この召集の目的は何でしょうか。現在、ソラノミの全システムは正常に稼働しており、付近の空間位相にも異常は見られません。演算リソースの約九五パーセントが未使用状態ですが……」
「ええ、知ってるわ」
レナはニッと不敵な笑みを浮かべ、セイカの隣へとズカズカ踏み込んで腰掛けた。
「だから呼んだのよ。今日のあなたのタスクは一つだけ。『何もしないこと』」
「……」
セイカは瞬きを三回繰り返した。
脳内の高次演算回路が、提示された命令文の解釈を試みて高速回転を始める。
「確認ですが……『何もしない』とは、具体的などのような行動指針を意味するのでしょうか。心拍数の維持および呼吸運動は継続して構いませんか? あるいは、視覚情報の処理を停止させるために目を閉じるべきでしょうか?」
「そこからなの!?」
レナが思わず額を押さえて天を仰ぐ。横で見ていたアカネが、くすくすと可憐に袖を口元に当てた。
「ふふっ。言いましたでしょう、レナさん? セイカさんにとって、これは高次元の戦いよりも遥かに難易度の高いミッションなのです」
「本当に冗談抜きで分かってないのね……」
呆れるレナに対し、セイカは至極真面目な顔で言った。
「冗談ではありません。行動には常に目的と定義が必要です。『何もしない』という言葉は命題として自己矛盾を孕んでいます。存在する限り、生物は何かしらの代謝または情報処理を行ってしまうため──」
「ストップ! 論理的思考を今すぐオフにしなさい!」
レナはセイカの肩をガシッと掴み、ソファの背もたれへと力任せに押し倒した。
__________
「いい? セイカさん」
レナは身を乗り出し、セイカの顔を覗き込んだ。
「『何もしない』っていうのはね。ぼーっと外を眺めたり、温かいお茶を飲んで『あーおいしいな』って思ったり、ただソファの柔らかさを噛み締めたりすることなの! 将来の危険の計算も、データの整理も、ソラノミの航路チェックも全部禁止!」
「……ですが、それらの観測を怠ると、万が一の確率で不確定要素が発生した際の初期対応がコンマ数秒遅れ──」
「発生したらその時考えなさい!」
「……」
セイカは助けを求めるようにアカネへ視線を向けた。だが、最愛の妻は優雅にハーブティーのカップを持ち上げ、にっこりと極上の笑みを返してきた。
「あきらめてください、セイカさん。今日の私はレナさんの味方です。……さあ、私が淹れたお茶です。一口飲んで、感想を言ってみてください」
退路を断たれたセイカは、意を決したように目の前のカップに手を伸ばした。
指先の動き一つにも無駄がない。カップを唇へと運び、静かに喉を鳴らす。
「……ハーブの抽出温度は約八十五度。柑橘系のフレーバーによるリラクゼーション効果および自律神経の調整作用が確認できます。きわめて高品質なお茶です」
「……ねえアカネさん、この人『味』じゃなくて『成分と効果』で味わってるんだけど」
「ふふっ、いつものことです」
レナは深く深呼吸をして、自分の頭を抱えた。
「ダメだわ……この人、根っこから『観測士』として出来上がりすぎてる。自分が楽しむっていう概念が脳のメモリに入ってないんじゃないの?」
「……自分を楽しませる、という概念ですか」
セイカはカップを置くと、自分の手のひらを静かに見つめた。
「私は……観測し、演算し、最適解を提示するための存在です。私が正常に機能することで、アカネや子供たち、そして仲間たちの安全が確定する。……自分の感情や嗜好を優先させることは、演算におけるノイズになり得ます」
淡々とした、けれどあまりにも自然なセイカの自己分析。
それは彼女がこれまで背負ってきた過酷な戦いと、大切なものを絶対に失いたくないという強い意志の裏返しでもあった。
その言葉を聞いたレナは、一瞬だけ表情を和らげ、それからふっと小さく息を吐いた。
「……やっぱり、アンタってバカね」
「……バカ、ですか。私の知能指数および演算能力はキヴォトスにおいても──」
「そういうことじゃないの!」
レナはセイカの隣にドカッと深く座り直し、セイカの膝の上に置かれていた手を、自分の手でぽんっと叩いた。
「アンタが皆を守ってくれてるのは知ってるわよ。ソラノミを飛ばして、未来を計算して、何でも完璧にこなしてさ。……でもね、ずっと『守る側』『計算する側』にばかり立ってたら、周りのみんなはどう思うわけ?」
「……?」
「『私たちも、セイカさんを安心させてあげたい』って思うに決まってるじゃない。アンタが自分のことを後回しにしてばっかりだと、こっちがハラハラするのよ」
「……」
セイカは紫の瞳を微かに揺らした。その視線が、静かに自分を見つめているアカネへと移る。
アカネは優しく微笑み、セイカのもう片方の手に自らの手を重ねた。
「レナさんの仰る通りですよ、セイカさん。……私は、あなたのお世話をするのが大好きです。でも、あなたがたまには私に甘えてくれたり、『これが食べたい』『ここへ行きたい』とワガママを言ってくれたら……私、もっと嬉しいんですけれど?」
「アカネ……」
「自分の幸せを計算に入れるのを忘れるなんて、最強の観測士様にしては大きな計算ミスだと思いませんか?」
アカネの甘く、けれどまっすぐな言葉が、セイカの胸の奥へとストレートに染み込んでいく。
敵の幾百・幾千の攻撃パターンを完璧に見切り、概念体すら破滅させる解を瞬時に導き出すセイカ。
だが今、目の前の二人に突きつけられた「自分の幸せをどう扱うか」というシンプルな問いに対し、彼女の脳内の高次演算回路は、完全に答えを見失ってフリーズしていた。
「……あ」
セイカの頬が、みるみるうちに薄い朱色に染まっていく。
過負荷による熱線ではない。純粋な照れと、己の盲点を突かれたことによる赤面。
「~〜〜っ……!」
必死に真顔を保とうと口元を引き結ぶが、耳の先端まで真っ赤になっているのは隠しようもなかった。
「あ、赤くなった!」
レナが面白そうに叫ぶ。
「すごい! あのセイカさんが照れてる! アカネさん見て、完全に詰んでるわよこの人!」
「ふふっ、本当ですね。とっても可愛らしいです、お父さん」
「か、可愛らしくはありません……! 私は……ただ、論理的な欠陥を指摘され、思考の再構築を行っているだけで……っ」
「はいはい、そうやってすぐ難しい言葉で誤魔化す!」
レナは嬉しそうにセイカの背中をバシバシと叩いた。
__________
「よし! じゃあ『何もしない訓練』の第一歩として……はい、これ!」
レナがソファの上にゴロンと横になり、セイカの膝の上に自分の頭を乗せた。
「……レナ?」
「膝枕! アンタは今から、この私の頭を撫でながら、ただぼーっと窓の外の雲を見るの! 余計なことは一切考えないこと!」
「な、なぜ私があなたを……」
「訓練よ訓練! ほら、手!」
強引に腕を引かれ、セイカの細い指先がレナの髪に触れる。
戸惑いながらも、セイカはおそるおそるその髪を優しく撫で始めた。
横ではアカネが、二人の姿を満足そうに眺めながら、新しい温かいお茶を注ぎ足している。
「ふふっ。レナさん、ずるいです。私も後で膝枕をしてもらいますからね?」
「いいわよ、半分こしましょ」
「……私は、実験体か何かなのでしょうか」
セイカは呆れたように小さく息を吐いた。
しかし、膝に乗るレナの重みと、髪の柔らかい感触。
隣から漂うアカネのハーブティーの甘い香り。
そして、ソラノミの気密シールド越しに見える、ゆっくりと流れていく穏やかな雲海。
そのどれもが、戦場や計算機の前では決して味わうことの判定できない、どこまでも無駄で、どこまでも温かい「現在の時間」だった。
「……雲の移動速度、時速約二十キロ……」
「セイカさん、計算禁止!」
「……失礼。……ただの、綺麗な雲ですね」
ぽつりと溢したセイカの言葉に、レナとアカネは顔を見合わせ、満足そうに微笑んだ。
観測士・セイカ。
世界を救い、未来を確定させる彼女が、「何もしない時間」を完璧にマスターできる日は──まだまだ、ずっと先のことになりそうだった。