未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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メイドの惚気と自爆スイッチ

 

 

 

 

 

 午後二時。

 シャーレの執務室には、まどろむような静寂が満ちていた。

 天井のエアコンが微かな送風音を響かせ、窓の外からは遠く基幹道路を走り抜ける車のシグナル音がかすかに届く。デスクにうずたかく積まれた書類の山と格闘していた先生は、ペンを置き、大きく背伸びをした。

 

 

"……ふぅ。これで半分、かな"

 

 

 疲労の溜まった眼球を指先で揉みほぐしていると、カチャリと陶器と銀食器が触れ合う心地よい音が室内に響いた。

 

 

「お疲れ様です、先生。ちょうど良いタイミングで淹れ上がりましたよ」

 

 

 完璧な所作で湯気を立てるカップをデスクに置いたのは、C&Cのメイド服を隙なく着こなした少女──室笠アカネであった。

 アールグレイの華やかな香りが、書類の紙臭さを一瞬で塗り替えていく。カップの横には、小さな銀のトレイに載せられた焼き菓子が添えられていた。

 

 

"ありがとう、アカネ。いつも助かるよ"

 

「いえ。シャーレの業務補佐として派遣されている以上、先生の健康管理とリフレッシュの提供は私の重要な業務ですから」

 

 

 アカネはふわりと優雅に微笑み、自身もまた一回り小さなソーサーを手にして、対面の応接ソファへと腰掛けた。

 彼女がここにいる時間は、シャーレの中でも特に穏やかな時間である。丁寧で、気配りが行き届いていて、それでいてどこかお茶目なメイド。……だが、先生には分かっていた。この「優雅なお茶の時間」が、時として思いもよらぬ方向へと脱線することを。

 

 アカネは紅茶を一口、上品に口に含んだ。

 そして、静かにカップを置く。

 

 

「……先生」

 

"うん?"

 

 

 アカネはトレイの脇に両手を添え、いつになく真剣な、それでいてどこか楽しげな熱を帯びた瞳で先生を見つめた。

 

 

「セイカさんの魅力について、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」

 

"……また?"

 

 

 先生は思わず苦笑いを浮かべた。

 ここ最近、アカネがシャーレの当番に来るたび、会話の三回に一回は「セイカ」という名詞に帰結する。

 

 

「はい。ですが、今日は少し本気です」

 

 

 にこり。

 

 一切の隙がない、極上の営業用……いや、完全に個人的な情熱が籠もった笑顔。

 その完璧な微笑みを突きつけられ、先生は逃げ場がないことを悟った。背もたれに深く体重を預け、諦め半分、興味半分で紅茶のカップを手にする。

 

 

"……いいよ。聞いてあげるから、お手柔らかにお願いね"

 

「ふふ、ご協力感謝いたします」

 

 

 アカネは満足そうに目を細め、胸の前でそっと両手を組んだ。

 

 

「セイカさんはですね……ご自分では全く気付いていないのですが、実はとても色っぽいんですよ」

 

"色っぽい?"

 

 

 先生は思わず首を傾げた。

 先生の知る室笠セイカという人物は、徹底した論理主義者だ。常に淡々と状況を分析し、高次演算と観測データに基づいた最適解を叩き出す。表情の変化は乏しく、どこか人間離れした無機質さすら漂わせている。どちらかと言えば「クール」「浮世離れ」「神聖」といった言葉が似合う少女である。

 

 

「ええ、そうです。非常に色っぽいのです」

 

 

 アカネは深く深く頷いた。その瞳には、すでに熱っぽい光が宿っている。

 

 

「まず、あの目です」

 

"紫色の?"

 

「はい。普段は鋭くて、まるで世界の全てを見透かしているような、何を考えているのか分からない神秘的な瞳でしょう?」

 

"うん。戦場でのセイカの視線は、敵を射殺す計算機の光みたいだからね"

 

「そうなんです。ですが……私と二人きりになった時だけ、ほんの少しだけ、力が抜けるんです」

 

 

 アカネは夢見るように目を細め、己の過去の記憶を慈しむように語り始めた。

 

 

「戦場や観測室では絶対に見せない目ですよ。たとえば、夕暮れ時のソラノミのリビングです。全てのミッションが終わり、メインシステムの演算度が落ち着いた頃……彼女は私の方をふっと見つめるんです。その時の紫の瞳は、まるで霧が晴れた後の静かな湖のようで……まぶたが少し重そうに下がって、黒目が潤んでいるんです」

 

"……へえ"

 

「普段の鋭さが完全に消えて、どこか幼くて、無防備で……『私はここにいますよ』とでも言いたげな視線を投げてくるんです。本人はただ『視界の焦点を調整しているだけです』なんて仰いますけれど、あれは嘘ですね。完全に私を頼りにしている目です」

 

"アカネ……語りが最初から深いよ"

 

「まだまだこれからです、先生」

 

 

 アカネは人差し指を立てて、楽しそうに言葉を続けた。

 

 

「それから、声です」

 

"声?"

 

「セイカさんは普段、淡々としていて抑揚が少ないでしょう? 通信越しだと特にそうですね。記号的で、正確無比な報告」

 

"うん。『目標視認。これより排除行動を開始します』みたいな感じだよね"

 

「はい。ところが……私にだけ向ける声は、ほんの少し低くて、信じられないほど柔らかいんです」

 

 

 アカネは自分の薄桃色の頬に、すっと指先を添えた。

 

 

「夜、誰もいない部屋で……二人だけでお茶を飲んでいる時。私が髪を梳かしてあげている時。彼女が何気なく口にする『アカネ』という響き……。言葉の尾ひれに、かすかに熱が混ざっているんですよ。あれは……本当にずるいです」

 

"……ずるい?"

 

「はい。耳元でボソッと言われた日には、私、メイドとしての理性が吹き飛びそうになりますもの」

 

"理性が"

 

「ふふっ。しかも恐ろしいことに、本人にはその自覚が一切ありません」

 

"無自覚なのか……一番タチが悪いやつだ"

 

「ええ。そこがまた困るんです」

 

 

 アカネは少しだけ身を乗り出した。ソファの生地がかすかに擦れる音がする。彼女の語り口は、もはやシャーレの報告書の域を完全に脱し、一人の恋する少女の独演会と化していた。

 

 

「疲れて帰ってきた時なんて、もっと分かりやすいですよ?」

 

"どんな感じなの?"

 

「ソラノミでの長時間の空間観測や、高負荷の演算処理を終えた後のセイカさんです。部屋に戻ってくると、制服のボタンを一つ二つ外して……あ、あの大きな白い翼も、普段はピシッと畳まれているのに、疲れている時はだらんと少し下がっているんです」

 

"羽まで……"

 

「ええ。髪が少し乱れて、普段より目元が柔らかくなって……ソファに座っている私の隣に、無言でスルスルと寄り添ってくるんです。自分の大きな体を小さく丸めるようにして」

 

"甘えてる?"

 

「本人は絶対に認めません」

 

 

 即答であった。コンマ一秒の迷いもない。

 

 

「『ただ、この位置が熱効率的に最も安定しているだけです』とか『疲労による姿勢維持機能の低下です。甘えているわけではありません』と、実に難しい口調で主張なさいます」

 

"……すごくセイカらしい言い訳だ"

 

「でしょう? でもですね」

 

 

 アカネの声が、弾むように一段高く、甘くなった。

 

 

「そう言いながら、そのまま私の肩に、あの綺麗な水色の髪の頭を預けてくるんです。小さく背中を丸めて」

 

"……"

 

「そして、私が『よしよし』と髪を撫でてあげると……ほんの三分もしないうちに、規則正しい寝息を立て始めるんです」

 

"……それは確かに、相当な破壊力だね"

 

「寝ている時のお顔なんて、普段の冷徹な観測士からは想像できないくらい穏やかですよ」

 

 

 アカネは実に幸せそうに、うっとりと頬に手を当てて微笑んだ。

 

 

「鋭い瞳も、難しい偏屈な理論も、全部なくなって……ただの、私の大切な、可愛いセイカさんになるんです」

 

"……なるほど。アカネが完全に骨抜きにされているのはよく分かったよ"

 

「それに」

 

"まだあるの!?"

 

「もちろんです。まだ半分も語っておりませんよ、先生」

 

 

 アカネは実に楽しそうであった。紅茶の冷めるのも忘れて、情熱的に語り続ける。

 

 

「セイカさんは、立ち姿や歩き方がとても綺麗でしょう? 背筋がいつも定規を入れたようにピンと伸びていて」

 

"うん。あれはやっぱり、元々の素養というか、凛とした気品があるよね"

 

「ええ。制服を着ていても私服でも、動作に無駄が一切ありません。それが……たまらなく色っぽいのです」

 

"無駄がないのが、色っぽいの?"

 

「はい」

 

 

 迷いなく即答する。

 

 

「動作が静かで無駄がないからこそ、ふとした瞬間の隙が目立つんです。例えば、本を読んでいる最中に髪を耳にかける仕草。背後の棚から資料を取るために、ぐっと背伸びをした時の腰のライン。振り返った時に、長い水色の髪がふわりと空気を孕んで揺れる瞬間……。どれも計算されたものではないからこそ、妙に目を惹きつけるんですよ」

 

"……完全に観察者の視点だね、アカネ。本人は絶対に気付いてないだろうけど"

 

「ええ。むしろ『なぜ私を凝視しているのですか? 私の表面に異物でも付着していますか?』なんて首を傾げてくるでしょうね」

 

"言いそう。『視線を向けられる合理的理由が分かりません』とか言って"

 

「その通りです!」

 

 

 アカネはくすくすと嬉しそうに笑った。

 

 

「あと、一番素晴らしいのは……戦闘後ですね」

 

"戦闘後?"

 

「はい。激しい戦闘が終わり、敵の脅威が排除された直後の現場です。セイカさんは乱れた長い髪を手ぐしで整えるのですが……」

 

 

 アカネの瞳の奥に、少しだけしっとりとした熱が宿る。

 

 

「まだ肌には戦いの熱が残っていて、吐息も少し荒くて……全身から圧倒的な『強者』のオーラが漂っているんです。ですが、煙の向こうから私が駆けつけると……私を見た瞬間、ふっと全身の緊張が解けて、安心したように長い息を吐くんです」

 

"……"

 

「『アカネ、無事ですか』と……そう言いながら、私を確かめるように大きな手で私の頬に触れてくる。あの、戦場の暴力性と、私に向けられる無防備な愛おしさが混ざり合った瞬間が……私はたまらなく好きなんです」

 

"……それはもう、色気というより完全に愛情の深さじゃないかな"

 

「ふふっ」

 

 

 アカネは誇らしげに、嬉しそうに胸を張った。

 

 

「そうかもしれませんね」

 

"……アカネ"

 

「はい?」

 

"もしかして君は、セイカの魅力を客観的に解説しているつもりで、最初から最後まで盛大に惚気ているだけじゃない?"

 

「……」

 

 

 一瞬の沈黙。

 執務室の中に、静寂が舞い戻る。

 アカネは静かに紅茶のカップを手に取り、一口含んでから、試すような視線を先生に向けた。

 

 

「……先生」

 

"はい"

 

「それは、乙女心に対してとても失礼な指摘ですね」

 

"ごめん"

 

「私はただ、室笠セイカという人物の隠された本質を、客観的かつ正確にデータ化して説明しているだけです」

 

"はいはい、そういうことにしておこうか"

 

「それに──」

 

 

 アカネはカップをソーサーに戻すと、少しだけトーンを落とし、静かに続けた。その声には、先ほどまでの浮ついた熱ではなく、深くて温かい本心が込められていた。

 

 

「セイカさんは……自分が誰かに必要とされていることにも、とても鈍いんです」

 

"必要とされていることに?"

 

「はい」

 

"どうしてだい? あんなに優秀で、周りからも頼りにされているのに"

 

「彼女は……自分を『観測する側』『守る側』『計算する側』にしか置けない人だからです」

 

 

 アカネはどこか寂しそうに、けれど愛おしそうに目を細めた。

 

 

「自分自身が一人の人間として愛されたり、誰かに甘えたりする権利があるということを、本気で理解していないんです。自分が傷つくことには無頓着なのに、私が少し指を切っただけでパニックになる……そういう不器用な人なんです」

 

"……なるほど。だからアカネが寄り添ってあげてるんだね"

 

「ええ。だから私は、時々わざと、彼女に甘えていただくための隙を作るんです」

 

"わざと?"

 

「はい。『セイカさん、今日はちょっと疲れてしまいました。私のそばにいてください』と……そうお願いするんです」

 

"……"

 

「すると、彼女はほんの少しだけ困ったような、でもどこか嬉しそうな顔をして……それから」

 

 

 アカネは目を細め、その光景を脳裏に思い浮かべる。

 

 

「『……分かりました。あなたが望むのであれば、そうしましょう』と、すまし顔で仰るんです」

 

"……ふふ、目に見えるようだね"

 

「はい。私は、その瞬間のセイカさんが……とても好きなんです」

 

 

 アカネは胸元にそっと手を添え、優しく微笑んだ。

 

 

「ですから、先生」

 

"何だい?"

 

「セイカさんは強くて、賢くて、頼りになる完璧な方ですけれど……本当の魅力は、完璧だから素敵なのではありません」

 

"……"

 

「完璧であろうと背伸びをしている人が、私の前でだけ、少しだけ力を抜いて甘えてくれる。私は、その人間らしい隙が……たまらなく愛おしいんです」

 

"……うん。十分すぎるほど伝わったよ。アカネがどれだけセイカを大事にしているか"

 

「ふふっ。ご理解いただけて光栄です」

 

 

 

 

__________

 

 

 

 

 

 パチ、と静電気のような音が響いた。

 

 シャーレの頑丈な防音自動ドアが、静かに左右へとスライドする。

 

 

「先生。ただいま戻りました。要請されていた沿岸部の空間位相データの提出に来──」

 

「…………」

 

「…………」

 

"…………"

 

 

 静寂。

 完全なる静寂が執務室を支配した。

 

 入り口に立っていたのは、水色の長い髪をなびかせ、背中に大きな白い翼を配した少女──室笠セイカその人であった。

 片手には整然とまとめられたレポート用のバインダー。その紫色の瞳が、ソファに座るアカネと、デスクの先生を交互に見つめている。

 

 アカネの動きが完璧に止まっていた。

 手に持ったソーサーが、微かにカタカタと震えている。

 

 

「……どうしましたか、お二人とも? フリーズしているように見えますが」

 

 

 セイカは首を可憐に傾げた。

 

 

「……いえ」

 

 

 アカネは驚くほどの素早さで表情を極上の「メイドスマイル」へと整え、ソーサーをテーブルに置いた。そして、優雅に紅茶を一口飲んだ。

 

 

「何もありませんよ、セイカさん。お仕事、お疲れ様です」

 

「そうですか? ですが、私の入室と同時に二人のバイタルサインおよび心拍数が急上昇したように観測できましたが」

 

「気のせいです。少し室内温度が高かっただけですよ」

 

「……妙ですね」

 

 

 セイカは怪しむように眉を寄せ、部屋の中へと一歩踏み出した。

 

 その瞬間であった。

 

 アカネがスッと、まるで機械のように洗練された動きで立ち上がった。

 その動きには一切の迷いがなかった。

 

 

「……先生」

 

"ん、何かなアカネ……?"

 

 

 先生は冷や汗を流しながら問いかけた。

 

 

「申し訳ありません」

 

"え?"

 

 

 アカネは微笑んでいた。

 しかし──その笑顔は、すべての感情を削ぎ落とした、人間の極限状態の笑みであった。瞳から光が消えている。

 

 

「シャーレを、一度消滅させますね」

 

"…………え?"

 

 

 先生の思考が止まった。

 セイカの思考も止まった。

 

 

「……アカネ?」

 

 

 セイカが珍しく素の声を漏らす。

 

 

「今、何と言いましたか?」

 

「ですから──」

 

 

 アカネはメイド服のポケットから、黒く光る見たこともない小型の電子端末を取り出した。中央には物騒な赤色LEDが点滅している。

 

 

「この執務室ごと、綺麗さっぱりなかったことにしようかと」

 

"待って待って待って!!"

 

 

 先生が勢いよく立ち上がり、デスクを乗り越えんばかりの勢いで叫んだ。

 

 

"何で!? 何で急にシャーレを消滅させようとしてるの!?"

 

「……先ほどまでの会話を、セイカさんに聞かれていた可能性がある以上、これを残しておくわけにはまいりません」

 

"だからってシャーレごと爆破するのは論理の飛躍が過ぎるでしょ!?"

 

「記録も、証拠も、目撃者も残りませんので」

 

"証拠って何の!? ただの惚気でしょ!?"

 

「私の! 尊厳です!」

 

 

 アカネが叫んだ。あの完璧なメイドのアカネが、顔を真っ赤にして叫んでいる。

 

 

"そんな理由でシャーレを吹き飛ばされたら溜まったもんじゃないよ!!"

 

 

 二人の絶叫とカオスな攻防を前に、セイカはバインダーを抱えたまま、困惑の極みといった様子で眉根を寄せた。

 

 

「……アカネ」

 

「はい、セイカさん」

 

「あなたがそのような戦略級の自爆装置、あるいは局地消滅端末を所持しているというデータは私の記録にありませんが」

 

「ふふっ。C&Cのメイドたるもの、万が一の際の証拠隠滅用アイテムの一つや二つ、常備しておくのは嗜みです」

 

「嗜みで持っていい威力ではありません! 笑っている場合ではありません、回収します!」

 

「ダメです! 近寄らないでください!」

 

「……本当に起動するつもりなのですか!?」

 

「ええ! 私の一生の不覚と羞恥心を消し去るためなら、ビルの一棟や二棟……!」

 

"必要はないと言いなさい!!"

 

 

 先生が間に入り、必死にアカネの手首を抑え込もうとする。

 

 

「アカネ……」

 

 

 セイカは二人の揉み合いを見つめながら、いよいよ理解が追いつかなくなったようにため息を吐いた。

 

 

「一体、何があったのですか? 先生も明らかに動揺し、思考フレームが混乱しています。私に説明しなさい」

 

「先生!」

 

 

 アカネが殺気立った視線を先生に向けた。

 

 

"……"

 

 

 先生は即座に視線を天井へと逃がした。

 

 

"……アカネ"

 

「はい?」

 

"もう諦めよう"

 

「……嫌です」

 

"セイカに全部話した方が早い。それに、自爆スイッチを押されたら私が困る"

 

「…………っ」

 

 

 アカネの顔が、みるみるうちに耳の先端、首筋まで真っ赤に染まっていく。朱色を通り越して熟したリンゴのようだ。

 

 

「……嫌です……」

 

「アカネ?」

 

 

 セイカが首を傾げ、一歩近づく。

 

 

「絶対に嫌です……っ」

 

 

 アカネは自爆端末をぽろりと床に落とし――先生が死ぬ気でキャッチした――、両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 

「だって……私、先生に……あんなことやこんなことまで……っ」

 

「……?」

 

 

 セイカは完全に置いてけぼりを食らい、パチパチと瞬きをした。

 

 

「……何ですか?」

 

「…………」

 

 

 しゃがみ込んだままのアカネは、しばらくの間プルプルと震えていたが、やがて観測したように小さく、深いため息を吐いた。

 

 

「……セイカさんの魅力について、先生にお話ししていただけです……」

 

「私の魅力……?」

 

 

 セイカは胸に手を当てた。

 

 

「はい……」

 

「どのような内容ですか? 私の観測精度の高さや、ソラノミの運用実績についてでしょうか」

 

「…………」

 

 

 アカネの顔が、指の隙間から覗く部分も含めてさらに赤くなった。

 

 

「……いろいろです」

 

「具体的には?」

 

「それは……その……」

 

「?」

 

「……忘れてください」

 

「ですが、私に関する評価やレポートであれば、当事者として内容を正しく把握しておく必要があります。論理的にも──」

 

「セイカさん!」

 

 

 アカネがバッと顔を上げた。その瞳にはうっすらと涙目すら浮かんでいる。

 

 

「はい」

 

「それ以上、聞かないでください……っ!」

 

「……?」

 

 

 セイカは本気で「なぜ怒られているのか分からない」という顔をした。高次演算回路が完全に空回りしている顔である。

 

 先生はそんな二人を見比べながら、深く肩をすくめた。

 

 

"セイカ。今日はもう、何も聞かないであげて。それがアカネのためだから"

 

「……分かりました。先生がそう仰るのであれば」

 

 

 セイカは素直に頷き、手にしていたバインダーをデスクに置いた。

 

 

「では、帰りましょうか。アカネ。ソラノミへ戻り、夕食の準備を」

 

「…………はい」

 

 

 アカネは蚊の泣くような声で返事をし、俯いたままトボトボとセイカの隣へ歩み寄った。一九〇センチのセイカの影に隠れるようにして立つ姿は、先ほどまでの威風堂々としたメイドの面影もない。

 

 そして、すれ違いざま。

 アカネは顔を上げず、先生だけに聞こえるような極小の声で囁いた。

 

 

「……先生」

 

"ん?"

 

「先ほどお話しした内容は……」

 

"誰にも言わないよ。シャーレの最高機密にしておく"

 

「……ありがとうございます」

 

 

 安堵したように、ホッと胸を撫で下ろすアカネ。

 

 しかし──。

 

 ドアをくぐる直前、アカネはふと思い出したように振り返り、可憐に首を傾げた。

 

 

「……ところで先生。先ほど落としたあの端末、タイマーが解除されていませんので、あと三分で起動しますけれど」

 

"まだそれ言うの!?!? っていうかマジで本物だった!?!?"

 

 

 先生の悲鳴のような叫び声が、夕暮れのシャーレ執務室にいっぱいに響き渡った。

 

 隣でセイカが「……やはり解体する必要がありますね」と冷静にマルチツールを取り出す音を最後に、シャーレの平和な一日は幕を閉じたのだった。

 

 

 

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