宇宙戦艦『ソラノミ』──。
雲海を遥か下に臨むその巨大な空挺都市は、午後になると穏やかな黄金色の光に包まれる。
観測区画のメインコンソールに向かい、淡々と空間パラメータの微調整を行っていたセイカは、ハッチが開くプシューという気密音に耳を傾けた。
事前の来訪予約データはない。ソラノミの防御システムが警告を発していない以上、登録された人物であることは確定している。
振り返ると、そこには見慣れた黒髪の少女──エイミが立っていた。
胸元を大きく肌蹴けた独特の衣装のまま、静かな足取りで室内へ歩み込んでくる。
「……セイカ」
「エイミ。……何か緊急の要請ですか? 特異現象の観測データであれば、先ほどミレニアムのサーバーへ同期を完了させましたが」
セイカが淡々と問いかけると、エイミはパチパチと瞬きをして、静かに首を振った。
「……ううん。任務じゃない」
「……では、何かトラブルですか?」
「……ううん。……今日は、暇だったから来ただけ」
完全な私用。何一つとして生産的な目的のない理由。
だが、セイカは特に驚くことも呆れることもなく、「そうですか」と短く返した。
「いらっしゃい。作業はちょうど区切りがついたところです」
「……ん。お邪魔する」
エイミはマイペースな足取りでセイカの隣まで歩いてくると、大きな窓の外に広がる空を眺めた。
「……広いね、ソラノミ。……私、まだ半分も見てない」
「ソラノミの居住および研究区画は広大ですからね。部外者の立ち入りを制限しているエリアもありますが、エイミであれば案内しましょうか」
「……本当? ……助かる。……案内して」
こうして、何もない平日の午後に、二人だけの静かなソラノミ巡りが始まった。
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最初に訪れたのは、艦体の上層部に位置する『展望ラウンジ』だった。
ガラス張りの天井からは太陽の光が降り注ぎ、眼下には果てしない雲海が絨毯のように広がっている。
「……ここ、眺めがいい」
「ソラノミの航行高度は常に最適な日照が得られるよう自動調整されています。ここは居住者が休息をとるためのメインラウンジです」
セイカの説明を聞きながら、エイミは設置されたソファのクッションを指先でぽんと叩いた。
「……ふーん」
続いて二人が向かったのは、『艦内カフェ』と、その先に広がる『小さな植物園』。
人工光と気候制御システムによって維持されている緑豊かな温室区画では、地上から移植された珍しい高山植物や、実験用に育成されている光る花々が咲き誇っていた。
「……ここ、温かい。……居心地がいい。……少し、眠くなる」
「植物の光合成効率を最大化するため、湿度と気温を他の区画より三度高く設定しています。眠気は体温上昇に伴う自律神経の弛緩によるものです」
「……そう。……セイカは詳しい」
「ソラノミの環境数値ですから。把握しておくのは効率的です」
淡々と解説を挟むセイカに対し、エイミは「……そう」「……ふーん」と簡潔な相槌を打ちながら歩いていく。
その後も、高精度センサーが整然と並ぶ『空見観測研究部の観測区画』、シャトルや観測ドローンが格納されている『格納庫』、そして風を切る音が微かに響く『大型観測窓のあるデッキ』と、二人はソラノミの様々な場所を巡った。
エイミは、巨大なエンジンや高次演算システムそのものよりも、通路の脇に置かれた一輪の鉢植えや、セイカが普段使っているという小さな作業デスクといった「生活の痕跡」に視線を留めていた。
「……セイカ。……ここで暮らしてるんだね」
「ソラノミは私の拠点ですから。当然です」
「……うん。……ちゃんと暮らしてる。……よかった」
エイミはどこか満足そうにぽつりと呟いた。
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一通り艦内を歩き回ったあと、二人は先ほど通りかかった『艦内カフェ』へと戻ってきた。
無人の注文カウンターで、エイミはパネルに表示されたメニューを指でタップする。
「……これと、これ」
エイミが選んだのは、青いハーブティーと、雲の形をした白い焼き菓子だった。
セイカはパネルを一瞥すると、すぐに口を開く。
「そのハーブティーは、ソラノミの温室内で栽培されたマロウブルーと柑橘系エキスを調合したものです。酸度によって色彩が変化する特性を持っています。また、その焼き菓子は高タンパクかつ低糖質の圧縮栄養食をカフェ用にアレンジしたもので──」
「……すごい」
エイミが静かに目をパチクリさせた。
「……食べ物のことまで、全部知ってる」
「ソラノミ内の供給リソースおよびメニュー構成はすべて管理システムにインプットされています。管理責任者として把握しているのは当然です」
「……そう。……そういうところ、セイカらしい」
エイミは運ばれてきたハーブティーに、そっとレモン果汁を落とした。
鮮やかな青が、一瞬で柔らかいピンク色へと移り変わっていく。
「……色、変わった」
「化学反応です」
「……うん。……綺麗」
エイミは満足そうにカップを傾け、温かいお茶を口に含んだ。
セイカもまた、自分の前に置かれたストレートの紅茶に静かに口をつける。余計な会話はない。けれど、流れる空気は酷く穏やかで、心地よかった。
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軽食を終えたエイミが、「……外、近くで見たい」と言ったため、二人は艦体外周に設けられた屋外展望デッキへと移動した。
強力な透明力場によって風圧と気温が完璧に制御されたデッキに足を踏み入れると、目の前には遮るもののない大パノラマが広がっていた。
空の青と、雲の白。
無限に続くかのような境界線の只中に、二人は並んで立った。
「……すごい」
エイミはデッキの柵に身を乗り出すようにして、眼下に広がる雲海を見渡した。
「……地上の空と、全然違う」
「高度約一万メートル。地上の喧騒や障害物が一切存在しない領域です」
「……うん。……静かで、広い」
エイミは視線を遠くの水平線へと向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……ここ、好きかも」
その言葉に、セイカは言葉を飾ることも、気取った解説を入れることもしなかった。
ただ、彼女の隣に並び、同じ雲海を見つめながら、静かに応えた。
「そうですか」
「……うん。……いい場所」
二人はしばらくの間、何も言わずにただ空を眺めていた。
流れる雲の音も、エンジンの静かな駆動音も、全てが背景の静寂の中に溶けていくようだった。
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「──あ、お父さん。ここにいた」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこにはシロコとケイの姿があった。
シロコが着ているのは、先日レナが仕立てたあの衣装だ。
白と水色を基調とし、胸元に静かな黒のリボンがあしらわれたドレス。光を含んだその装いは、この雲上のデッキの景色に驚くほど映えていた。
「シロコ、ケイ。どうしましたか?」
「ん。ソラノミの哨戒ログの確認が終わったから、報告に来た。……エイミも、来てたんだ」
「……シロコ。……ケイ」
エイミは静かに手を上げた。
そして、シロコの全身を一目見るなり、短く言葉をかけた。
「……その服。……すごく似合ってる。……似合いすぎてる」
ストレートなエイミの評価に、シロコは少しだけ驚いたように耳をピクッと動かした。
そして、どこか誇らしげに自分の裾に触れると、ほんのりと頬を緩めた。
「……ん。ありがとう。……お気に入り」
「……うん。……良い服」
「はい。この衣装はお姉ちゃんの光の透過率と空間存在感を最適化するべく設計されたものであり、非常に優れた構造を持っています」
隣にいたケイが、待ってましたと言わんばかりに胸を張り、ソラノミの設備やシロコの衣装構造について詳細な解説を始め出した。
「ソラノミの環境光管理システムとの相性も抜群であり、現在の高度における視認性および防御補正値は──」
「……ふーん。……ケイは、詳しい」
「当然です。私は娘として、そして妹として、完璧なデータを保持していますから」
嬉しそうに語るケイと、それに短く相槌を打ちながら感心するエイミ。
少し離れた場所で、シロコが「ふふ」と小さく笑う。
セイカはその様子を、口を挟むことなく静かに見守っていた。
彼女の紫色の瞳は、いつになく柔らかく澄んでいた。
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太陽がゆっくりと傾き始め、空が茜色と紫色のグラデーションに染まり始める頃。
エイミの帰る時間がやってきた。
セイカは一人で送りに来ていた。
「……案内してくれて、ありがとう。……楽しかった」
「お気に召したのなら幸いです。特に目新しいアトラクションなどはありませんでしたが」
「……それがいい」
「……そうですか」
エイミは少しだけ首を傾げ、淡々と、けれど穏やかな表情でセイカを見つめた。
「……ねえ、セイカ」
「はい」
「……今日みたいに、なんにもない日。……また来てもいい?」
セイカは迷うことなく、ごく当然のこととして答えた。
「もちろんです。ソラノミのセキュリティIDにはすでにエイミの生体情報を登録してあります。いつでもどうぞ」
「……そう。……よかった」
「……今度は、何か持ってくる。……美味しいやつ」
「楽しみにしています」
「……うん。……じゃあね、セイカ」
セイカは姿が見えなくなるまで見送っていた。
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エイミが去っていった後、セイカは再び一人で大型観測窓のあるデッキへと戻ってきた。
先ほどまでエイミと一緒に眺めていた空は、いまや完璧な夕暮れを迎えている。
黄金色から深遠な紫色へと移り変わる雲海。その遠くの果てに、一筋の1番星が瞬き始めていた。
特別な事件は何も起きなかった。
敵の襲来も、難解な謎の解析も、ソラノミの危機も、そして自分自身の内面を揺さぶるような大きな「成長」も、今日という一日には存在しなかった。
ただ、一人の友人が「暇だから」という理由でやってきて。
一緒に歩き、お茶を飲み、空を眺め、「また来る」と言って帰っていった。
それだけの、どこにでもある平凡で穏やかな一日。
セイカは静かにコンソールに手をかざし、艦内の環境光を夕暮れに合わせて微調整した。
ガラスに映る自分の顔を見る。そこに浮かんでいるのは、冷徹な観測士の仮面ではなく、ただ平穏な日常を愛おしむ一人の少女の静かな表情だった。
「……いつでも、待っていますよ。エイミ」
ぽつりと呟いた声は、静かなソラノミの夕闇の中に、優しく溶けて消えていった。