ミレニアムサイエンススクールの中央事務棟。その三階奥深くに位置するセミナー室は、常に無機質な電子音とホログラムの明かりに包まれている。
無数の部活、委員会、あるいは出資プロジェクトから提出される予算申請データが、光の帯となって何層ものウィンドウを描き出していた。
「……信じられない。これ、桁が一つ間違ってるんじゃないかしら……?」
端末のコンソールに表示された数字を前に、早瀬ユウカは頭を抱えていた。
画面に浮かんでいるのは、宇宙戦艦『ソラノミ』の月間運用・維持管理費の申請書類である。
艦そのものの規格外な巨大さは知っていたつもりだった。だが、そこに記載された項目の多さと、それぞれに紐づく請求額の桁は、ミレニアムの予算を預かるユウカにとっても目を見張るものだった。
艦内環境維持費、高精度観測機器の定期校正費、長距離量子通信回線の維持費、防衛シールドの出力維持用エネルギー代、そして──生活日用品および食料品費。
「どれだけ大掛かりな施設だとしても、一家庭……ううん、ひとつの拠点が請求してくる金額として、これはあまりにも常識外れよ。一度ちゃんと精査しないと、セミナーの監査を通せるわけがないわ」
ユウカはため息をつき、通信端末を操作した。
呼び出すべき相手は決まっている。ソラノミの艦長であり観測者である室笠セイカ……ではなく、その傍らに立ち、ソラノミの生活環境と実務管理を一手に担っている人物。
C&Cのメイドであり、ソラノミの給仕頭も務める室笠アカネだ。
数十分後。
コンコン、と静かで控えめだが、しっかりと芯のあるノックの音が部屋に響いた。
「失礼いたします。ユウカさん、お呼びでしょうか」
ドアが開かれ、入ってきたアカネは、いつものように一切の乱れがない、仕立ての良いメイド服を纏っていた。
優雅な一礼を捧げるその腕には、厚みのある革張りのファイルと、整理された物理ストレージが抱えられている。
「わざわざ出向いてくれてありがとう、アカネ。……急な呼び出しでごめんなさいね」
「いいえ、滅相もございません。ソラノミの生活関連費用についての確認……という認識でよろしいでしょうか?」
アカネは穏やかな笑みを絶やすことなく、示されたソファーへと滑らかな動作で腰掛けた。持参したファイルを開く手つきには、一切の迷いも動揺も見られない。
「ふふっ。ソラノミの生活関連費用について、ですね。必要なデータはすべて持参しておりますので、どのようなご質問でもお気軽にどうぞ」
その落ち着き払った態度に、ユウカは背筋を伸ばし直した。これから始まるのは、ミレニアムの金庫を守る会計と、ソラノミの暮らしを守る給仕による、数字を巡る真剣勝負だった。
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「ええ、まさにその件よ。……時間も惜しいから、単刀直入に言うわね」
ユウカはコンソールを操作し、ホログラム画面をアカネの視界に入る位置へと拡大して提示した。
「この月間の維持費の総額……これ、本当に『一か月分』の計算で間違いないの? あまりにも高額すぎるわ。セミナーの特別予備費から算出するにしても、正当な理由と透明性が証明されなければ、私の一存では判を押せないのよ」
ユウカの言葉は厳格だった。しかし、アカネは表情一つ変えず、ゆっくりと首を縦に振った。
「はい。ソラノミ全体の維持費としては、正確に一か月分の実費となります」
「一か月で……この金額が?」
「ええ。ですが、ユウカさんがご懸念されるのも当然でございます。ですので、本日はその内訳を証明するための詳細な明細と領収データをお持ちいたしました」
アカネは持参したストレージを端末へ接続した。
瞬時に、ユウカの手元に数千行に及ぶ詳細な家計簿データが展開される。
「項目の確認をお願いいたします。まず、艦内設備の維持費および電力・水・空調の循環システム管理費。次に観測機器と通信設備の定期メンテナンス費用。そして、居住者の食料・日用品の購入費……」
ユウカは眉をひそめつつ、追及の糸口を探すために目の前のデータを精査し始めた。
「(……どこかで無駄な支出があるはず。たとえば、高高度への輸送費に乗じた過剰な手数料とか、不必要な高級食材の購入とか、過剰な備品の取り替えとか……!)」
しかし、精査を進めれば進めるほど、ユウカのペンを握る手が止まり、その表情から追及の鋭さが消えていった。
代わりに浮かび上がってきたのは、深い困惑と、隠しきれない驚きだった。
帳簿は、恐ろしいほどに「完璧」だったのだ。
「……なにこれ」
食材の購入履歴を見れば、ソラノミに滞在する人間の人数、それぞれの代謝量と必要な栄養バランスが完璧に計算されていた。市場の価格変動を予測し、最も安価な卸売ルートから最適な時期に一括購入されている。腐敗による廃棄率はゼロに等しい。
日用品に関しても、在庫の消費ペースがミリ単位で追跡されており、重複購入や過剰在庫は一切存在しない。
さらに設備の修繕費に関しても、故障してから修理するのではなく、最もコストが低く抑えられる「予防整備」のサイクルに沿って先回りしてパーツが手配されていた。
「……ムダが、どこにもない……?」
ユウカは思わず呟いた。
帳簿の中に並んでいたのは、ズボラな無駄遣いなどではなく、家族全員の健やかな生活を第一に考え、一分一厘の無駄すら削ぎ落とした「究極の節約・管理技術」の結晶だったのだ。
「あの、アカネ……」
「はい、何でしょう?」
「これ……信じられないくらい堅実な管理をされているのね。正当な理由のない支出が、どこを探しても見当たらないわ……」
責めるつもりで呼び出したはずのユウカは、あまりの管理能力の高さに、ぐうの音も出ず感心のため息を漏らしてしまっていた。
「お褒めに預かり光栄です、ユウカさん」
アカネは嬉しそうに目を細めた。
「ですが……それでしたら、なぜこの金額になってしまうのか、ユウカさんのお悩みは解決しておりませんね?」
「そうなのよ! そこなのよ!」
ユウカは思わず身を乗り出した。
計算に間違いはなく、管理にも一切の不備がない。それなのに、合計金額はどう見ても一家庭の域を超えている。
ユウカはもう一度、明細の項目名を上から順に追いかけ──そして、ひとつの根本的な事実に思い至り、自分の額をぽんと叩いた。
「……分かったわ。これ、アカネの管理が悪いんじゃないわ」
「と、おっしゃいますと?」
「そもそも『ソラノミ』そのものが大きすぎるのよ!」
ユウカは手元の資料を指差し、呆れたように、けれど切実な声を上げた。
「アカネ! 普通の家庭や一般の生徒寮の家計簿にね、『高出力プラズマ機関の冷媒交換費』とか『空間屈折シールドの定期出力テスト費用』とか『超高度重力制御ユニットの防振パーツ代』とかが並んでること自体がおかしいの! ソラノミは一般的な『家』じゃなくて、空中を飛ぶ超大型の宇宙戦艦なんですからね!?」
「そうでしょうか?」
アカネは首をかしげ、いたって真面目な顔で答えた。
「セイカさんたちが安全かつ快適に生活する場所としては、十分に合理的な規模だと考えておりますが……」
「合理性の基準が物理的に浮いてるのよ! いい?」
ユウカは指を折り曲げながら熱弁した。
「家族が暮らす居住区! 広大な観測設備! 艦橋! 格納庫! 自衛用の防衛設備! 通信・演算システム! そして空中航行用の機関部! それらすべてを動かすための莫大なインフラ費用を、全部まとめて『ひとつの家政費・生活費』として処理しようとするから、一家族の生活費としてあり得ない金額になっちゃってるんです!」
「……ああ」
アカネはポンと小さく手を打った。
「なるほど。私は『ソラノミという家を維持するための費用』として一括で管理しておりましたが……ユウカさんから見れば、それは『家系図の規模を超えたインフラ費』に見えるのですね」
「見えるどころか、客観的な事実としてそうなの!」
ユウカは机に突っ伏した。
アカネの管理があまりにも完璧で誠実だったからこそ、カテゴリ分類の歪みが浮き彫りになっていたのだ。
「ふふ、捉え方の違いというのは面白いものですね」
クスクスと上品に笑うアカネの横で、ユウカは気を取り直して画面を起こし、申請書の細部へと視線を戻した。その中で、ふと異質な項目が目に留まった。
「……ねえ、アカネ。この『高濃度カカオ補給用非常用チョコレート(一括購入分)』って項目は何かしら? 家計簿に定期購入で、かなりまとまった額が入ってるんだけど」
「ああ、そちらですね」
アカネは当然の嗜みであるかのように、すっと表情を引き締めて説明を始めた。
「それはセイカさんのための『必要不可欠な補給品』です」
「補給品?」
「はい。セイカさんが『空見の波』を長時間起動・運用された際、その超高度な並列思考演算によって、脳の糖分が凄まじい速度で消費されます。思考停止や低血糖による致命的なパフォーマンス低下を防ぐため、即効性と持続性を兼ね備えた特注のチョコレートを常備しておく必要があるのです」
「……あ」
ユウカの脳裏に、かつて見たセイカの異常な演算能力と、それを支えるための過酷な代償が浮かんだ。
「……なるほど。あの演算能力を維持するための、文字通りの『燃料』なのね……」
「はい。彼女の命と健康、そして観測任務に直結する重要項目でございます」
ユウカは一瞬真剣な顔で腕を組み、深く頷いた。
「……必要経費ね。認めるわ」
「ありがとうございます。セイカさんにとっても大変重要なものですので、ご理解いただけて助かります」
安心したように微笑むアカネを見て、ユウカは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
さらに他の項目へ目を向けると、そこには家族一人ひとりへの細やかな気配りが散りばめられていた。
シロコの激しい運動量とトレーニングに耐えうる高タンパクな食材と、耐久性の高い衣料品。
ケイがデータ解析や端末処理を円滑に行うための、拡張ストレージと専用冷却カートリッジ。
そして、彼女たちが長旅や任務から帰ってきた時に、いつでも温かく迎えられるよう用意された手作りの焼き菓子や茶葉。
「(……すごい。ただの事務的な購入じゃない。家族全員の性格や癖、生活スタイルを全部把握した上で、一番いいものを厳選してる……)」
帳簿に並ぶ数字は冷たいはずなのに、そこには確かに「家族の暮らし」を守ろうとするアカネの温かいまなざしが宿っていた。
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「ただ、やはりセミナー全体の予算枠から見て、総額の調整が必要とおっしゃるのでしたら……」
ユウカが感銘を受けていると、アカネが申し訳なさそうに視線を落とし、静かな提案を口にした。
「もし削減が必要でしたら、私の分の費用から調整していただいても構いませんよ」
「え?」
ユウカは顔を上げた。
「私個人の衣服費や日用品費、それから私的嗜好品として計上している紅茶の茶葉代などを削れば、幾分かは予算を圧縮できるかと思います。家族の皆様の生活に影響を出すわけにはいきませんので」
アカネの口調はごく自然だった。
自分を後回しにし、家族や主人のために自らを削ることを、給仕として当然の義務であるかのように語っていた。
その言葉を聞いた瞬間──ユウカの中で、カチリと何かが弾けた。
バン! と、ユウカは手元の資料を机に叩きつけた。
「……それはダメ!」
「……ユウカさん?」
予想外の強い拒絶と剣幕に、アカネは珍しく驚いたようにパチクリと目を丸くした。
ユウカは椅子から立ち上がり、アカネの目を真っ直ぐに見つめて言い放った。
「家族全員の生活を影で支えているアカネが、真っ先に自分の分を削ってどうするの! アカネだってソラノミの立派な一員で、ちゃんと自分らしく生活するために必要なものがあるでしょう!?」
「ですが、責任者としてどこかを削らねばならないのでしたら、まずは私の私生活から……」
「削る場所が間違ってる! 誰かの犠牲の上に成り立たせるような節約なんて、そんなの家計管理でもなんでもありません!」
ユウカの声には、一切の迷いがなかった。
アカネはその強い言葉の裏にある、純粋な優しさと熱意を感じ取り、息を呑んだ。
ユウカ自身もまた、ミレニアムという巨大な学校の資金や設備を管理し、周りから「厳しい」「細かい」と文句を言われながらも、全員の生活と夢を守るために数字と戦い続けているのだ。
だからこそ、自分を犠牲にして帳簿を合わせようとするアカネの姿を、絶対に許すことができなかった。
__________
「……ふふっ」
静まり返った室内に、アカネの柔らかく澄んだ笑い声が落ちた。
「な、何か可笑しいの!?」
肩を怒らせていたユウカが赤くなって抗議する。
「いいえ。……ユウカさんは、本当に『お厳しいだけ』の会計ではないのですね」
アカネは胸元に手を当て、深く感じ入るようにユウカを見つめた。
「当たり前よ!」
ユウカは照れくさそうに腕を組み、ぷいと横を向いた。
「私だって、好きで厳しいことを言ってるわけじゃないんですから! ミレニアムの生徒みんなが、安心して勉強して、部活をして、普通に暮らしていくための予算を組んでるんです。誰かが我慢して成り立つような数字なんて、見た目が綺麗でも絶対にいつか破綻するわ!」
「……ええ。まったくおっしゃる通りです。大変失礼いたしました」
アカネは穏やかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
最初は「膨大な請求を追及する会計」と「それを説明する給仕」として向き合っていた二人。
しかし今、二人の間には同じ「誰かの生活を裏から支える者」としての深い信頼と理解が生まれていた。
アカネは、セイカや子どもたちのささやかで大切な温もりを守るために。
ユウカは、ミレニアムという巨大な傘の下に集う生徒たちの日常を守るために。
二人とも、帳簿に並ぶ無機質な数字の向こう側にある「人の暮らし」を、誰よりも大切に見つめていたのだ。
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「……よし! 方針が決まったわ」
ユウカはコンソールのペンを握り直し、慣れた手つきで画面のフォーマットを勢いよく書き換え始めた。
「ソラノミの予算を単純にカットするんじゃないわ。支出の『項目分類』を抜本的に見直します!」
「分類の見直し、ですか?」
「ええ。これからは費用を全部『ソラノミ生活費』として混ぜこぜにしないで、明確に5つのカテゴリに分離して請求を出してください」
1. 【ソラノミ艦体・インフラ維持費】(ミレニアムの大型防衛・観測拠点維持費として特別予算化)
2. 【観測研究部 活動費】(セイカさんの研究・観測関連費)
3. 【生活・家計費】(アカネたちが暮らすための純粋な生活費)
4. 【防衛・安全保障費】(自衛用警備・装備維持費)
5. 【緊急・非常用補給費】(チョコレートなどの特殊補給品)
「こうやって用途ごとに分けたら、純粋な『家族の生活費』は一般的な家庭や寮の範囲内にちゃんと収まるわ。これならセミナーの監査を通しても誰も文句は言えないし、予備費からの捻出もスムーズになるはずよ」
「まあ……! 素晴らしい手腕ですね、ユウカさん」
アカネは感嘆の声を漏らした。
艦の莫大な運用コストと、自分たちのささやかな暮らしの予算が切り離されたことで、家計としての健全性がひと目で証明できるようになったのだ。
「あと、アカネ」
作業の手を止めたユウカが、真顔でアカネを指差した。
「今後はちゃんと、『アカネ自身の生活費やプライベートの嗜好品費』も、隠さずに生活費の項目に堂々と入れてくださいね。自分を後回しにするのは絶対に禁止です!」
アカネは一瞬目を見張り、それから今日一番の温かい微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。感謝いたします。今後は……私自身の幸せも、しっかりと計算に入れるようにいたしますね」
その言葉に、ユウカはどこか誇らしげに、満足そうに頷いたのだった。
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「ふう……これで手続きは完了です。お疲れ様、アカネ」
「本当にお世話になりました、ユウカさん。……つきましては、お礼と言っては何ですが」
会議がひと段落したところで、アカネは持参していた手提げ鞄から、優雅な装飾が施された小さな木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
パカッと開けられた箱の中には、見た目にも美しい手作りのトリュフチョコレートが整然と並んでいた。香ばしいカカオの香りが室内に広がる。
「本日は長時間の精査、誠にありがとうございました。よろしければ、頭脳労働のお供にお召し上がりください」
「わぁ……美味しそう! ありがとうございます!」
甘いものに目のないユウカはぱっと目を輝かせたが、一粒手に取ろうとした瞬間、ハッと手を止め、アカネをじろりと見つめた。
「……アカネ。これ……まさか『ソラノミの非常用チョコレート購入費』に入ってないでしょうね?」
アカネはウインクをひとつ、可憐に微笑んだ。
「ふふっ、まさか。こちらは完全に、私の個人的な持ち出し(自腹)でご用意したものです」
ユウカはチョコを一粒口に含み、そのあまりの口溶けの良さと濃厚な味わいに思わず頬を緩ませた。そして、少し困ったようなため息をつく。
「……本当に美味しい……。でも、ダメですよ私情でそんなお高いものを毎回持ってきちゃ」
「ですが、感謝の気持ちですので」
「……はぁ。分かりました。なら、次からは──」
ユウカは口元を拭い、照れくさそうに言った。
「『セミナー会計との円滑な業務協議のための交際費』として、正式にソラノミの予算項目に計上しておいてください。それなら経費として落とせますから!」
一瞬の静寂の後、アカネは声を立てて嬉しそうに笑った。
「ふふっ。では、次回からは正式な項目にしておきますね」
数字と帳簿が繋いだ二人の「家政のプロ」の会話は、甘いカカオの香りと共に、どこまでも温かく締めくくられたのだった。