いつもなら観測データの解析音や端末の回路調整音、あるいは予期せぬ警戒アラートによって張り詰めた空気が漂う作業室の上が、今日は驚くほど静まり返っていた。
「目的地の気温22度、湿度45パーセント、風速毎秒2.3メートル。現在の百鬼夜行エリアにおける人流密度のピーク時間帯。移動にかかる所要時間と消費エネルギー、並びに現地での滞在可能時間、予定される概算経費──」
整然と整理された自室の作業机に向かい、いつになく真剣な表情でホログラム画面の数値を睨みつけていた室笠セイカは、ふいに後ろから肩を優しく叩かれた。
「ふふっ。セイカさん、今日は何をしに行く日か、覚えていらっしゃいますか?」
振り返ると、そこにはいつもの仕立ての良い服に身を包み、優雅に微笑む室笠アカネの姿があった。その手には、研究用端末や帳簿ではなく、小さな散策用のバッグが握られている。
「……ええ。アカネに誘われた『休日』です。仕事や任務、観測目的ではなく……その、二人で出かけるための」
「はい。いわゆる『夫婦デート』ですね」
アカネがさらりと「デート」という言葉を口にすると、セイカの先端の丸い耳がぴくっと揺れ、少しだけ視線を泳がせた。照れくささを隠すように、彼女は手元のコンソールへと再び手を伸ばす。
「ですが、目的地での行動指針や分単位のスケジュールを事前に策定しておかなければ、意図しない停滞や余計なリソースの消費が発生するおそれがあります。まずは移動ルートの最適化から──」
「セイカさん」
アカネは優しく手を重ね、セイカが操作しようとしたホログラム画面を静かに閉じさせた。
「今日は、何も決めなくても大丈夫ですよ」
「何も……決めない?」
「はい。行き当たりバッタリで歩いて、気になったお店に入って、美味しいものを食べる。今日の目的は『何かを達成すること』ではなく、『二人で一緒に楽しむこと』ですから」
セイカは少し困惑したように首を傾げた。
効率や数値を追い求めることが習慣化している彼女にとって、「目的を持たない時間」というのは最も攻略の難しい課題だった。
「……分析も、予定もなしに……ですか?」
「ええ。私についてきてくだされば、それで満点です」
アカネに手を取られ、セイカは照れくさそうに、しかし拒むことなくその温もりについていくのだった。
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青空に朱色の鳥居が映える百鬼夜行連合学院の街並み。
にぎやかな和風の情緒があふれる通りを進んだ二人が辿り着いたのは、甘味処として有名な『百夜堂』の本店だった。
のれんをくぐると、店内からは香ばしいきな粉と甘い餡子の良い香りが漂ってきた。
「いらっしゃいませーっ! 百夜堂へようこそ……あ、アカネさん! それにセイカさん!」
百夜堂の看板娘であり店長を務める河和シズコが、パッと表情を明るくして迎えてくれた。
「お二人揃ってなんて珍しいですね! 今日はなにかの調査ですか?」
「いいえ、シズコさん。今日は仕事でも調査でもなく……二人で休日を楽しみに参りました」
アカネが穏やかにそう告げると、奥から仕込みの手を止めて出てきたウミカが、目を丸くして食いついた。
「えっ!? 二人で休日……って、それってつまりデートですか!?」
「おおっ、素敵デスね! ワタシ、こういうの大好きデス!」
フィーナも茶葉の缶を抱えながら、笑みを浮かべて二人を見つめる。
ウミカとフィーナの視線を一身に受け、セイカはほんのりと頬を赤らめつつも、アカネの手を握り直して凛とした声で答えた。
「……はい。今日は、その予定です」
「きゃーっ! 素直! セイカさん、すごくお似合いのご夫婦ですね!」
ウミカが楽しそうに声をあげ、シズコも嬉しそうに胸を張った。
「ふふ、それならとびっきりの特等席へご案内しますよ! 百夜堂の名物に舌鼓を打って、日頃の疲れを吹き飛ばしていってくださいね!」
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中庭の見える静かな小上がりの席に通された二人。
着席するやいなや、セイカの視線が自然と店内を巡り始めた。
「……商品棚の配置角度がお客の動線を自然と奥へ誘導している。照明の演色評価数も高く設定されており、和菓子の色彩を最も引き立てる波長を選択しているな。さらに、店内のBGMのテンポは購買意欲を損なわない60BPM前後に微調整されて──」
目まぐるしく思考を回転させ、店内の構造や経営手法を合理的に分析し始めたセイカ。
すると、お茶とおしぼりを運んできたシズコが、くすくすと笑いながら声をかけた。
「セイカさん、セイカさん! 今日はお仕事じゃありませんよ?」
「あ……」
フィーナもトレイからお茶を差し出しながら、優しく言葉を添える。
「せっかくのお休みデスから、難しい計算や分析はひとまず置いておきマショウ! ここは心を休める場所デスからね。休む時はしっかり休む――それが仁義というものデス!」
「そうそう! 百夜堂のお菓子は、頭じゃなくてお腹で味わうものですよ!」
ウミカに乗っかられ、セイカはハッと息を呑んだ。
自分の習性とはいえ、またしても無意識に「観察と分析」に没頭しようとしていたのだ。
「……すみません。気づけば、無駄な数値を拾い集めようとしていました」
セイカはそっと眼光を和らげ、思考のスイッチをオフにした。
「何もしないこと」「ただ休日を楽しむこと」──それは彼女にとってどんな高度なプログラミングよりも難しい課題だったが、目の前の優しい笑顔たちに囲まれ、肩の力を抜くことの大切さを感じ取っていた。
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「さあさあ! 本日のおすすめはこちら! 百夜堂特製の『名物・大名あんみつ』に、焼き立てのみたらし団子です!」
シズコが自信満々に大皿をテーブルへ運んでくる。
「それに、こちらの新作・創作和菓子もぜひ! 私が仕込みを手伝った自信作なんです!」
ウミカが身を乗り出して追加のおすすめをアピールすれば、フィーナも急須からお茶を注ぐ。
「お茶は百鬼夜行の伝統的な煎茶をご用意しマシタ! 甘味の後に一口いただくと、渋みとお菓子の甘さが絶妙に調和するんデス。……これぞ、粋ってヤツデスね!」
「ありがとうございます」
目の前に並べられた色鮮やかな甘味を前に、セイカは最初、無意識に「糖分含有量」や「急須の湯温」を推定しようと瞳を小さく動かした。
だが──隣で静かに微笑むアカネの顔を見て、途中で分析をやめた。
セイカは小さなフォークで、一口サイズの団子をすくい、口へと運ぶ。
「……ん」
もっちりとした歯ごたえと共に、甘辛いタレの濃厚な旨味と香ばしさが口いっぱいに広がった。続いて、フィーナが淹れてくれた温かいお茶を飲む。爽やかな香りが鼻を抜け、口の中の甘さを心地よく洗い流してくれた。
「……美味しい、です」
セイカの口から、飾り気のない素直な感想がこぼれ落ちた。
アカネは目を細め、心底嬉しそうに自らの小鉢へ手を伸ばす。
「ふふっ。今日のセイカさんは、とっても素直ですね」
「……アカネと一緒に食べていますから」
少しだけ伏し目になりながら、ボソリと付け加えるセイカ。
その言葉と、何気ない夫婦の空気感の温かさに、横で見守っていたシズコ、ウミカ、フィーナの3人は思わず顔を見合わせ、微笑ましく目を細めた。
「ふふ、なんだか見ているこっちまで胸がキュッとしちゃいますね」
ウミカが照れくさそうに頬を掻き、店内には和やかな時間が流れていった。
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お菓子を楽しんだ後、3人はそれぞれの立場でセイカやアカネと会話を交わした。
シズコは店長としての立場から、ソラノミの「家事・生活管理全般」を一手に引き受けているアカネへ親近感を覚えていた。
「お店を切り盛りするのも大変ですけど、あんなに大きな施設でみんなの生活を支えるなんて、アカネさんは本当にすごいです!」
「いいえ、シズコさん。お客様や大切な仲間を『迎える』という想いの根底は、私もシズコ様も同じですよ。誰かが安心して帰ってこられる場所を作るのは、とてもやりがいのある仕事ですから」
「……あはは、そう言ってもらえると救われます! お互い、支える側として頑張りましょうね!」
互いの苦労と喜びを分かち合う二人の姿を、セイカは隣で温かい眼差しで見つめていた。
一方で、ウミカの興味は完全に「ソラノミ」そのものに向いていた。
「あの、セイカさん! 本当に雲の上の宇宙戦艦みたいなところに住んでるんですか!? エンジンはどうなってるんですか? やっぱり特殊な浮遊技術が……!? お祭りもできますか!?」
「ソラノミの滞空能力は、主機関である高出力プラズマ炉と、三次元的な気流制御システムによって維持されています。重力波の干渉を最小限に抑えるため、艦体の下部には──」
質問されると嬉しくなってしまい、ついつい真面目に技術解説を始めてしまうセイカ。
しかしウミカは嫌がるどころか、「すごーい!」「それってどういう構造なんですか!?」と目を輝かせて質問を連発する。
セイカも気づけば、自分の得意な領域を楽しそうに、分かりやすく噛み砕いて説明していた。
そんな賑やかなやり取りを見ていたフィーナが、セイカへ声をかける。
「セイカさん。百鬼夜行の街や、百夜堂の空気はいかがデスか? ワタシとしては、こういう落ち着いた雰囲気もなかなか乙なものだと思いマス!」
「ええ。……数字や論理だけでは説明できない『心地よさ』があると感じます。街の景観や、人が集まることで生まれる空気の密度など……定量化できない価値があるのだと」
「ふふっ、それが『文化』や『思い出』というものなのかもしれまセンね。今日は理由や理屈のことは忘れて、ただその感覚をたくさん楽しんでいってくだサイ。きっと、それが一番大切なことデスから!」
「……はい。そうしてみます」
セイカは小さく深く頷いた。大げさな気づきや劇的な変化ではない。けれど、数値化できない優しさが胸の奥にすっと染み込んでいくのを感じていた。
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「ごちそうさまでした、とても良い時間でした」
百夜堂をあとにした二人は、夕暮れ色に染まり始めた百鬼夜行の賑やかな街並みを散策し始めた。
風に揺れる風鈴の音。立ち並ぶ露店の明かり。行き交う生徒たちの歓声。
セイカの視線は相変わらず周囲の建物や風景を捉えていたが、以前のような「危険の察知」や「環境の数値化」といった切迫した意識は綺麗に消え去っていた。
ただ目の前にある美しい景色を、美しいと感じて眺めている。
ふと、歩幅を合わせて歩いていたアカネが立ち止まり、すっと右手を差し出してきた。
「アカネ?」
「ふふっ。せっかくのデートですから」
アカネは優しく微笑み、差し出した手を小さく揺らした。
セイカは一瞬、自分の手とアカネの手を見比べた。
「手を繋ぐ必要性」や「移動効率」といった理由を頭の中で探そうとして──すぐにそれをやめた。
理由なんていらない。ただ、アカネの手を握りたいから握るのだ。
セイカは少し照れくさそうに視線を落としながら、アカネの柔らかな手をぎゅっと握り返した。
「……行きましょう、アカネ」
「はい、セイカさん」
指と指が絡み合い、お互いの体温がしっかりと伝わってくる。二人はゆっくりとした歩調で、夕暮れの町を歩き続けた。
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日が落ち、街頭の灯籠にぽっと明かりが灯る頃。
散策を終えた二人は、帰路につく前にもう一度百夜堂の前を通りかかった。店頭の片付けをしていた3人が、二人に気づいて手を振る。
「あっ、お二人とも! 今日は楽しんでいただけましたか?」
シズコが駆け寄ってきて笑いかける。
「またいつでも、お二人で遊びに来てくださいね! いつでも大歓迎ですから!」
「次はソラノミのお話、もっともっと聞かせてくださいねー!」
ウミカが身を乗り出して手を振り、フィーナも頭を下げる。
「次にいらした時も、ワタシが心を込めておもてなししマス! また来てくだサイね。ワタシ、心よりお待ちしておりマス!」
アカネが洗練された動作で一礼を返した。
「ありがとうございます。本日は本当に素晴らしい時間を過ごさせていただきました」
そして、アカネの隣に立つセイカも、すっと3人の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ考えた後に言った。
「……はい。また来たいと……心から思いました」
少し不器用だが、温かい真心がこもったセイカの言葉。
シズコたち3人は嬉しそうに顔を見合わせ、アカネもまた、誇らしげで愛おしそうな笑みを浮かべてセイカを見つめるのだった。
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百鬼夜行の街を後にし、ソラノミのリビング。
窓の外には、遠く静かに広がる夜景と、夜空に浮かぶ星々が見えていた。
アカネがセイカの隣に腰掛け、ふっと息をつく。
「今日は、本当に楽しかったですね、セイカさん」
セイカは窓に映る街の明かりを眺めながら、握りしめたアカネの手の温もりを確かめるように、静かに答えた。
「……はい。とても」
そして、少しの間を置いてから、セイカは噛み締めるように言葉を続けた。
「次の休日も……また、こういう時間にしたいです」
その言葉を聞いたアカネは、思わず「ふふっ」と可憐な笑い声を漏らした。
「ふふっ。では、次のデートの予定を真剣に考えなくてはいけませんね」
すると、セイカは少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「……予定を決めないのが、『休日』なのでは?」
一本取られたようにアカネは目を丸くし、それから心から楽しそうに微笑んだ。
「あ……それもそうでしたね。ふふっ、セイカさんには敵いません」
「……? 私は、アカネが教えてくれたルールを言っただけですが」
「ええ、その通りです。ですから次の休日も……二人で、予定のない特別な時間にいたしましょう」
「はい」
二人は肩を寄せ合い、夜空に浮かぶ自分たちの「家」──ソラノミへで静かな時間の中を進めていくのだった。