「外気温、気圧、風向の三次元補正完了。艦底プラズマ炉のエネルギー効率99.8パーセント。周辺宙域における因果波動の走査──異常なし」
整然と整理された作業机に向かい、セイカは淡々と音声を打ち込みながら端末を操作していた。
観測、演算、艦全体の環境維持、さらには防衛計画の策定に至るまで、彼女の頭脳は常にフル回転を続けている。セイカにとって、それは息をするのと変わらない「日常」だった。
しかし──部屋の壁際に寄りかかり、その背中をずっと静かに見つめていたシロコは、わずかに眉を寄せた。
キーボードを叩く指先、ホログラムを追う瞳の瞬き、そして微細な呼吸の周期。
普通の人間の目にはいつもと変わらない完璧な作業に見えても、シロコには分かっていた。セイカの肩に、ほんのわずかな重みと疲労が溜まっていることに。
「……お父さん」
シロコがすっと歩み寄り、机の脇に立った。
セイカは視線だけを動かし、愛娘へと向けた。
「何かありましたか、シロコ? 空腹ならアカネに──」
「ううん、そうじゃない」
シロコはまっすぐにセイカの目を見つめた。
「お父さん、疲れてる」
断定的なその言葉に、セイカは一瞬だけ丸い耳をピクと揺らしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻って首を横に振った。
「問題ありません。生体バイタルデータ、脳波の伝達速度共に正常値の範囲内です。処理能力にも何の支障も出ていません」
完璧なロジックと数値による反論。
しかし、シロコは一切引くことなく、ぽつりと短く返した。
「……そういうところ」
「え?」
「『問題ない』って言って、自分で全部抱え込むところ。お父さんのそういうところ、私、見てるから」
シロコはそれ以上何も言わず、くるりと背を向けて観測室を後にした。
残されたセイカは、去っていくシロコの背中を少し不思議そうに見送り、再び端末へ視線を戻したのだった。
__________
リビングに移動したシロコは、コンソールに向かって作業を行っていた室笠ケイの隣へと歩み寄った。
「ケイ」
「はい、シロコお姉ちゃん。何か御用でしょうか?」
「お父さんを休ませる。協力してほしい」
シロコの唐突でまっすぐな提案に、ケイは一瞬画面を操作する手を止めた。
ケイは自身の内部データベースを参照し、即座にセイカの過去の生活ログを検索・抽出する。
「……データの照合を完了しました。確かにお父さんの睡眠時間、および休息に充てられている時間は、推奨される平均値を大幅に下回っています。お父さんの自己修復能力に依存した過密スケジュールです」
「でしょ。だから、今日は仕事を休んでもらう」
「了解しました。お父さんの本日および今週の予定表の開示と修正を行います」
ケイが空中ディスプレイにセイカの行動予定表をずらりと並べた。
しかし、二人は画面を前にして同時に唸った。
観測データの定常チェック、艦内循環システムの定期点検、防衛シミュレーションの更新──セイカが自ら策定したスケジュールは微小な無駄すら存在せず、緻密かつ完璧に組み上げられていた。どこか隙間を作ろうにも、すべてが互いに連携しており、一部を削ると全体に影響が出る設計になっていたのだ。
「……ダメだね。スキがない」
シロコが小さく息を吐く。
「お父さんは予定そのものを完璧に管理・統制されていますから、通常の調整では受け入れられない可能性が高いです」
ケイの分析を聞き、シロコは腕を組んでじっと画面を見つめた。
そして、彼女らしい鋭くシンプルな解決策を思いつく。
「じゃあ……予定を作るんじゃなくて、予定を全部消そう」
「……消す、ですか?」
「うん。お父さんが考える前に、私たちが全部止めちゃうの」
シロコとケイは顔を見合わせ、静かに頷き合った。
__________
翌朝。
いつものように定刻通りに目を覚まし、身支度を整えたセイカは、朝のルーティンである観測データの確認を行うため観測室へと向かった。
コンソールの前に立ち、メイン電源を起動しようと指を伸ばす。
──カチッ。
静かな操作音が響いたが、いつもなら即座に立ち上がるはずのホログラム画面は暗転したまま、一向に光を宿さなかった。
「……? システムの不具合でしょうか」
セイカが手元のサブパネルに触れようとした、その時。
暗闇の中から、すっと人影が立ちふさがった。
シロコだった。彼女の手には、観測室の主電源を物理的にシャットダウンするためのプロテクトキーが握られている。
「……シロコ?」
セイカが首を傾げると、シロコはまっすぐにセイカの目を見つめ、静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「今日は仕事、なし」
「ですが──」
セイカが反射的に反論しようとした。観測データの蓄積はソラノミの安全に直結する。理由の説明と運用の正当性を並べ立てようとしたセイカの言葉を、シロコは言葉を遮るように静かに紡いだ。
「お父さん」
シロコは少しだけ間を置き、セイカの手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「私たちがいるから、大丈夫」
「っ……」
その一言と、手に伝わる柔らかな温もりに、セイカは言葉を詰まらせた。
「艦の管理も、観測の代行も、ケイと私で配分を終えてる」
いつの間にか背後に立っていたケイが、静かに報告する。
「お父さんが本日一日業務を停止されても、ソラノミの全システムは99.9パーセントの安全率を維持できるよう、私とシロコお姉ちゃんで事前シミュレーションを完了させました。問題ありません」
「お母さんも、今日は仕事をお休みしてお茶の準備をしてくれてる」
二人に挟まれ、完全に退路を断たれたセイカは、数秒間固まった後、ぽかんと口を開けた。
ロジックでも論理でも勝ち目のない、純粋で温かい「強硬手段」。セイカはついに反論する言葉を見つけられず、肩の力をふっと抜くしかなかった。
__________
「ふふっ。セイカさん、諦めて観念してくださいな」
リビングへ移動すると、そこには仕付けの良いエプロンをつけたアカネが、香ばしい和紅茶と焼きたてのクッキーを用意して待っていた。
「アカネまで……」
「シロコとケイから『お父さん休業計画』の相談を受けた時は、私も大賛成したんですよ。さあ、こちらへ座ってくださいな」
促されるまま、セイカはソファへと腰を下ろした。
隣にはシロコが当然のようにちょこんと座り、反対側からはケイが大きな箱を抱えてやってくる。
「お父さん。本日の『休息』を円滑に行うため、非言語的・非効率的なコミュニケーションツールを用意いたしました」
ケイがテーブルの上に広げたのは、木製の精巧なボードゲームと立体パズルだった。
「……このボードゲームにおける最適な勝率計算および初期配置のアルゴリズムは──」
「お父さん」
セイカが思わず分析を始めようとすると、シロコがすかさずその袖をひっぱった。
「勝利のための計算は禁止。ただ、賽を振って、コマを動かすだけ」
「ですが、目的に向けた合理的アプローチを行わなければ、ゲームとしての成立性が──」
「目的に向かわなくていいの。目的なんてないよ」
「目的が……ない?」
セイカは困惑したように首を傾げた。
数値を追わず、成果を求めず、ただサイコロを転がして出た目に一喜一憂する。それはセイカの人生において、最も解読の難解な式だった。
けれど──。
「あ、お父さん、振ったサイコロがテーブルから落ちた」
「……あ」
「ふふ、セイカさん、出目は『一』ですよ。振り出しに戻る、ですね」
「……くっ、この確率で『一』を引き当てるのは統計学的に不合理です……」
「お父さん、悔しそうな表情を観測しました。もう一度振ってください」
目的のない時間。計算のいらないゲーム。
手作りのクッキーをかじり、温かいお茶を飲みながら、家族と笑い合う。
最初はぎこちなくサイコロを握っていたセイカだったが、時間が経つにつれて、その目元や唇の端から、少しずつ険しさが消え、柔らかで温かな表情が浮かび上がっていった。
__________
夕方。
空が茜色から深い紫紺へと移り変わる頃、シロコはセイカの手を引いて、ソラノミの最上階にある観測デッキへと向かった。
ガラス張りの天井からは、雲海の向こうに沈む美しい夕日と、刻一刻と輝きを増す星々が見渡せる。
心地よい静寂の中、二人は並んで欄干に肘を預けた。
「……お父さんって、いつも私たちのこと考えてるよね」
静かに雲海を見つめたまま、シロコがぽつりと呟いた。
セイカは少しだけ視線を落とし、静かな声で答える。
「家族ですから。当然です。あなたたちの安全を守り、健やかな環境を維持することが、私の最優先事項ですから」
「うん。分かってる」
シロコは視線を雲海から外し、隣に立つセイカの横顔をまっすぐに見つめた。
「じゃあ……私も、お父さんのこと考えていい?」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、セイカは言葉を失った。
「お父さんがどれだけ疲れてても、『問題ありません』って言うの、私、知ってるよ。無理して、平気な顔をして、全部自分一人で背負おうとすること」
シロコの瞳には、真っ直ぐで嘘偽りのない、強い愛情と心配の光が宿っていた。
「だから今日は、私が決めたの。お父さんは、休んでいいって」
__________
セイカの胸の奥で、何かが静かに揺れた。
空見の波を使えば、未来の事象や敵の動向、確率の収束など、あらゆる答えを導き出すことができる。
けれど──目の前にいる娘が、どうして自分にここまで深い愛情を注いでくれるのか。その答えだけは、どんな高度な数式や能力を使っても導き出すことができなかった。
「……私は」
セイカは自分の胸に手を当て、戸惑うように呟いた。
「どうして……あなたたちは、私にそこまでしてくれるのでしょう。私には、あなたたちに与えられる完璧な条件や安全以外に、何もないというのに……」
セイカの問いかけに、シロコは迷うことなく即答した。
「家族だから」
「……それだけですか? 効率や利害関係、あるいは役割の遂行といった理由なしに……ただ『家族だから』という理由だけで?」
かつて、レナの誕生日にセイカ自身が言った言葉。
──『レナが、私たちの仲間だからです。祝うことに合理的な理由はいりません』。
かつて自分が仲間へ手渡したはずのその答えを、今度はシロコが、何よりも温かい笑みをたたえてセイカへと返し渡す。
「うん。それだけで十分じゃない?」
シロコはセイカの手をぎゅっと握り締め、胸を張って言った。
「お父さんが、私のお父さんだから。……理由なんて、それだけで完璧だよ」
「っ……」
セイカの瞳が微かに潤んだ。
守るべき対象であり、導くべき子どもたちだと思っていた。
けれど、自分は最初から──この温かな家族に守られ、愛されていたのだ。
セイカはそっと目を閉じ、溢れそうになる感銘を噛み締めながら、小さく深く頷いた。
「……そう、ですね。それだけで……十分でした」
__________
夜。
家族での賑やかな夕食を終え、各自が自室へと戻った深夜。
セイカは一人、静まり返った観測室の大きな窓の前に立っていた。
広大な夜空には、無数の星々が宝石を散りばめたように輝いている。
いつもなら、視界に入る星々の視差、天候の遷移確率、宇宙線の数値などを無意識に計算し、思考を巡らせているはずだった。
けれど今夜のセイカは、ただぼんやりと、その光の美しさをそのまま眺めていた。何一つ計算することなく、ただ「きれいだ」と感じながら。
足音が聞こえ、振り返ると、パジャマ姿のシロコがドアの隙間から顔を覗かせていた。
「……お父さん。まだ起きてた」
「はい。ですが……今日は、何も観測していません」
セイカが小さく微笑みながら答えると、シロコは満足そうに目を細めた。
「そっか」
トコトコと歩み寄ってきたシロコは、セイカの隣に並び、一緒に夜空を見上げた。
静かな静寂が二人を包み込む。
「……シロコ」
「ん?」
セイカは夜空からシロコへと視線を移し、心からの感謝を込めて言った。
「今日は……とても、楽しかったです」
その言葉を聞いたシロコは、パッと顔をほころばせ、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また休もうね。お父さん」
守られることを覚え、委ねることを知ったセイカは、もう戸惑うことなく、優しく愛娘の頭を撫でた。
「……はい。次は、私から誘ってみます」
夜空に浮かぶ温かな家──『ソラノミ』の静かな夜は、家族の優しい愛に包まれながら、ゆっくりと深まっていった。