空見観測研究部の部室には、今日も規則的な電子音と、どこかのんびりとした雰囲気が漂っていた。
午後の陽光が大きな展望窓から差し込む室内。中央のミーティングテーブルの上には、小さな白い磁器皿がひとつ置かれていた。
その皿の中央にぽつんと鎮座しているのは──アカネ特製のカカオとチェリーの焼きたてクッキー。
枚数は、ちょうど「一枚」。
「……お父さん」
皿を穴が開くほど見つめていたシロコが、静かに首を巡らせ、作業机に向かっていたセイカへと視線を向けた。
「何かありましたか、シロコ? 何か艦内の通信設備に障害でも?」
端末のキーボードを軽快に叩いていたセイカが、手を止めて愛娘へと向き直る。
「ううん。そうじゃない。……じゃんけんしよう」
「じゃんけん、ですか?」
セイカは少しだけ首を傾げた。その表情には、未知の戦闘シミュレーションを提示された時のような真剣さが混じっている。
「その提案における目的と、発生する期待値について説明を求めます」
「最後のクッキー。誰が食べるか決めるため」
シロコは至極当然といった様子で皿の上のクッキーを指さした。
「なるほど。限られた資源に対する優先所有権の決定手段ですね。理にかなっています」
セイカは大きく一度頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
「了解しました。非暴力かつ迅速な意思決定プロセスとして『じゃんけん』を採用します。対戦に応じましょう」
ただのクッキー一枚を賭けた、子どもっぽい一発勝負。
しかし、その瞬間から──室笠セイカの思考回路は、まるで国家規模の防衛システムが稼働したかのように猛烈な勢いで回転を始めた。
「(シロコとの過去の意思決定ログを検索。……彼女が突発的な勝負事で最初に選択する手の傾向。さらに、現在のシロコの指先の弛緩状態、視線の移動速度、および呼吸周期から推測される脳内伝達物質の分泌量──)」
セイカの瞳の奥で、無数のデータシートが超高速でスクロールしていく。
その異様なまでの集中力と、ただならぬ雰囲気を察知した室笠ケイが、電子音とともに滑らかにテーブルの脇へと滑り込んできた。
「お父さん。確認ですが……まさか相手の手運動、および心理バイアスをリアルタイムで解析し、次の手を完全予測・算出するつもりですか?」
「はい、ケイ。勝率を極限まで100パーセントへ近づけるための合理的アプローチです。相手が肉体言語として発するわずかなサインを見逃さなければ、じゃんけんという不確定要素の強い試行であっても、確定的な勝利へと収束させることが可能です」
完璧なロジックを朗々と語るセイカに対し、対峙するシロコは半目になり、小さく息を吐いた。
「……普通にやればいいのに」
__________
セイカとシロコが対峙したという知らせ――あるいは察知――により、部室内にいたメンバーたちが興味津々といった様子でテーブルの周りへと集まってきた。
「あらあら、なんだか楽しそうなことをなさっていますね」
ティーポットを手にしたアカネが、穏やかな笑みを浮かべながら新しいお茶を注ぐ。
「ふふ、じゃんけんかい? ただの運試しにしては、随分と場の空気が重いようだが」
ソファーから立ち上がった百合園セイアが、楽しそうに目を細めて読書中の本を閉じた。
「うむ。たかが一枚の菓子を巡る戦い。それこそ武人の嗜みというものじゃな」
竜華キサキが豪快に腕組みをし、堂々と高見の見物を決め込む。
「いや、どう見てもセイカさんが変な方向に本気出してるだけでしょ……」
衣斐レナは呆れ顔で額を押さえつつも、ちゃっかりセイカの横に立ち、その顔を見覗き込んだ。
ギャラリーが見守る中、セイカは静かに拳を握り込み、右手を胸の前に掲げた。
「では……シロコ。いきますよ」
「ん。いつでも」
「「最初は──グー!」」
二人の声が重なった、その瞬間。
セイカの脳内演算速度が限界を突破した。シロコのわずかな肩の上がりに反応し、思考のスピードが光速の領域へと達する。
──そして、セイカが空見の波を未来の確定に向けて無意識に起動しかけた。
空間が一瞬だけ歪み、観測室内の空気密度が不自然に変化する。
艦内の安全装置が微細な空間歪曲を検知し、軽い警戒音を鳴らした。
「……お父さん?」
シロコがジト目でセイカを見つめる。
「……ッ、失礼。脳内演算のみで対応可能です」
セイカは何事もなかったかのようにすっと姿勢を正し、溢れ出かけた因果の波を力ずくで押さえ込んだ。
しかし、周囲のツッコミ役たちがそれを黙って見過ごすはずもなかった。
「いや、たかがじゃんけんで世界の因果を歪めようとするな!! クッキー一枚で時空が崩壊したらどうするのよ!」
レナが身を乗り出して絶叫する。
「ふふっ、これは素晴らしいものを見たね。未来を見通す能力者であっても、人間の気まぐれとランダム性が交差する『じゃんけん』という日常の深淵には抗えないというわけだ」
セイアが詩的な表現でくすくすと笑う。
「ハハハ! 因果を捻じ曲げてまでクッキーを食べたいかセイカ! お主のそういう常識から逸脱した執着、わらわは嫌いではないぞ!」
キサキがお腹を抱えて大爆笑し、アカネが困ったように微笑む。
「ふふ、セイカさん。くれぐれも部室を壊さない程度にお願いしますね?」
「……善処します」
セイカは真顔で頷いたが、その耳は心なしか少し赤くなっていた。
「気を取り直して……いきます」
「ん」
「「ジャンケン──ポン!」」
シロコの手が「グー」の形で突き出される。
それに対し、セイカの手はコンマ数秒の遅れすら感じさせない完璧な流麗さで「パー」を開いていた。
パシッ、と空気を切る綺麗なパー。
「……負けた」
シロコが己の拳を見つめ、ぽつりと呟く。
「はい。勝者は私です」
セイカは胸を張った。
「シロコの前腕屈筋群の弛緩度合い、および過去の『最初はグー』からの遷移確率を算出した結果、初手で『グー』を選択する確率は99.98パーセントでした。私の勝利は、最初から数学的に確定していたのです」
「お見事です、お父さん。初期モデルの正当性が立証されました」
ケイがパチパチと無機質な音で拍手を送る。
完璧なロジックによる完全勝利。セイカが誇らしげに皿へと手を伸ばそうとした、その時だった。
「じゃあ、次」
シロコが平然と言い放った。
「……はい?」
セイカの手がピタリと止まる。
「三回勝負。先に二回勝った方が、クッキーをもらえる」
「ですが、事前の取り決めにおいて試行回数の明記はされておらず、慣例的にじゃんけんは一回勝負であると定義されています。二回戦の実施は不合理──」
「お父さん、逃げるの?」
「っ……!」
シロコのまっすぐで挑発的な瞳に見つめられ、セイカは言葉を詰まらせた。
「……逃げるわけではありません。よいでしょう。条件の追加を受け入れます。二回戦に移行します」
セイカは再び思考回路を全開にした。
「(思考の更新を実行。一度『グー』で敗北した人間が、二回戦で選択する思考アルゴリズムの解析──。通常、敗者は手を変えるバイアスが働く。つまり『チョキ』か『パー』。しかしシロコの性格上、あえて裏をかいて連続で『グー』を出す可能性、あるいは『私が相手の裏をかくこと』を読んだ上で──)」
セイカの脳内で、心理戦の樹形図が無数に枝分かれしていく。
「(算定完了。シロコが次に『グー』を出す可能性は72.4%。そして『パー』を出す可能性が21.1%。……つまり、私が『パー』を出せば、引き分け以上が確定し、勝率は極めて高い!)」
「「ジャンケン──ポン!」」
自信に満ちた笑みを浮かべ、セイカは力強く「パー」を突き出した。
対するシロコの手は──綺麗に二本の指を立てた「チョキ」だった。
「…………」
静寂が部屋を支配する。
チョキを出したシロコの手と、パーを出した自分の手を、セイカは何度も交互に見つめた。
「読めてねぇじゃん!!!」
レナの鋭いツッコミが、観測室の天井に木霊した。
「お父さん! 予測モデルに深刻な計算エラーが発生しています! ただちにアルゴリズムの再構築を推奨します!」
ケイが焦ったようにディスプレイの数値を点滅させる。
「……バ、バカな……。相手の心理バイアスを完全に数値化したはず……なぜ『チョキ』なのですか……!?」
呆然とするセイカに対し、シロコは首をちょこんと傾げて言った。
「なんとなく、チョキがいいと思ったから」
「『なんとなく』……!? 直感という不確定要素で、私の計算を上回ったというのですか……!?」
__________
一勝一敗。勝負はついに、運命の最終ラウンドへと持ち込まれた。
この時点で、セイカの高度な知性は完全に「じゃんけん」という泥沼のゲームに呑み込まれていた。
「(落ち着きなさい、室笠セイカ。相手は直感で動く野生の思考領域。ならば、通常のゲーム理論や行動経済学のモデルは通用しない……!)」
セイカは自分の額に手を当て、超高速で思考を回転させる。
あまりの脳の熱量に、眼鏡のレンズがうっすらと曇り始めていた。
「(シロコは今、『なんとなく』で勝った。ならば次は? 再び直感で手を選ぶのか? それとも、一勝一敗になったことで『勝ちたい』という意思が生まれ、論理的な選択を行ってくるのか?)」
「(もしシロコが『私がグーを出す』と予測した場合、彼女はパーを出す。しかし、私が『シロコがパーを出す』と予測してチョキを出した場合、シロコがさらにその裏をかいてグーを出していたら……私は完全な負けになる!)」
「(待て……そもそも『裏の裏』とはどこを指す? 裏の裏の裏か? それとも一周回って表なのか!?)」
無限ループに陥る思考。
観測室の端末群が、セイカの脳波の急上昇を検知して警報を鳴らし始める。
「お父さん! 脳内負荷が危険域に達しようとしています! 現在の最終予測確率はどうなっていますか!?」
ケイが心配そうに数値をモニタリングしながら叫んだ。
セイカは血走った(ような気がする)瞳で、震える声で告げた。
「……シロコが……グーを出す確率……33.3パーセント……」
「はい!?」
「……チョキを出す確率……33.3パーセント……。……パーを出す確率……33.4パーセントです……!」
すべての計算と分析、心理戦の果てにセイカが導き出したのは──完全なる「ただの三等分」だった。
「ただのランダムじゃない!!!」
レナが机を叩いて叫ぶ。
「あんた何分間も超高速演算して、結局『ただの運試し』っていう結論に辿り着いたの!? バカなの!? 天才なの!?」
「ハハハハハ! 腹が、腹が痛いぞ!!」
キサキは涙を流しながらテーブルをバンバンと叩いて転げ回っている。
「ついに未来を観測しすぎて、自らの観測によって未来を霧の中へと隠してしまったね。まさにシュレディンガーのじゃんけんだ。観測するまでは、あらゆる手が同時に存在する……ふふっ」
セイアがソファーで優雅に笑い転げ、アカネは「まあまあ」とお腹を抱えるキサキに温かいお茶を差し出している。
「セイカさん、お顔がとても引きつっていらっしゃいますよ?」
「……問題……ありません……。私は、常に……最適解を……」
プルプルと震えるセイカの手。その指先は、グーともチョキともパーともつかない、奇怪な形に固まっていた。
___________
「「ジャン──」」
セイカが極限の緊張感と混乱の中で、運命の「ポン」を繰り出そうとした、まさにその瞬間だった。
「あ、もういいや」
「……え?」
シロコがあっさりと自分の手を下ろした。
固まったままのセイカの目の前で、シロコは皿の上に残っていた最後のクッキーをひょいと手に取った。
そして──パキッ、と心地よい音を立てて、それを綺麗に真っ二つに割ったのだった。
「お父さん、一緒に食べよう」
半分のクッキーが、セイカの固まった手の中にちょこんと乗せられる。
「……シロコ?」
「最初から、じゃんけんする必要なかったね」
自分の分のクッキーを口に放り込み、サクサクと音を立てて咀嚼しながら、シロコは何でもないことのように微笑んだ。
手の中にある、半分に割られたクッキー。
そして、満足そうにクッキーを味わう愛娘の顔。
セイカは数秒間、完全にフリーズしたのち、深く、長いため息とともに全身の力を抜いた。
「……そうですね。最初から半分に割って分配すれば、勝率の計算も、行動予測も、心理戦の分析も……一切不要でした」
これまでの極限の葛藤と超高度な脳内戦術が、すべて「最初から分ければよかった」という一言で崩れ去った。
そのあまりにも間抜けて温かい着地点に、耐えかねたレナが限界の絶叫を響かせた。
「最初からそうしろ──────ー!!!」
「「「はははははは!」」」
観測室内に、この日一番の大きな爆笑が弾け飛んだ。
キサキは呼吸が苦しそうにむせており、セイアは本で顔を隠しながら肩を大きく揺らしている。ケイすらも、どこか呆れたような、けれど楽しそうな声を漏らしていた。
そんな賑やかな騒ぎの中、セイカは真顔を取り戻すと、手の中のクッキーを口に運び、ごっくんと飲み込んだ。
そして、いつもの厳格で知的な口調で言った。
「……ですが、今回の一連の試行によって、人間の不確実性と心理的バイアスが与える『じゃんけん』という日常的行動の奥深さは十分に理解できました。これは非常に興味深い論文としてまとめられそうです」
「そこだけ研究成果にするな!!」
レナのキレのあるツッコミが再びソラノミに響き渡り、空見観測研究部の平和で賑やかな午後は、溢れんばかりの笑い声と共に過ぎていくのだった。