コンソールから発せられる微細な冷却ファンの駆動音と、一定周期で明滅する青いインジケーター。
『ソラノミ』の観測室には、いつもと変わらない無機質で静謐な時間が流れていた。
セイカは、多層ホログラムのディスプレイ群を前に、一切の無駄がない指さばきでキー入力を続けている。
「──気流パターンの推移、予測誤差0.02パーセント以内。艦底部の磁気シールド出力、正常。周辺宙域における熱源反応──なし。……よし、午後の定期観測ルーチン、完了です」
端末の画面を閉じ、小さく息を吐いたその時だった。
カシャ、と。
静かな室内に、場違いな金属的で乾いた作動音が響いた。
「……?」
セイカが顔を上げると、作業机のすぐ横に室笠シロコが立っていた。
その手には、どこから持ち出してきたのか、使い込まれた一眼レフカメラが握られている。そして黒く大きなレンズの筒先は、まっすぐにセイカの顔面へ向けられていた。
「……シロコ? それは旧式のカメラですね。艦内の記録データベースに不具合でも生じましたか?」
「ううん。そうじゃない」
ファインダーから覗いていた右目を外し、シロコはまっすぐにセイカを見つめた。
「今日は、お父さんの写真を撮る」
「……私の、ですか?」
セイカは少しだけ首を傾げた。自分の容姿を画像データとして切り取ることの合理的価値が、瞬時に算出できなかったのだ。
「理由と目的の提示を求めます。私の個人識別データであれば、すでに艦内の各種IDおよび人事ファイルに高解像度なものが保存されていますが」
「理由は、私が撮りたいから。目的は、残したいから」
シロコはカメラをぎゅっと抱え直し、真剣な瞳で言った。
「お父さんの写真を、撮りたい」
「……了解しました」
娘のまっすぐな要求を拒む選択肢など、セイカには存在しない。
セイカは姿勢を正して座り直すと、即座に「完璧な被写体」となるための計算へと没頭し始めた。
「光学撮影における環境変数の調整を開始します。現在の主光源は窓からの自然光ですが、これでは右側面への光量が不足します。逆光による露出補正と、レンズの絞り値をF2.8に設定。背景のディスプレイ輝度を15パーセント落とせば、被写体としての私が強調され──」
「……お父さん」
早口で撮影条件を並べ立てるセイカの言葉を、シロコは呆れたような、けれどどこか愛おしそうなジト目で遮った。
「そういうのじゃない」
__________
「そこに座って」
シロコは観測室の中央にある、いつもの作業用の椅子を指さした。
「……この位置ですか? 入射角が不完全ですが」
「うん。いつものお父さんでいい」
シロコがカメラを構え直し、ファインダーを覗き込む。
しかし──セイカは「写真に残される」という目的を与えられたことで、かえって身動きが取れなくなっていた。
より美しく、より精細に、無駄のない姿を維持するための演算が、脳内で無限に渦を巻く。
「右側から撮影した場合、顔面への光量が約22パーセント不足します。……表情はどうすべきでしょうか。無表情は警戒心を抱かせ、人工的な笑みは親和性を損なう可能性があります。最適な表情筋の弛緩率は──」
「お父さん」
「はい」
「普通にして」
シロコがため息混じりにカメラを下ろした。
「……普通、とは何でしょうか? 日常における私の標準行動パターンの再現という意味でしょうか?」
「それが分からないのが、お父さんだよ」
シロコはフッと、柔らかく小さな笑みを漏らした。
「普通」になろうとすればするほど、完璧な計算と論理で全身をガチガチに固めてしまう。それが、自分の愛する「お父さん」という存在の、困ったようで愛おしい本質だった。
「お父さんの写真を撮るのですか?」
そこへ、軽い足音とともにケイがすっと入ってきた。
「はい、ケイ。シロコから個人の光学撮影を依頼されています。しかし、最適なポーズと撮影環境の決定において難航しています」
「なるほど。では私も協力します。照明強度の調整、被写界深度の最適化、およびお父さんの顔立ちが最も美しく見える黄金比の画角を算出──」
「ケイは味方しないで」
シロコが即座に割り込み、ケイの言葉を制した。
「えっ? ですが、データに基づいた撮影支援は効率的かと……」
「ダメ。お父さんは放っておくと、ケイと一緒に完璧な作品を作ろうとしちゃうから」
シロコはケイの隣に並び、二人の父親であるセイカをじっと見つめた。
「私が撮りたいのは、完璧なデータじゃないよ。……『お父さんが何もしていない瞬間』を撮るの」
「何も……していない瞬間、ですか?」
ケイが首を傾げる。
セイカもまた、その指示の意味を理解しようと瞬きをした。
「理解不能です。人間が意識を保持している限り、知覚データの処理など何かしらの『行動』は発生します。完全に何もしていない状態とは──」
「いいから、じっとしてて」
シロコとケイは顔を見合わせ、並んでカメラのフレームを覗き込んだ。
二人の娘に見つめられ、セイカは「何もしていない状態」になろうと試みた。
……しかし。
数秒後。
セイカの指先がわずかに動き、机の上のティーカップの位置をミリ単位で平行に直した。
さらに数秒後。
壁の艦内時計へと視線をチラリと巡らせた。
さらに数秒後。
手元のデータ端末のランプが点滅したのに反応し、無意識に画面をタップしかけた。
「……あ」
セイカは慌てて手を引いた。
「お父さん、ずっと何かしてる」
シロコが呆れ混じりに呟く。
「お父さんの行動ログを分析。完全な静止状態の維持時間は平均2.4秒です。常に周囲の状況に意識を配分されています」
ケイが真顔で報告する。
「……すみません。無意識に周囲の観測を行ってしまう癖が抜けないようです」
「何もしない」ということの難しさに、セイカは困惑したように眉を下げた。
__________
「ふふっ。セイカさんは、写真を撮られるのも難しいのですね」
柔らかな声とともに、トレイに乗せた温かいティーセットを抱えたアカネが観測室に入ってきた。
「アカネ……」
「お茶を淹れてきましたよ。シロコもケイも、少し休憩なさってはいかがですか?」
アカネはテーブルに手際よくカップを並べると、困り果てているセイカの表情を見て、くすくすと上品に喉を鳴らした。
「……どうやら、そうみたいです。カメラを向けられると、どのような状態で存在すべきなのか、適切な解が導き出せません」
セイカが諦めたように息を吐く。
「では、私から一つだけ提案があります」
アカネは穏やかな微笑みを浮かべ、セイカのすぐ隣にあるソファーへとしとやかに腰を下ろした。
「私たちが普段見ているセイカさんを、そのまま撮ってみてはいかがでしょうか?」
「私たちが……見ている姿?」
「ええ。セイカさんが『撮られよう』とするから難しくなるのです。私たちが愛しているのは、ポーズを決めたセイカさんではなく、ここで私達と共に過ごしている、ありのままのセイカさんなのですから」
アカネはそう言うと、セイカへと温かい和紅茶のカップを差し出した。
「さあ、セイカさん。まずは一口、召し上がってくださいな」
「……あ、はい。感謝します、アカネ」
セイカが無意識にカップを受け取り、その温もりに目を細めた──その瞬間。
──カシャ。
シロコが静かにシャッターを切った。
一枚目。
アカネから差し出された紅茶を、少し申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに受け取るセイカの姿。
「あ、今の、すごく自然です」
ケイがシロコの横から画面を覗き込み、小さく声を上げた。
「ふふっ、良いお顔ですね。……セイカさん、今日のお茶のお味はいかがですか?」
「はい。カモミールの香りが絶妙で、脳の緊張がほぐれるのを感じます。いつも素晴らしいお茶をありがとうございます」
アカネと向き合い、穏やかな表情で会話を交わすセイカ。
──カシャ。
二枚目。
アカネの言葉に耳を傾け、少しだけ目元を緩めているセイカの横顔。
「お父さん、このデータの数値なのですが、少し補正値に疑問があります」
ケイが持ち込んだホログラムタブレットを差し出すと、セイカはカップを置き、すぐに真剣な眼差しで画面を覗き込んだ。
「見せてください、ケイ。……ふむ、第三波形の減衰率ですね。ここは乗算ではなく、加算処理を行うのが正解です」
「なるほど。理解しました。ありがとうございます、お父さん」
──カシャ。
三枚目。
ケイの頭にそっと手を置き、真剣かつ愛おしそうにデータを教えるセイカの姿。
「お父さん」
シロコがカメラから顔を上げ、話しかけた。
「何でしょうか、シロコ?」
「クッキー、最後のひとつ、私が食べていい?」
「……ええ、勿論です。元よりシロコのために用意されたものですから」
「うそ。本当は、お父さんも食べたかったでしょ」
「……ッ、そのような小児めいた欲求はありません。バイタルデータにも──」
「ふふ、耳がピクピクしてる」
「~っ」
──カシャ。
四枚目。
シロコに図星を突かれ、少しだけ困ったように、照れくさそうに笑っているセイカの顔。
どれ一つとして、ポーズを取った写真はない。
カメラを意識せず、ただ大切な家族と話し、笑い、教え合っている、ありのままの「日常のセイカ」がそこには収められていた。
__________
夜が訪れ、ソラノミは静かな深遠の闇と星々の光に包まれた。
仕事を終え、静まり返った観測室。
大きな展望窓の前に、セイカは一人で立っていた。
ガラスの向こうには、吸い込まれそうなほど澄み切った満天の星空が広がっている。
いつもなら、セイカの脳内は星々の視差や大気屈折率などの数値で埋め尽くされているはずだった。
けれど──今の彼女は、何も計算していなかった。
ただ、温かい紅茶の湯気を眺めながら、理由もなく、静かに夜空を見つめていた。
足音もなく、ドアが開く。
シロコが静かに歩み寄り、カメラを構えた。
暗闇の中、星々の淡い光と月光だけが、セイカの横顔を優しく照らし出している。
──カシャ。
シロコは静かにシャッターを切ると、液晶画面に浮かび上がった画像を表示させた。
そして、じっとその画面を見つめた後、ぽつりと呟いた。
「……これがいい」
セイカはゆっくりと振り返り、歩み寄ってきた愛娘を見つめた。
「どの写真ですか?」
「これ」
シロコが差し出した画面には、星空をバックに、ただ静かに佇むセイカの姿が映し出されていた。
「……私は、何もしていませんが」
「うん」
「観測も、演算も、艦の管理もしていません。ただ無目的に、外を眺めていただけの画像です」
「うん」
「……それなのに、これが一番良い写真なのですか?」
セイカには理解できなかった。
何のデータ価値もなく、被写体としての役割も果たしていない、ただの「空白の時間」を切り取った一枚。
「だって」
シロコはカメラを愛おしそうに胸に抱きしめ、夜空のように深く、優しい瞳でセイカを見上げた。
「……?」
「私のお父さんって、こういう人だから」
「っ……」
セイカの息が止まった。
完璧な管理者でもなく、冷徹な能力者でもない。
仲間を想い、家族を愛し、時に不器用で、けれど誰よりも優しくこの世界を見つめている──それが、シロコたちの見ている「室笠セイカ」という一人の人間だった。
静かな観測室の中に、星々の光だけが静かに降り注ぐ。
セイカは胸の奥が熱く焦げ付くような感覚を噛み締め、しばらくの間、言葉を失って立ち尽くしていた。
やがて、セイカはそっと瞳を伏せ、深く息を吐いた。
「……そうですか」
「うん」
「では、この写真は……大切にしてください」
「もちろん」
シロコが頷き、立ち去ろうとした、その時だった。
「……シロコ」
「ん?」
セイカは少しだけ躊躇うように指先を揺らした後、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……私にも、いただけますか?」
「え?」
シロコは驚いたように目を丸くした。
「その写真を。私にも、一枚データとして譲渡してください」
普段なら無駄なデータの蓄積を嫌うセイカが、自ら自分の写真を欲しがったのだ。
シロコは一瞬だけぽかんとした後、嬉しさに胸を咲かせるような、最高の笑顔を浮かべた。
「……うん。いいよ。お父さん」
__________
数日後の深夜。
業務を終えたセイカは、自室の個人端末を操作していた。
画面に表示されているのは、幾重にもフォルダ分けされた観測データでも、研究資料でもない。
たった一枚の画像ファイル。
星空を背景に、何も計算せず、ただ静かに佇む自分自身の姿。
シロコが切り取った、家族から見た「お父さん」の写真だった。
セイカはその写真をじっと見つめ、画面の端に浮かぶ「削除/保存」の選択項目に指を滑らせた。
「……この画像データに、艦の運用上の価値はありません。観測の助けにもならず、将来の予測に寄与する確率もゼロです」
合理的な思考が、いつも通り頭の中で囁く。
理由のないデータは、ストレージを圧迫する無駄なゴミに過ぎないと。
「……記録する理由は、どこにもありません」
セイカは呟き、けれど──その指先は「保存」のボタンの上に重なったまま、離れなかった。
「……ですが」
セイカは静かに目を細め、自分の胸にそっと手を当てた。
「これは……残しておきたいです」
理由や合理性など、どうでもよかった。
これは、娘が自分に向けてくれた愛情の証明であり、自分が「家族の父親」としてそこに存在しているという、かけがえのない記憶(宝物)なのだから。
「ふふっ。それなら、もう十分な理由ですね」
不意に背後から声がし、振り返ると、夜食の温かいミルクを持ったアカネがドアの脇に立っていた。
「アカネ……起きていたのですか」
「ええ。セイカさんがまだ起きていらっしゃるようでしたので。……素敵な写真ですね」
アカネは端末の画面を覗き込み、愛おしそうに目を細めた。
「私たちが大好きな、セイカさんの姿です」
「……私には、ただ無防備に立っているだけにしか見えませんが」
「それが良いのですよ。……残しておきたいと思えるものに出会えたこと、とても素晴らしいことです」
アカネの優しく温かい言葉に、セイカはもう理屈で反論するのをやめた。
画面の「保存」ボタンを、迷いなくタップする。
──保存が完了しました。
「……はい」
セイカの唇に、小さく、けれどこれまでで最も穏やかな笑みが浮かんだ。
世界を「観測」し、数値として記録することしか知らなかった少女は、今──大切な家族から愛されることで、自分自身を「思い出」として残す喜びを知ったのだった。