宇宙戦艦『ソラノミ』──その外郭部に位置する展望テラス。
装甲ガラスの向こうには静寂なる漆黒の宇宙と、無限に煌めく星々の海が広がっている。艦内の喧騒から離れたこの場所には、微かな生命維持装置の稼働音と、静かな風の循環音だけが漂っていた。
その日、テラスのテーブル席には珍しい組み合わせの二人が向かい合って座っていた。
セイカとヒナである。
セイカは手元の小型端末に流れる観測データを淡々と精査しており、ヒナは椅子に深く身体を預け、肘をついてどこか退屈そうに漆黒の宙域を眺めていた。
ふと、ヒナが端末から目を離さずにいるセイカへ視線を送った。
「……セイカ」
「はい、何でしょうか、ヒナ」
セイカは視線を端末から外さず、一定のトーンで即答する。
「……セイカって、アカネのことになると少し変わるわよね」
何気ない、思いつきのような言葉だった。
だが、セイカの規則的な指の動きがほんのコンマ数秒だけ停止する。セイカはゆっくりと画面を閉じ、ヒナの方へと向き直った。その表情にはいつもの冷静沈着な色が浮かんでいる。
「……そうでしょうか。私としては、普段通り行動し、普段通りの判断を下している認識ですが」
「うーん、本人はそう思ってるわけね」
ヒナは小さく溜め息を吐き出すと、テーブルに肘をついて顎を乗せた。
「じゃあ、聞かせて。セイカから見たアカネって、どんな人なの?」
ヒナの素朴な疑問。
セイカは視線をテラス越しの星空へと向け、思考回路を高速で回転させ始めた。脳内のデータベースから「アカネ」に関する情報を抽出し、客観的かつ正確に整理するプロセス。
「……承知しました。アカネという人物の特性について、私の観測データおよび日常の行動記録に基づき、客観的な分析を提示します」
「あ、うん。分析から入るのね……」
少し呆れたようなヒナの反応を気に留めることもなく、セイカは真面目な口調で語り始めた。
「第一に、周囲の状況把握および危険察知能力が極めて優秀です。集団行動において、誰がどのような不快感や不安を抱えているかを察知する速度は、艦内センサーの検知速度に匹敵します」
「まあ、気配りはできる子よね」
「第二に、戦闘時における判断の冷静さと正確性。前線でのサポート機能はもちろんのこと、後方支援や艦内での生活管理、家事全般に至るまで、その実行能力は極めて高水準で安定しています。第三に、人を安心させる接し方。彼女の存在自体が、周囲の精神状態を安定させる環境変数として機能しています」
セイカは淡々と、しかし淀みなくアカネの優れた点を列挙していく。
「そして第四に、他者優先の思考傾向です。彼女は時に自らの負荷を度外視してでも、周囲の安全や快適性を優先するきらいがあります。……だからこそ、私が無理をしている際には、誰よりも早くそれに気づき、介入を行ってきます」
具体的な事例と観察結果が、次から次へとセイカの口から飛び出してくる。
一つひとつが細かく、超精密だった。
「……ずいぶん細かく見てるのね」
ヒナは思わず苦笑いを浮かべた。
「そこまで把握してるなんて、観測者というよりストーカーに近いんじゃない?」
普通の人間なら少し照れるか反論する場面だが、セイカの表情は一切崩れなかった。
「当然です。アカネは、私にとって最も大切な人ですから」
迷いも躊躇もない、まっすぐで当然と言わんばかりの即答。
ヒナは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「まあ、そうでしょうね」と納得したように鼻を鳴らした。
__________
「でも」と、ヒナは視線を外の星々へと戻しながら言葉を継いだ。
「それって、全部データにできるじゃない。能力が高いとか、気遣いができるとか、家事が得意とか。セイカの得意な『分析』で全部説明がついちゃう話でしょ?」
セイカは静かに頷いた。
「……そうですね。今挙げた要素は、客観的行動ログとして記録・数値化が可能な項目です」
「でしょ? だったら、別にセイカじゃなくても、誰でも知ってるアカネの凄さってことじゃない」
「いいえ。──ですが、それだけではありません」
セイカの言葉のトーンが、わずかに変わった。
機械的な報告の響きから、少しだけ低く、深い感情の混ざった響きへ。ヒナは興味を惹かれたように、再びセイカへと視線を巡らせた。
「それだけではない、とは?」
「私には……どれほど計算を重ねても、再現できないアカネの特性があります」
セイカはテーブルの上で自分の指を静かに組んだ。
「私は、誰かが困っていたり、問題を抱えている状況に直面した際、思考が自動的に一定のアルゴリズムに従います。『原因を検索する』『状況を分析する』『最短かつ最適な解決策を提示する』。これが私の思考プロセスです。それが相手を救う唯一の方法だと信じていましたから」
「まあ、セイカらしいわね。合理的で無駄がない」
「ええ。ですが……アカネは違います」
セイカの脳裏に、過度な未来視によって疲弊し、ソラノミの自室で動けなくなっていた日の光景が浮かぶ。
「私が過度な処理負荷や疲労によって消耗し、強がって『大丈夫です』と答えた時……私は自分自身に『問題はない』という解決策を言い聞かせていました。ですが、アカネは私の言葉の矛盾を見抜きながらも、無理に問い詰めたり、問題を解決しようとはしませんでした」
「問いたださないの?」
「はい。彼女はただ、黙って私の隣に寄り添い、湯気の立つ温かいお茶を淹れて……何も言わずに待っていてくれるのです」
セイカは深く息を吸い込んだ。
「『休みなさい』と命じるのでもなく、『何があったのか』と詰問するのでもない。ただそこに存在し、私が自分自身の意思で『少し休もう』と思えるようになるまで、静かに寄り添い続けてくれる。……私には、それができません」
自らの限界や不完全さを認める言葉。しかし、そこには挫折感ではなく、誇らしげな響きが含まれていた。
「私にとって問題とは『解決すべき対象』です。ですが、アカネにとっての私は『ただそこにいる大切な存在』なのです。解決する必要がない時には、彼女はただ、隣にいてくれる。……未来を観測し、計算しようとする私に、今この瞬間に留まる意味を教えてくれるのは、いつもアカネなのです」
ヒナは黙ってセイカの話を聞いていた。
普段は無機質な数式やデータしか口にしないセイカが、これほどまでに人間的な、情緒に満ちた言葉を紡いでいるという事実。
「……セイカ、あなた本当に変わったわね」
「変わった、でしょうか」
「ええ。前のアナタなら、そんな抽象的なこと『無意味な時間』って切り捨ててたんじゃない?」
「否定できません」
セイカは微かに目を細めた。
「アカネと暮らすようになる前……つまりケイを娘として迎える前の私は、あらゆる行動に『意味』と『目的』を求めていました。休むことはエネルギーの再充填という名の効率化であり、移動には明確な目的が必要であり、写真には記録価値が必要であり……何もしない時間は、単なる無駄であり損失でした」
「完璧主義者ねぇ」
「はい。ですが……アカネは私に教えてくれました。『一緒にいること自体に意味がある』のだと」
先日、二人で目的を決めずに艦内を散歩したこと。
理由もなく眺めた美しい星々の光のこと。
何の観測データにもならない写真を、「自分が残したいから」という理由だけで保存したこと。
「アカネといるようになってから、私は……『何もない時間』を、大切だと思えるようになりました。何の成果も産出せず、何の計算も行わない時間。ただ隣でアカネが笑っていて、それを私が眺めている時間。……それこそが、私の求めていた『幸せ』の具体的な形なのだと、今なら分かります」
淡々と、しかし確かな温もりを宿して語るセイカ。
ヒナは呆れたような、けれどどこか微笑ましそうな表情を浮かべると、小さく肩を揺らした。
「……ねえ、セイカ」
「何でしょうか、ヒナ」
「……それ、かなり惚気じゃない?」
ヒナの突っ込みに、セイカはぴくりと眉を動かした。
脳内の辞書で「惚気」という単語の意味を検索する。自慢話、パートナーへの愛着を他者に誇示する行為。
「……そうでしょうか? 私はただ、ヒナの『アカネとはどんな人か』という質問に対して、正確な事実を述べているだけですが」
「それが惚気だって言ってるのよ」
ヒナはクスクスと笑いながら、「まあいいわ」と手を振った。
会話はそこで途切れるかと思われた。
しかし、セイカは真顔のまま、静かに口を開いた。
「……では、もう少しだけ話してもいいですか?」
「……は?」
ヒナは思わず素の声を漏らし、驚いたように目を見開いた。
「まだあるの!?」
「はい。アカネの魅力や、彼女が私に与えてくれた影響についてであれば、まだデータの数パーセントしか提示できていません。時間に余裕があるのであれば、継続して説明が可能です」
「いいえ、結構よ! お腹いっぱい!」
ヒナは呆れ果てたように天を仰ぎ、大きく溜め息をついた。
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「まったく……そこまでアカネのことを見ているのにね」
ヒナは呆れを含んだ声を漏らしつつも、ふと表情を少しだけ真剣なものに変えた。セイカの真っ直ぐな瞳を覗き込むようにして、問いかける。
「……ねえ、セイカ」
「はい」
「そこまでアカネのことを見つめて、理解しようとしてるのに……自分がアカネにとってどんな存在なのかは、考えたことある?」
「──」
その瞬間、セイカの思考が完全に停止した。
未来観測の演算回路。
状況分析のアルゴリズム。
膨大なデータベース。
あらゆる処理能力をフル稼働させても、ヒナの提示した問いに対する「解」が弾き出されない。
「(私が……アカネにとって、どのような存在か……?)」
セイカにとって、アカネは「一緒に未来を選びたい人」であり、「最も大切な人」だ。それは明確な事実として定義されている。
だが、その逆──「自分がアカネに与えているもの」「アカネにとっての自分」という変数について、セイカは深く考察したことがなかった。
自分は孤独な観測者であり、計算ばかりして、感情の疎い人間だ。
アカネに救われてばかりで、自分はアカネに何を返せているのだろうか。
「……分かりません」
セイカは珍しく、自信のなさそうな声で呟いた。
「私には……自分がアカネにとって十分な存在であるという計算結果を導き出すことができません。私は彼女に多くを与えられていますが、私が彼女に何を与えられているのかは……」
未来視の絶大な力を持ったセイカが、自分の目の前にある「アカネの心」については、驚くほど無自覚で、不器用だった。
ヒナはその様子を見て、くすりと小さく笑った。
「(やっぱりね。アカネの方は、セイカがどれだけ自分にとってかけがえのない存在か、痛いほど分かってるのに……当人はこれだもの)」
前日、先生に対して「セイカさんがどれほど愛おしく、自分にとって特別か」を熱っぽく語っていたアカネの姿を、ヒナは見ていた。
アカネはセイカの魅力を完璧に理解している。
しかし、セイカはアカネの魅力を言葉や数値で説明しようと奮闘しながらも、自分がアカネからどれほど深く愛されているかには、まるで気づいていない。
「ほんと、対照的というか……お似合いね、二人とも」
「……どういう意味でしょうか、ヒナ?」
セイカが首を傾げた、その時だった。
__________
「ふふっ。セイカさん、ヒナさん。お話は終わりましたか?」
テラスの重厚なハッチが滑らかに開き、静かな声が響いた。
振り返ると、そこには温かいお茶の入ったトレイを持ったアカネが立っていた。ソラノミの長い通路を渡ってきた彼女は、二人に向かって嬉しそうに微笑んでいる。
「アカネ」
セイカの表情が、一瞬でパッと明るくなる。先ほどまでの難しい思考など綺麗さっぱり吹き飛んだかのような、素直な反応。
ヒナはそれを見て意地悪く口元を歪めると、椅子から立ち上がりながらアカネに声をかけた。
「もちろん、ちょうど終わったところよ。……アカネ、あなたの旦那さん、かなりあなたのこと好きみたいね」
ヒナの少しからかうような言葉。
普通なら照れて誤魔化したり、言葉に詰まったりするような場面。
しかし、セイカは違った。
「はい。好きですよ」
微塵の躊躇もなく、当たり前の事実を告げるように、セイカは即答した。
何の飾らせも、照れ隠しもない、澄み切った一言。
「……っ!?」
今度はヒナの方が言葉を失った。からかおうとした方が拍子抜けするほどの、圧倒的なストレートさ。
「……ちょっと、少しは照れなさいよ。本当に呆れた……」
ヒナは額を押さえて溜め息をつく。
一方、振られた側のアカネはというと──頬を真っ赤に染め、トレイを抱え込むようにして胸の前で手をギュッと握りしめていた。
どれほど長く一緒にいても、セイカからの不意打ちのようなストレートな愛情表現には、どうしても慣れることができないらしい。
「〜〜〜っ! も、もう……セイカさんは、いつも急にそういうことを仰るのですから……」
恥ずかしそうに視線を泳がせるアカネ。
しかし、彼女は逃げ出したりはしなかった。深呼吸を一つすると、熱を持った瞳でまっ振りにセイカを見つめ返し、愛おしさに満ちた笑みを深めた。
「……ふふっ。でも……私も、セイカさんのことが大好きですよ」
照れながらも、しっかりと返された言葉。
それを聞いたセイカは、どこか満足そうに小さく胸を張り、深く頷いた。
「……それなら、問題ありません」
「問題ありません」。
それが、セイカが出した最終的な答えだった。
自分がアカネにとってどんな存在なのか、どんな影響を与えているのか、数式やデータでは証明できない。
けれど、自分がアカネを好きで、アカネも自分を好きでいてくれる。
その事実さえ確認できれば、これ以上の計算も分析も必要ないのだと。
その様子を横目で見ていたヒナは、心底呆れたように、けれどどこか嬉しそうに肩をすくめた。
「……はいはい。最後までセイカらしいわね」
ヒナは二人を残して、テラスのハッチの向こうへと去っていく。
残されたセイカとアカネは、宇宙戦艦ソラノミの展望テラスの手すりへと歩み寄った。
装甲ガラスの向こう側には、静寂に包まれた広大な宇宙と、星々の光が輝いている。
セイカの手の上に、アカネの手がそっと重ねられた。
「何か、ヒナさんと難しいお話をされていたのですか?」
「いいえ。私が知っているアカネについて、少し話していただけです」
「私のこと、ですか?」
「はい。……ですが、まだまだ話し足りませんでした。次はアカネ本人に、聞いていただいてもよろしいですか?」
「ふふっ、もちろんです。いくらでもお伺いしますね、セイカさん」
星の海を見渡す宇宙戦艦ソラノミのテラスで、二人は静かに笑い合った。
そこにはもう、未来を測る計算式も、複雑なデータも存在しない。
ただ、互いを深く想い合う、穏やかで幸せな時間だけが流れていた。