「アリスちゃんの意識、完全に沈没しています。……自分がモモイを傷つけたショックで、精神の深層、ケイの演算領域のさらに奥底に引きこもってしまったようです」
ヒマリが、車椅子に設置された特殊なコンソールを叩きながら、いつになく険しい表情で告げました。モニターに映し出されるアリスの脳波図は、激しく波打った後、底知れない闇のような静寂へと沈んでいきます。
「先生、ゲーム開発部のみなさん。アリスちゃんの精神世界へダイブしてください。……彼女をあの暗闇から連れ戻せるのは、共にゲームを楽しみ、笑い合ってきた、あなたたちだけです」
ヒマリが用意した電脳接続デバイスの起動音が、静まり返った室内で鋭く響きました。
先生、モモイ、ミドリ、ユズの四人の意識が瞬時に加速し、アリスの精神の深淵へと潜り込んでいきます。
__________
降り立った先は、色も音もない、ただ冷たい風が吹き抜ける漆黒の回廊。そこはアリスが抱えた「罪悪感」という名の猛毒が作り出した、脱出不能の迷宮。彼女自身が自分を罰するために築き上げた、心の監獄でした。
「アリス! アリスー! どこにいるの!?」
モモイの必死の呼びかけさえも、音を吸収するような壁に遮られ、虚無へと吸い込まれていきます。
すると、闇の向こうから、ひび割れたモニターのような不快なノイズと共に、アリスの震える声が響きました。
「……来ないでください。私は、モモイを傷つけた『魔王』なんです。……勇者のパーティに、私はもう、ふさわしくありません」
声は低く、そしてどこまでも冷たく響きます。しかし、モモイは迷わずその闇に向かって駆け出しました。
「何言ってるのアリス! 私ならピンピンしてるよ! ほら、この通り!」
精神世界において、モモイは傷ついた肩をぶんぶんと振り回してみせました。現実の肉体が悲鳴を上げていても、魂まで屈するつもりはない――その無鉄砲なまでの「元気」が、闇にわずかな亀裂を生みます。
「アリスちゃん、ゲームに『バグ』はつきものだよ。それを修正して、一緒に次のステージに行くのが、私たちのスタイルでしょ?」
ミドリが強く、真っ直ぐに闇を見据えました。その瞳には、絶望を跳ね除ける確かな希望が宿っています。ユズも、溢れる涙を拭いながら声を絞り出しました。
「アリスちゃん……あなたがいないゲーム開発部は、セーブデータの消えたタイトル画面と同じです。……寂しくて、クリアなんてできません……!」
少女たちの必死の訴え。その言葉のひとつひとつが、凍てついた廊下を溶かす光の矢となって突き刺さります。仲間の声に導かれるように、先生がアリスの心の核へと、静かに歩み寄りました。
そこには、漆黒の幾何学的なコードに幾重にも縛られ、膝を抱えて震えるアリスがいました。そしてその背後には、守護者のようであり、同時に執行官のようでもある、無機質な光を放つケイが静然と立っていました。
「……理解不能。なぜ、損傷を与えたれた個体が、あえてリスクを冒してまでこの領域へ干渉するのですか。……私の計算によれば、それは生存戦略において、全くの無意味です」
ケイの問いは、純粋な好奇心と、かすかな戸惑いを含んでいました。先生はアリスの震える肩を見つめ、静かに、けれど確かな意志を込めて答えました。
"それが、彼女たちの……そして私の『日常』だからだよ。理屈じゃないんだ"
理屈でも論理でも説明できない、不器用で温かな「絆」という名のバグ。それが今、神の計算式を真っ向から否定していました。
「アリス! 最後のクエストだよ! 私たちのところに、帰ってきて!」
モモイが、ミドリとユズと共に、アリスの手を掴もうと闇の奔流の中へ飛び込みました。アリスを縛り、彼女の心を窒息させていた罪悪感の鎖が、仲間たちの放つ「熱」によって熱せられ、一本、また一本と、乾いた音を立てて砕け散っていきます。
「……みんな……っ」
アリスがゆっくりと顔を上げました。瞳に宿ったのは、漆黒のコードを焼き切るような、黄金の輝き。それと同時に、最深部で静観していたケイのシステムにも、異変が起きていました。
かつて、現実世界でアカネに触れられたときに刻まれた、あの「七日間の温もり」。
消去したはずの、アップルパイの匂いや紅茶の温度。その記憶が、閉鎖されたメモリから逆流し、ケイの全回路を埋め尽くしていきます。冷徹な「王の侍女」としてのロジックが、ゲーム開発部の「理不尽なまでの絆」と、アカネが遺した「愛の温度」によって書き換えられていきます。
「……全演算終了。……私の負け、のようですね。……王女……いえアリス、貴女の『パーティ』が、到着しましたよ」
ケイの唇が、微かに、本当に微かに弧を描きました。
その微笑みと共に、精神世界を支配していた闇が、ダムが決壊するように眩い白光へと反転しました。
「……みんな……! 先生……!!」
泣きじゃくりながら、アリスが仲間の胸へと飛び込みました。
鋼鉄の檻を穿ったのは、最強の武力でも、完璧な数式でもありませんでした。
共にコントローラーを握り、お菓子を食べ、笑い転げた日々の積み重ね。
あまりにも「日常的」で「非効率」な、愛の温度だったのです。
現実世界。
アラートを鳴らし続けていたモニターが、一転して安定したリズムを刻み始めます。
ベッドに横たわるアリスが、まつ毛を震わせてゆっくりと目を開けました。そこには、長い夢から覚めたばかりの、けれど何物にも負けない「勇者」の笑顔が、確かに戻っていました。
__________
「ヒマリ先輩。……私にも、その接続デバイスを貸していただけますか?」
私の穏やかな、けれど一切の迷いがない声音に、ヒマリ先輩は操作していたコンソールから顔を上げました。
「アカネさん。……アリスちゃんの意識は、もう安定していますよ。……まさか、あなた」
「ええ。……アリスちゃんの深層意識の、さらにその奥底。……今は静止しているケイちゃんに、伝えなければならない言葉があります。……あの日、ソラノミでお別れした、その続きを」
ヒマリ先輩は私の瞳の奥にある意志を読み取ったのでしょう、小さく溜息をつきました。
「……了解しました。……ただし、時間は長くありません。ケイのシステムは、アリスちゃんの意識の安定と共に、完全に消去される手はずです。……『最後のおかわり』、急いでくださいね」
私はデバイスを受け取り、静かに目を閉じました。意識が現実から切り離され、深淵へと加速していきます。
__________
たどり着いた先は、先ほどまでの漆黒の迷宮ではありませんでした。そこは、どこまでも透き通った蒼い空間。
役目を終えたシステムが眠りにつく直前の、束の間の静寂です。
その中心で、一人静かに佇む少女の背中を見つけ、私はゆっくりと歩み寄りました。
「……アカネ。アリスは無事に送り届けました。私の演算は、ここで終了します。……これ以上の存在維持は、論理的に見て不要です。……速やかな退出を、推奨します」
彼女は振り返ることなく、淡々と告げました。その輪郭は少しずつ淡く透け始め、消去プロトコルが着実に進行していることを物語っていました。
「ふふ……。勝手に終わらせてしまっては困ります。まだ、お茶のおかわりを差し上げていませんから」
私の声に、彼女の肩がピクリと跳ねました。ゆっくりと振り返った彼女の瞳には、冷徹な理知ではなく、消えゆく間際の、名残惜しそうな光が揺れていました。
「……もう、必要ありません。私は、消去されるべきエラーなのですから。……世界を滅ぼすための、兵器なのですから」
「いいえ。あなたは、私たちの『家族』です。それは、何万回計算し直しても変わらない真実ですよ」
私がその透け始めた手を包み込もうとした、その時でした。
突如として、蒼い空間に黄金色のノイズが走りました。それはエリドゥのシステムでも、アリスちゃんの意識でもない――遥か上空、宇宙戦艦ソラノミからの「強制介入」。
そのノイズを切り裂き、一人の女性のシルエットが、圧倒的な存在感を持って現れました。
『……全く。……しんみりしたお別れなんて、私の計算にはありませんよ。……アカネ。君も少し、甘やかしすぎです』
空間に響き渡ったのは、低く、落ち着いた、けれど温かな響きを持つあの人の声。
「……セイカさん?」
私が驚きに目を見開く中、セイカさんは淡々と、けれどその瞳に不敵な決意を宿して、ケイさんの前へと歩み寄りました。
『……ケイ。言ったはずですよ。「一週間の奇跡」を甘く見ないでほしい、と。……君が私の膝で眠ったあの第七日の記録は、ソラノミの全セクタに多重バックアップ済みです。……確定事項です』
「セイカ……。どうして。……私は、貴女たちを裏切り、逃げ出したエラーのはずなのに。……なぜ、消去を拒むのですか」
戸惑うケイさんに、セイカさんはコンソールを操作しながら、落ち着いたトーンで告げました。
『……裏切り? ……いいえ。それは単なる「家出」です。……最適解を教えましょう。……ケイ。君はアリスの中に残るのではなく、この『ルミナス・コアの試作品』に、その魂を移します』
セイカさんが精神世界に具現化させたのは、淡く虹色に発光する小さな立方体。
「……これは……?」
『……次世代型永久機関、ルミナス・コアのプロトタイプです。……これなら、君の膨大な演算能力を維持したまま、バックアップを保存できる。……残念ながら、今はまだ君にふさわしい「身体」を用意できていませんが……』
セイカさんは一度言葉を切り、ケイさんの瞳を真っ直ぐに見つめました。
『……それでも、消えてしまうよりはマシでしょう? ……君が消えるというなら、この戦艦のデータごと、私が全て道連れにします。……そんな非効率な結末、私は認めません』
「……非効率、ですか。」
ケイさんは少しだけ、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟きました。ですが、すぐにその瞳に深い迷いの色が差し、私たちを交互に見つめました。
「……理解不能です。私は世界を滅ぼす王女の侍女であり、一時は貴女たちの命さえも脅かした存在。……合理的に考えれば、ここで私を完全に消去し、懸念事項を排除することが最適解のはずです。
なぜ、これほどまでのリスクとリソースを割いてまで、私を……エラーを助けるのですか」
その問いに、セイカさんは淡々と、けれど揺るぎない口調で答えました。
『……最適解、ですか。……ケイ。君は私の観測史上、最も興味深い「不確定要素」です。……そして、一度家族として定義した存在を失うことは、私の人生において最も大きな損失になる。……だから、君を救う。……それ以上の理由は、不要でしょう?』
セイカさんらしい、理屈っぽくて、でも最高に優しい答え。私は彼女の隣に並び、ケイさんの手をもう一度、ぎゅっと握りしめました。
「ふふ、セイカさんはああ言っていますが……私はもっと単純ですよ、ケイさん。……私は、あなたと一緒に飲みたいお茶が、まだ山ほどあるんです。
……あなたがいないキッチンなんて、あまりにも静かすぎて、私のメイドとしてのプライドが許しませんから」
「……お茶、ですか。……そんな、日常の瑣末な理由で……」
「ええ。その『瑣末な日常』こそが、私たちがあなたに贈りたい、一番の宝物なんです」
私の言葉に、ケイさんの瞳が大きく揺れました。その奥底で、冷徹なプログラムが「家族の愛」という未知の概念を、必死に、そして温かく処理していくのが分かりました。
私はもう一度、彼女の手をぎゅっと握りしめました。
その時、私の手の中に、一つの小さな「未来」を忍ばせました。それは、ヒマリさんに頼んで急遽データ化してもらった、一枚のカード。
「……アカネ……? これは……」
ケイさんが目を見開きました。その手に握らせたのは、ミレニアムサイエンススクールの校章が刻まれた、真新しい「室笠ケイ」の学生証。
「……セイカさんと二人で、内緒で準備していたんです。ヒマリさんにも協力してもらって、ミレニアムの籍を正式に確保しました。
写真は、あなたの新しい身体が完成してから、一番可愛い顔で撮りましょうね。アリスちゃんたちと同じ、ミレニアムの一員として」
私の言葉に、隣に立つセイカさんもどこか誇らしげに、けれど少しだけ照れくさそうに頷きました。
『……ええ。……これを用意するのに、アカネと何度も会議を重ねましたよ。……君を「室笠ケイ」という一人の生徒として、そして私たちの家族として、世界に再定義するための……これが私たちの、共通の最適解です』
セイカさんと私が、彼女を想って、彼女が戻ってくることを信じて作った証明書。
ケイさんはその学生証を震える手で胸に抱きしめ、初めて、プログラムの合成音声ではない、一人の少女としての柔らかな微笑みを浮かべました。
「……学生……証。……私を、ミレニアムの生徒として、認めてくれるのですか。……兵器ではなく、ただの『ケイ』として……」
「ええ。あなたはもう、王女の侍女でも、名もなき道具でもありません。……私たちの大切な娘。……そして、これから仲間たちとたくさんの物語を紡いでいく、一人の女の子です」
私の言葉が、ケイさんの心を完全に溶かしました。
「……演算……不能。……ですが、このエラーなら……一生消去できなくても、問題ありません。……了解しました。……お母さん。……セイカ。」
ケイさんのデータが、光の粒子となってルミナス・コアへと吸い込まれていきます。その瞬間、精神世界を支配していた虚無は消え去り、柔らかな光が全てを包み込みました。
__________
現実世界で私が目を開けると、デバイスの向こう側、ソラノミからセイカさんの通信が入りました。
『……アカネ。……無事に、コアへの転送が完了しました。……ケイは今、私の隣で眠っています』
「……よかったです。……ふふ、セイカさん、お疲れ様でした。……私たちの、新しい家族の誕生ですね」
ヒマリさんと先生にそれを伝えます。
「ただいま、戻りました。……ケイさんも、一緒です」
__________
数日後。宇宙戦艦ソラノミの艦橋には、いつもの穏やかな時間が流れていました。
私がエプロン姿で立ち働く傍らで、ルミナス・コアがふわりと浮遊しています。
「……ケイ。……そこ、モニターに少し埃が被っていますよ」
セイカさんがいたずらっぽく声をかけると、彼女のデスクの傍らで浮遊するルミナス・コアが、困惑したように小さく明滅しました。
『……セイカ、お父さん。……先ほども申し上げたとおり、現在の私はコア単体。物理的干渉は不可能です。……清掃をお願いするのは、論理的ではありません』
「……お父、さん……?」
突然の呼び方に、セイカさんは持っていたティーカップをカタカタと震わせました。スピーカーから響くその声は、どこまでも真剣で、淀みがありません。
「ふふっ……。……ケイ。……今、何と言いましたか?」
私が横から尋ねると、ケイは淡々と、けれど確かな意志を持って言葉を重ねました。
『……? 訂正の必要はありますか。……アカネがお母さんであり、その最愛のパートナーであるセイカをお父さんと定義するのが、家族構成における最適解だと判断しましたが』
「……さ、最愛の……っ」
今度は私が、持っていたトレイを危うく落としそうになりました。ケイの口から淡々と告げられたその言葉の破壊力に、心拍数が一気に跳ね上がります。
「……ふふ、ふふふ……! ええ、そうですね。……間違いではありませんよ、ケイ」
私は顔が熱くなるのを抑えられず、エプロンの端をぎゅっと握りしめました。
胸の奥に広がるこの温かさは、どんな言葉でも演算しきれないほどに心地よいものでした。
「……否定は、しません。……ですが、ケイ。……それを私の前で言うのは、少し……心臓に毒ですね。……演算エラーが起きそうです」
『……お父さん。顔が赤いですよ。……健康状態に問題がありますか?』
「……問題、ありません。……ただの、幸福による
セイカさんはそう言って、愛おしそうに、そして少し照れくさそうにコアの表面をそっと撫でました。
「……ただいま、ケイ。……ようこそ、私たちの家に」
『……ただいま戻りました、お父さん。……お母さん。……身体の完成、期待しています。……それまでは、この温かな日常を、特等席で観測させていただきますね』
窓の外には、どこまでも続く星の海。今はまだ小さな光の箱の中にいる彼女。けれど、鋼鉄の檻を穿った絆は、彼女に「家族」という新しい名前を与えました。
ソラノミという温かな家の中で、私たちは新しい家族の、賑やかで幸せな物語を紡ぎ始めました。
ケイが家族になったのでタグに追加します。
パヴァーヌ編はこれで終わり
次からは幕間が数個続きます