宇宙戦艦『ソラノミ』──その艦内居住区に位置する、室笠家の主寝室。
ふ、と室笠セイカの意識が覚醒へと向かった。
体内時計の極めて正確なアラームに従い、彼女の脳内思考回路が高速で立ち上がる。セイカは瞼を開けると同時に、ベッド脇のサイドテーブルに浮かぶデジタルクロックへ視線を向けた。
そこに表示されていた数値を見た瞬間、セイカの思考が一コンマ数秒停止した。
「……07:23」
セイカは静かに上体を起こそうとした──が、腰のあたりに心地よい重みと、柔らかな肌の温もりを感じて動作を止めた。
隣を見ると、普段なら既に起きて朝食の準備に取りかかっているはずのアカネが、まだベッドの中で静かな寝息を立てていた。……いや、よく見れば、アカネはうっすらと瞳を開け、優しく微笑みながらセイカの姿を見つめていたのだった。
「……アカネ」
セイカはいつもの平静なトーンで、けれどどこか戸惑いを隠せない面持ちで告げた。
「起床予定時刻を、二十三分超過しています」
普段のセイカのモーニングルーティンであれば、07:00ジャストに起床し、体調チェック、艦内システムログの簡易確認、そして身だしなみを整えて07:15にはリビングへ向かうはずだった。二十三分という遅れは、彼女の緻密なスケジュール管理において異例の事態であった。
しかし、アカネは腕をセイカの腰に回したまま、愛おしそうに目を細めて囁いた。
「はい。今日は休日ですから」
「……休日、ですか。ですが休日であっても、生体リズムの維持および規則正しい行動指針の遵守は──」
セイカは理知的な反論を試みようと、ベッドから抜け出そうとした。
しかし──その瞬間、アカネの細い指先が、セイカの寝衣の袖口をキュッと優しく掴んだ。
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「……もう少しだけ、このままでいませんか?」
アカネの声はどこか甘やかに、けれど断ち切りがたい温もりを帯びてセイカの耳に届いた。
セイカは掴まれた袖口に視線を落とし、それからアカネの澄んだ瞳を見つめ返した。
「……ですが、本日の予定が詰まっています」
「予定、ですか?」
アカネがそっと手を伸ばし、セイカがサイドテーブルに置いていた小型端末の画面を点灯させた。
そこには、セイカ自身が昨夜のうちに構築した「本日の休日スケジュール」が、数分単位で緻密に組み上げられていた。
・07:00〜07:30 起床・朝食準備および摂取
・07:30〜08:30 宙域観測データの予備精査
・08:30〜10:00 ソラノミ第三区画の環境センサー定期点検
・10:00〜12:00 ケイおよびシロコとの家族対話時間(第一枠)
・12:00〜13:00 昼食・栄養バランスの再計算
・13:00〜15:00 学習データのアップデートおよび資料整理
・15:00〜17:00 家族対話時間(第二枠)および散歩
画面を見つめたアカネは、思わずふふっと可笑しそうに声を漏らした。
「……セイカさん。これは『休日』というより、普通のお仕事ではありませんか?」
「……いいえ。家族との対話時間や散歩など、非生産的な交流項目を多数組み込んでいます。合理的な休日の過ごし方ですが」
「ふふっ。分刻みで管理された非生産的な時間……というのは、少し矛盾している気がしますわ」
アカネの優しい指摘に、セイカは言葉を詰まらせた。
自分としては、完璧な休日を過ごすための最適化されたプログラムのつもりだったのだが、アカネから見ればそれすらも「仕事」の延長に見えているらしい。
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セイカはベッドの上で座り直すと、自らの脳内データベースを高速で検索し始めた。今すぐ起き上がるべき「客観的かつ合理的な理由」を提示するために。
「……第一に、朝食の摂取タイミングです。起床後直ちに栄養を補給しなければ、血糖値の維持および代謝効率に影響が出ます」
アカネはセイカの手に自分の手をそっと重ね、優しく首を振った。
「朝食なら、少し遅くなっても大丈夫です。昨日作っておいたスープがありますから、温めるだけで済みます」
「……第二に、宙域観測データの精査です。一晩のうちに蓄積された波動ログのチェックが遅れると、午後の分析タスクに負荷が偏重します」
「観測データの初期ログチェックでしたら、昨夜のうちにケイが『お父さんの負担を減らします』と言って、予備処理を終わらせてくださっています」
「……ケイが?」
セイカは少しだけ目を見開いた。
「ええ。それに第三の『艦内点検』も、急ぎの異常アラートが出ていない以上、明日へ延期しても何ら支障はありませんでしょう?」
「……」
セイカは提示しようとした第四、第五の理由を脳内で検索したが、そのどれもが「今すぐ布団を抜け出さなければならない致命的な理由」にはなり得ないことを悟った。
セイカはしばらく沈黙した後、静かに呼吸を整え、諦めたように呟いた。
「……では。今すぐ起きる客観的な必要性は……存在しない、ということですね」
アカネは最高に嬉しそうに微笑むと、ギュッとセイカの手を握りしめた。
「ふふっ。そういうことです、セイカさん」
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結局、二人はそのまま暖かいベッドの中に留まることとなった。
部屋の中には静かな時間が流れている。
アカネはセイカの肩に体を預け、細い指先でセイカの美しい銀髪をすくうように優しく整えたり、重ねた手のひらの感覚を確かめるように指を絡めたりしていた。
セイカは最初、この「起きているにもかかわらず、何の生産的タスクも行わない時間」に対して、自覚的な思考を巡らせていた。
「(……情報入力ゼロ。行動出力ゼロ。心拍数、脳波ともに完全な弛緩状態。……通常であれば、非効率の極みと分類される状態です)」
だが、アカネが隣で囁く声が、セイカの無機質な分析を少しずつ溶かしていく。
「……昨日、レナさんが作ってくださったアロナさんとプラナさんの新しいお洋服、本当によくお似合いでしたわね」
「……はい。観測室の視覚パラメータにおいても、非常に調和していました」
「ケイちゃんも、最近はシロコちゃんと一緒に勉強するのが楽しいみたいで……昨日も遅くまで楽しそうにお話ししていましたのよ」
「……良い傾向です。家族間における情報交換および感情の共有頻度は、理想的な数値を維持しています」
アカネが話すのは、昨日起きた小さな出来事や、子供たちの成長、あるいは「次の休みにはどこへ行こうか」といった、本当に他愛もないことばかりだった。
いつもなら「目的と結論」を求めてしまうセイカの思考。しかし、アカネの温もりを感じながら、ただ言葉を交わし、理由もなく手を握り合っているうちに、セイカの胸の奥に不思議な充足感が広がっていく。
何もしない時間。
未来を計算せず、観測も行わず、ただ「今、アカネが隣にいる」という事実だけに浸る時間。
セイカは静かに目を閉じ、アカネの手の温もりに意識を委ねた。
「……不思議ですね」
「何がですか、セイカさん?」
「……このような、何の意味も産出しない時間……目的のない会話と、肌の接触。……以前の私なら、無駄な損失であると切り捨てていたはずです」
「今のセイカさんは、どう思われますか?」
アカネがセイカの顔を覗き込む。
セイカは少しだけ言葉を選び、素直に答えた。
「……悪く、ありません」
アカネはくすりと笑い、少しだけ悪戯っぽく囁いた。
「『悪くない』……だけですか?」
セイカはぴくりと眉を動かし、思考の辞書を検索した。そして、自分の胸の奥から湧き上がる確かな感情の形を、そのまま言葉にした。
「……いいえ」
セイカはアカネの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……好き、です。アカネと、こうして何もしない時間を過ごすのが……好きです」
何の飾りもない、澄み切った一言。
アカネは一瞬だけ頬をぽっと赤く染めると、愛おしさに耐えかねたようにセイカの胸に顔を埋め、ふふっと嬉しそうに笑った。
「……私もです、セイカさん」
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それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
部屋の通信端末が、静かな提示音を鳴らした。
『──お父さん。お母さん。ケイです』
スピーカーから響いたのは、愛娘であるケイの真面目な声だった。
『現在の時刻は11:05です。予定されていた朝食および午前中のタスクの進行が見受けられませんが……身体の不調等はありませんか? そろそろお食事に……』
いつも通りの完璧な娘からの通信。
セイカはハッと我に返り、反射的にベッドから起き上がろうとした。
「はい。申し訳ありません、ケイ。直ちに起きて、リビングへ向かい──」
言いかけたセイカの言葉は、隣でくすくす笑っているアカネの視線によって遮られた。
アカネがセイカの袖を軽く引き、囁く。
「……本当に、すぐ向かいますか?」
「……あ」
セイカは端末の画面を見つめ、それから自分を掴むアカネの手を見つめた。
以前のセイカなら、「失敗した予定」を即座に取り戻すべく、すぐに着替えて部屋を出ていただろう。
だが──今のセイカの胸の中には、もっと強い、自らの意思が存在していた。
セイカは通信マイクへ向けて、微かに……けれどはっきりと、躊躇いがちな声を吹き込んだ。
「……ケイ」
『はい、お父さん』
「……あと、五分だけ……起きるのを遅らせることは、可能でしょうか」
通信の向こう側で、ケイが一瞬だけ沈黙した。
まさか、あの厳格で完璧な「お父さん」の口から、「あと五分だけ休みたい」という二度寝のねだりのような言葉が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
『……え? あ……はい、もちろんです。お父さんとお母さんがお疲れでしたら、何分でも調整します』
ケイの驚きと少しの嬉しさが混ざった返答を聞きながら、アカネは感極まったようにセイカに抱きついた。
「ふふっ……! セイカさんから『あと五分』なんて仰るなんて……本当に嬉しいです」
「……私としても、自己の意思に基づいた合理的な延長申請です」
セイカは少しだけ顔を熱くしながらも、アカネの身体を優しく抱き返した。
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しかし──「あと五分」という甘い時間は、一度解禁されてしまうと、コンマ数秒の計算すら曖昧にしてしまう魔法を持っていた。
静かな五分が、さらに五分、また五分と重なり……。
カチャリ、と主寝室のハッチが静かに開き、ひょっこりと顔を覗かせる者がいた。
「……お父さん。お母さん」
シロコだった。
シロコはベッドの上で、いまだに仲良く抱き合ったまま離れようとしない両親の姿を、じーっと無表情で見つめていた。
「……今日、起きる気ある?」
シロコの身も蓋もない問いかけ。
セイカはアカネを抱いた姿勢のまま、シロコの方へ視線だけを向け、大真面目な顔で即答した。
「……あります」
「いつ?」
シロコが首を傾げる。
セイカは一コンマ数秒だけ思考し、そして威風堂々と言い切った。
「……未定です」
ぷっ、とアカネが耐えきれずに吹き出した。
「未定です」。未来観測の絶対的な能力を持ち、あらゆる事象の確定数値を弾き出せる室笠セイカが、自分が「いつベッドから起きるか」という至近の未来について、「未定」と宣言したのだ。
シロコは呆れたように一瞬だけ目を丸くし、それから「ん」と小さく鼻を鳴らした。
「……まあ、お父さんとお母さんが仲良しなら……今日は、それでいいか。ご飯、保温しておくね」
シロコはパタンとハッチを閉じ、リビングへと戻っていった。
部屋に残された二人は、顔を見合わせてクスリと笑い合ったのだった。
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結局、二人が完全にベッドから起き上がったのは、正午を回った12:40のことだった。
リビングへ向かうと、ケイとシロコが温かい昼食兼朝食をテーブルに並べて待っていてくれた。
「お父さん、お母さん、お疲れ様です!」と元気に迎えてくれるケイと、「……ゆっくりできた?」と聞いてくるシロコ。家族の温かな空気が、部屋いっぱいに満ちていた。
昼食を終えた後、セイカは自らの小型端末を呼び出し、本日一度も実行されなかった「休日スケジュール」の画面を開いた。
画面上の全タスクに、赤い「未実行」のログがずらりと並んでいる。
かつてのセイカであれば、これは完全なる「計画の破綻」であり、自己の失態として深い反省と再計算を要求する事態であった。
だが──セイカはその画面を見つめながら、静かにアカネへと向き直った。
「……アカネ」
「はい、何でしょうか、セイカさん?」
「今日のスケジュールは、全工程の百パーセントが実行不能となり、失敗に終わりました」
「ふふ、そうですね」
「……ですが。不思議なことに、後悔や焦燥感といったネガティブな感情が、一切存在しません」
セイカは自らの胸にそっと手を当てた。
「むしろ……胸の奥が非常に温かく、満たされているのを感じます」
その言葉を聞いたアカネは、愛おしさに満ちた最高の笑顔を咲かせた。
「それなら……今日の休日は、大成功ですね、セイカさん」
「……大成功。はい、そのように再定義します」
__________
昼食の片付けが終わり、家族での穏やかな時間が一段落した頃。
セイカはリビングの窓辺に立つアカネの元へ歩み寄り、そっと声をかけた。
「……アカネ」
「はい?」
「……午後からの時間ですが」
セイカは端末をポケットへと仕舞い込み、アカネの目をまっすぐに見つめた。
「……午後も、特に予定を決めずに過ごしませんか?」
誰かに促されたからではない。
休まされたからでもない。
セイカ自身が、自らの意思で「アカネと何もしない時間を過ごしたい」と選択した言葉だった。
アカネは一瞬だけ嬉しそうに目を細め、優しく頷いた。
「ふふっ……もちろんです、セイカさん。喜んで」
二人は手を繋ぎ、ソラノミの最外郭に位置する展望デッキへと向かった。
装甲ガラス越しに広がるのは、無限に広がる漆黒の宇宙と、数多の星々の光。
セイカは《空見の波》を動動させることもなく、天体データの計算を行うこともなく、ただアカネの手の温もりを感じながら、隣で並んで星空を見つめていた。
何もしない時間。
未来を測る計算式も、管理されたスケジュールも存在しない時間。
けれど、そこには互いを深く愛おしむ、世界で一番温かで幸せな「今」が流れていた。
セイカは握りしめたアカネの手へ、ほんの少しだけ力を込めながら、心の中で静かに呟くのだった。
「(未来は……観測して導き出すだけのものではない。こうしてアカネと一緒に、理由もなく過ごす時間の中にこそ……私の求める本当の未来があるのだと)」
星々の海を揺蕩う宇宙戦艦ソラノミのデッキで、二人は静かに寄り添い合い、どこまでも穏やかな休日の光の中に溶けていくのであった。