宇宙戦艦『ソラノミ』──その主寝室。
宙域を漂う静寂の中、生命維持装置が刻む微かな循環音が響いている。
ふ、と室笠セイカの意識が覚醒へ向かった。
体内時計の正確なアラームに従い、脳内の思考回路を即座に起動しようとした──その瞬間、セイカは自らの内的な異変を察知した。
「(……思考同期プロトコルの開始に、零点三秒の遅延。認知プロセスの負荷が増大しています)」
瞼を開けようとしたが、頭部全体にズシリとした重みが圧しかかっている。
喉には焼けるような摩擦感があり、吸い込む空気が微かに痛い。何より、皮膚の表面を這う感覚が妙に熱く、体温調節機能が正常に作動していないことが明白だった。
「……軽微な生体機能の変動です。日常活動に致命的な支障はありません」
セイカはいつもの平静な口調で自らに言い聞かせ、ベッドから上体を起こそうとした。
だが、両足を床につけて腰を効かせた瞬間──視界がぐらりと不規則に揺れ、平衡感覚が消失した。
「あっ……」
重心が崩れ、床へ倒れ込みそうになったセイカの肩を、柔らかく、けれど確かな力で支える手があった。
「セイカさん……! 無理をして動いては駄目ですよ」
隣で目を覚ましていたアカネだった。
アカネは顔を寄せ、セイカの額に自らの手のひらをそっと重ねた。その瞬間、アカネの眉が懸念に曇る。
「とても熱いです……。セイカさん、風邪をひかれていますね」
「……いいえ」
セイカはふらつく身体をアカネの肩に預けたまま、真顔で反論した。
「起床時の局所的な体温上昇です。環境センサーの誤差、または睡眠中の代謝変動に起因するものと考えられます」
「ふふ、相変わらず言い訳が理知的ですね。では、きちんとお熱を測ってみましょうか」
アカネはサイドテーブルから電子体温計を取り出し、セイカの腋下へ差し入れた。
数秒後、電子音が電子音を鳴らす。表示された数値を、アカネがセイカに見せた。
「……38.4℃」
セイカは表示されたデジタル数値をじっと見つめ、一コンマ数秒の思考の後に呟いた。
「……測定器の校正不足による測定誤差の可能性があります」
「では、もう一度測ってみますね」
アカネは手際よく体温計をリセットし、再びセイカへ宛てた。
再び響く電子音。
「……38.5℃」
セイカは数値を確認し、静かに目を細めた。
「……微増。上昇傾向ですね」
「はい。ですから……今日はお休みです」
アカネの言葉には、いつもの優しさの中に、一切の譲歩を許さない毅然とした響きがあった。
セイカは必死に脳内タスクを検索し、抗議を試みる。
「ですが、午前中に第4観測宙域の波動データの最終確認が──」
「お休みです」
アカネはセイカの言葉を途中で優しく遮り、掛け布団を肩までしっかりと掛け直した。
かつてないほど一歩も引かない妻の態度に、セイカは言葉を失った。
__________
アカネが水分を取りに部屋を離れた隙を狙い、セイカはベッド脇の小型情報端末へと手を伸ばした。
「(完全に休止状態に入る前に、ケイへ観測データの引き継ぎログを送信しておかなければ……)」
指先が端末のタッチパネルに触れた瞬間、通信インカムから静かな合成音声が響いた。
『お父さん。端末の操作を中断してください』
ケイからの直接通信だった。
セイカは端末を保持したまま、真面目な声で返答した。
「……ケイ。私はまだ、自己の行動能力について客観的な判断が可能です」
『だからこそです。お父さんはご自身の体調が悪化していても、「活動可能である」と誤った判断をされるためです』
感情の起伏を感じさせない、けれど一切の付け入る隙を与えないケイの生真面目な指摘。
『本日の観測データ照合および環境ログの精査は、すべて私が代行します。お父さんは、端末を置いて横になってください』
「ですが、ケイの負荷が増大します──」
『問題ありません。お父さんの体調回復を最優先事項と定義しています』
ケイの通信が一方的に切断された。
セイカが思わず溜め息をついたその時、主寝室のハッチが静かに開き、小柄な人影が入ってきた。
シロコだった。
シロコはベッド脇まで歩み寄ると、じーっとセイカの顔を覗き込んだ。
「……お父さん。顔、赤い」
セイカは視線を泳がせながら、医学的知見を提示した。
「……これは発熱に伴う末梢血管の拡張反応であり──」
「うん。つまり、風邪」
シロコはぽつりと短く言い切ると、セイカの胸元まで掛け布団を引き上げ、両端をぎゅっと挟み込んで出られないように固定した。
「……今日は、絶対起きちゃ駄目。お母さんの言うこと聞いて」
「……シロコまで」
セイカは完全に包囲されていた。
娘たちの完璧な連携と、妻の絶対的な決定権の前に、彼女の持つあらゆる合理的反論は無力化されていたのだった。
__________
家族が去り、再び静まり返った室内。
一人ベッドに取り残されたセイカは、天井の点検ランプを見つめながら、熱に浮かされる思考を何とか整理しようと試みていた。
「(……私は、自らの生体パラメータすら完璧に管理できていなかったのか。……ソラノミの管理責任者として、これは重大な不覚です)」
自分自身への焦燥感。
そして、自分が休むことで家族やソラノミの運用に予期せぬ不具合が生じるのではないかという、拭いきれない懸念。
セイカは無意識のうちに、自らの生体深層に眠る絶対的な観測能力──空見の波を起動させようとしていた。未来の可能性の枝を観測し、今日のソラノミに何の問題も起きないことを自らの目で確認しようとしたのだ。
ゴガ……ン。
セイカの背後の空間に、無機質な高音とともに、方陣が回転を始める。
両瞳が、深い紫色の神秘的な光を放ち始める。
だが──。
「……っ……!?」
いつもなら視界いっぱいに、美しく規則正しい幾何学模様として広がる「可能性の未来の分岐」。
それが、今のセイカの視界の中では、目まぐるしく歪み、途切れ、ぐにゃぐにゃと不気味に捻れ曲がっていた。
発熱による思考分解能の低下。
脳のオーバーヒートによって、無限の未来を計算・処置する空見の波の演算処理が、著しいノイズとエラーを起こしていた。
輪が軋んだ音を立て、不規則に逆回転を始める。
支えを失った可能性の枝が、セイカの視界の中で崩れ落ちていく。
「……くっ……駄目、ですね……」
セイカは自ら能力の稼働を中断させた。
視界が強い眩暈とともに暗転する。自分の最大の武器であり、世界の真理を映し出すはずの瞳すら、風邪という極めて人間的な病の前には役に立たなかった。
そこへ、温かいタオルを持ったアカネが部屋へと戻ってきた。
アカネはセイカの荒い呼吸と、消えかけた紫の光の残滓を察し、悲しそうに、けれど深く慈しむように目を細めた。
アカネは冷たいタオルをセイカの汗ばんだ額へ優しく載せ、その頬を撫でた。
「セイカさん。……今日は、未来を見なくてもいいんですよ」
「……アカネ……」
「ソラノミも、観測も、私たちも……大丈夫です。セイカさんが未来を計算して守ってくださらなくても、今日は私たちが、セイカさんを守る番ですから」
未来を観測しなくてもいい。
その言葉が、熱で疲弊したセイカの胸の奥へ、じんわりと染み渡っていくのだった。
__________
それからの時間は、セイカにとって「非効率」の連続だった。
アカネが氷の浮いた水分とスポーツドリンクをコップで運んでくる。
セイカが「……自分で飲めます」と手を伸ばそうとすると、アカネは「駄目ですよ」と優しく制し、ストローをセイカの唇へとあてた。
しばらくすると、ケイがトレイを持って入ってきた。
トレイの上には、細かく刻まれた野菜と柔らかく煮込まれた、消化に良い温かい粥が載っていた。
「お父さん。栄養学に基づき、消化器官への負荷を最少に抑えた食事を作成しました。召し上がってください」
ケイは感嘆符を一切交えない生真面目な口調で報告し、スプーンでお粥を掬う。
「……自分で食べられます、ケイ」
「お父さんは現在、運動神経系への伝達効率が低下しています。こぼすリスクを回避するため、私が補助します」
ケイの理詰めな申し出に、セイカは反論の言葉を見つけられず、おとなしく口を開けてお粥を受け取った。
さらに、シロコが冷却シートの予備と、柔らかい毛布を何枚も抱えてやってくる。
「……お父さん。足元、冷えてない?」
「……適切な温度に保たれています」
「駄目。冷えは禁物」
シロコは毛布をセイカの足元に丁寧に掛け、その上からポンポンと優しく叩いた。
ベッドの中で、家族全員から至れり尽くせりの看病を受けるセイカ。
以前の彼女であれば、「自分がやった方が作業効率が高い」「家族の時間を浪費させている」と罪悪感を抱いただろう。
だが──熱でぼんやりとする意識の中で、家族が自分のために動き、自分を心配してくれているその手触りが、不思議なほど愛おしかった。
セイカはゆっくりと瞼を閉じ、静かに吐息を漏らした。
「……では。お言葉に甘えさせていただきます」
抵抗を諦め、すべてを受け入れたセイカの言葉に、アカネたちは嬉しそうに顔を見合わせるのだった。
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昼過ぎ。
食事を終え、ケイとシロコが片付けのためにリビングへ戻ると、室内には再びセイカとアカネの二人だけになった。
アカネはベッド脇の椅子に腰掛け、セイカの手を両手で優しく包み込んでいた。
セイカは熱にうかされた瞳で、アカネの横顔をじっと見つめた。
「……アカネ」
「はい、何でしょうか、セイカさん?」
「……このような情けない状態であっても……あなたは、変わらず私のことを心配してくださるのですね」
セイカの小さな呟き。
完璧な観測者でもなく、何でも計算できるお父さんでもなく、ただ風邪をひいて動けない一人の人間としての自分。
アカネはくすくすと柔らかく笑い、セイカの手をキュッと握りしめた。
「何をおっしゃっているのですか。情けないなんて、一度も思ったことはありませんよ。……私たちは夫婦なのですから。嬉しいことも、大変なことも、こうして病気になることだって……全部、分け合うのが当たり前です」
夫婦だから。
そのシンプルな言葉に、セイカの胸の奥の硬い結び目が、完全に解けていく感覚があった。
セイカは少しだけ目を閉じ、アカネの手の温もりを確かめるように握り返した。
「……なら。今日は……全部、あなた方に任せてもいいでしょうか」
「はい。全部、私たちに任せて……安心して眠ってくださいね」
アカネの優しい声と、髪を撫でる指先の心地よさに包まれながら、セイカの意識は深い眠りへと落ちていった。
__________
眠りの中で、セイカは夢を見ていた。
そこは無数の数式と、幾何学的な未来の分岐が、果てしない暗闇の中に漂う空間だった。
ソラノミの航路、宙域の異常波動、家族の未来……無数の可能性の枝が、セイカの周囲を巡っている。
「(……計算しなければ。観測し、正しく選択しなければ……)」
夢の中でも、彼女女の習慣的な思考プロセスが動こうとする。
だが──その無数の未来の分岐の中に、一つだけ、今まで見たこともない異質な「枝」が存在していた。
そこには、数式も、確率の計算も、摩虎羅の輪も存在しなかった。
ただ、温かいベッドと、静かなソラノミの部屋があり、何もしない自分がいて、目が覚めれば隣で笑っているアカネや子供たちがいる未来。
「観測しなくてもいい未来」。
「計算しなくてもいい未来」。
セイカは夢の中で、その異質な枝へゆっくりと手を伸ばした。
数式を捨てること。計算を止めること。
それはかつての彼女にとって「存在の否定」と同義だったはずだ。
だが今のセイカは、迷うことなくその未来を自らの意思で「選択」した。
枝が柔らかな光となってセイカを包み込み、暗闇の数式たちを優しく消し去っていく。
深い、心地よい安らぎの闇が、彼女の意識を優しく満たしていった。
__________
翌朝。
ふ、とセイカの意識が鮮明に覚醒した。
頭の重みは消え去り、喉の痛みも引いている。思考同期の遅延はゼロ。体内パラメータは完全に正常値へと復元されていた。
セイカがゆっくりと上体を起こすと、ベッド脇の椅子に頭を預け、アカネが心地よさそうな寝息を立てて眠っていた。自分を徹夜で見守ってくれていたのだと一目で分かった。
セイカは愛おしそうにアカネの肩に毛布を掛け直すと、サイドテーブルの端末を手に取った。
画面には、二つのメッセージが届いていた。
『お父さん。体温が下がった場合でも、本日はまだ安静を推奨します。観測タスクは引き続き私が処理します』
──ケイからの、相変わらず生真面目なメッセージ。
『……昨日のお父さん、弱ってて珍しかった。たまにはいいと思う』
──シロコからの、短くも温かい一言。
セイカは画面を見つめ、静かに呟いた。
「……そうですね」
完璧な管理や計算を手放し、ただ誰かに身を委ねる時間。
それは決して失策や失敗などではなく、家族という絆を確かめるための、何よりも尊い時間だったのだと。
セイカは微かに口角を上げ、満足そうに小声で漏らした。
「たまには……病気になるのも、悪くありませんね」
その声に反応したのか、アカネが薄っすらと目を開け、まどろんだ瞳でセイカを見上げた。
「……ん……セイカさん? お熱、下がりましたか?」
「はい、アカネ。完全に平熱へ復元しました。看病、感謝します」
アカネはホッとしたように胸を撫で下ろし、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふっ。セイカさん、先ほど『病気になるのも悪くない』とおっしゃいませんでしたか? それでは……これからも定期的に、風邪をひいてくださいますか?」
あまりにも極端な提案に、セイカは真顔で即座に返答した。
「……それは困ります」
ふふっ、とアカネの楽しそうな笑い声が主寝室に響き渡る。
熱の引いた爽やかな朝の光の中で、セイカはアカネの手を優しく握り返し、家族が待つリビングでの新しい「今日」を始めるのだった。