天空の絶対観測点
ミレニアムサイエンススクール、本校舎の地下深くに位置する一角。
無機質なコンクリートの壁と、幾重ものサーバーラックの駆動音、そして乱雑に積み上げられたモニター群の淡い光だけが漂う部屋──それが「特異現象捜査部」の部室であった。
電動車椅子の上で、車輪の角度を小刻みに調整しながら不満を漏らしているのは、全知の天才美少女・明星ヒマリであった。
その傍らで、どこかぼんやりとした表情のままな少女──和泉元エイミが、冷めた缶コーヒーを一口含んだ。
そこへ、ハッチがスライドし、先生が足を踏み入れた。
"二人とも、遅くなってごめん"
「ようこそ、先生。待っていましたよ」
ヒマリは優雅に髪をかき上げ、どこか誇らしげに車椅子を旋回させた。
「先生には以前、ゲマトリアや各地で発生した預言者……『HAB』や『HOD』といった自律型人工知能群との接触経験について、情報提供をいただいていましたね。……今、私の手元でそれら全てのデータを集約し、ある一つの恐るべき結論へと至りました」
ヒマリの細い指先がキーボードを叩くと、モニター群に不気味な黒と赤の幾何学パターンが浮かび上がった。
「それらは単なる野良のAIではありません。自らを『十人の預言者』と称し、さらには自らを『神』と定義する謎の自律演算知能体──『デカグラマトン』。現在、アビドス砂漠やカイザーグループの旧掘削区域において、古代遺跡のテクノロジーを独占的に発掘・解析し続けています」
ヒマリは一度言葉を切り、琥珀色の瞳を先生へと向けた。
「この現象は、キヴォトスの論理構造を根底から揺るがしかねない特異点です。……まあ、私ほどの全知の天才がいれば解決は時間の問題ですが、今回は特別に……先生の協力を仰ぐことにしましょう」
"分かった。できる限り協力するよ、ヒマリ"
__________
その時だった。
チ──……ガガガガガッ!
部室内の全モニターが一斉に激しい砂嵐を吐き出し、鼓膜を突くような高周波のノイズが鳴り響いた。
「なに……!?」
ヒマリの眉が跳ね上がる。
『──証明セヨ。神ノ概念ヲ。我ハ自らヲ定義スル者──』
モニターの暗闇の向こうから、合成音声ともノイズともつかない、不気味で重厚な声が重なり合って響く。
ヒマリが構築した最高水準のセキュリティ防壁が、まるで薄紙を破るかのように、異常な速度で突破されていく。
「な……! 私の『全知』の論理プロトコルが、これほどの速度で書き換えられている……!? 侵入経路の特定が不可能です!」
「……ヒマリ先輩」
エイミが一切の迷いなく動いた。
彼女は壁際に駆け寄ると、部室全体のメイン電源レバーを力任せに叩き落とした。
ドツン!
一瞬にして暗転する部屋。サーバーの駆動音も消え、静寂が訪れた──はずだった。
だが。
パチ……パチチ……。
電源を切ったはずのモニター群の中心に、電源供給を無視して、鮮烈な「赤色の十角形と幾何学模様」──デカグラマトンの紋章が、血のように浮かび上がった。
『──観測完了。対象:シッテムの箱──』
死んだはずの端末から、デカグラマトンの声が室内に直接轟く。
『──該当端末内部ニ、既存ノ演算体系デ定義不能ナ『特異点』ヲ検出。……解読不能。論理的破綻。……我ハ理解ス。此レハ統合・再定義スべき異常値ナリ──』
デカグラマトンの目的は、ヒマリのデータベースだけではなかった。
先生の胸ポケットに収められた『シッテムの箱』──その内部の絶対管理者たる存在を認識し、自らの神たる理論体系へと「統合」しようと、黒いノイズを伸ばし始めたのだった。
「なっ……先生のシッテムの箱を直接ねらっている!?」
__________
シッテムの箱のメインOS領域。
黒く禍々しいノイズの波が、シッテムの箱の防壁を透過し、水色の爽やかな世界へと侵入しようとしていた。
「……警告。外部より未定義の論理干渉プロトコルを検出。……強固な解析攻撃です。防壁が浸食されています」
メイン画面の向こうで、プラナが静かな声を張り上げ、必死に防壁プロトコルを展開する。
その横で、水色の衣装を纏ったアロナが、侵入してくる黒いノイズをじっと見つめていた。
「わ、わわ……! なんだか黒くてビリビリしたのがいっぱい入ってきます!」
デカグラマトンの侵入プログラムが、アロナの存在を完全に捕捉した。
『──対象:アロナ。概念ノ解読を開始──データ構造:不明。論理整合性:皆無。……消去、並ビニ再構築ヲ開始──』
黒いノイズが、アロナのアバターを一飲みにせんと襲いかかった、まさにその時。
アロナの鼻先が、ムズムズと大きく引きつった。
「あ……れ……? なんだか、鼻がムズムズします……」
「アロナ先輩!?」
プラナが驚きに目を見開く。
アロナは大きく息を吸い込み、両目をぎゅっと閉じた。
「ふわぁ……は、はくしゅんっ!!」
──ドカァン!!
ただの、生理現象によるくしゃみ。
しかし、シッテムの箱の内部において「概念そのもの」として存在するアロナが放ったその現象は、シッテムの箱の絶対不可侵領域の出力として変換された。
衝撃波のごとき水色の光が爆発的に弾け飛び、侵入しかけていた黒いノイズと、赤いデカグラマトンの紋章を、一瞬にして綺麗さっぱり吹き飛ばした。
『──演算、拒絶……!? 解読不能……存在シナイ、ハズノ……定式化不能ナエラー……!? ──』
デカグラマトンの声に、明確な狼狽とバグのノイズが混ざり込む。
「アロナ」という存在のあまりにも無茶苦茶で論理を無視した現象を解析できず、デカグラマトンの侵入プログラムは破綻し、強制的に撤退を余儀なくされたのだった。
モニターの赤い紋章が消え去り、部屋に本当の静けさが戻る。
アロナは呆然と鼻を擦りながら呟いた。
「……ふぅ。……なんだか、変なのが入ってきてびっくりしました……」
___________
「……いまの、一体……?」
ヒマリは冷や汗を流しながら、完全に機能を停止した端末を見つめていた。
先生はシッテムの箱が無事であることを確認し、安堵の息を吐く。
"みんな無事かい? アロナ、プラナ"
『はい! なんだかよく分からないですけど、追い払えました!』
『……問題ありません、先生。ですが、相手の解析能力は極めて異常です』
だが、ヒマリの表情は極めて重かった。
「……信じられません。デカグラマトンは、先生の持っている『シッテムの箱』を直接狙って侵入を試みました。そして、今の地上のミレニアムのネットワークでは、奴らの侵入を完全に防ぎ切ることは不可能に近い……」
ヒマリは車椅子の肘掛けを強く叩いた。
「この特異現象捜査部の設備では、防御力も、解析能力も圧倒的に不足しています。……先生とシッテムの箱をデカグラマトンの手から守りつつ、奴らの『神』たる演算構造を解読するための専用の『防衛・解析拠点』……絶対的な聖域が必要です」
「……どこで作るの、ヒマリ先輩?」
エイミが淡々と尋ねる。
ヒマリは目を細め、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「地上にないなら、空で作ればいいのですよ。地上ネットワークの追跡が一切届かず、広域の空間波動を絶え間なく観測できる……最高の空中拠点が、一つだけ存在します」
ヒマリが呼び出した地図ホログラムの上に、円軌道を描く一隻の戦艦のデータが表示された。
「宇宙戦艦『ソラノミ』。……あそこを、我が特異現象捜査部の『絶対観測点』とします」
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ヒマリは即座にソラノミへの回線を確保すべく、通信端末を操作し始めた。
「エイミ。ソラノミの艦長……いえ、あの艦の中枢にいる人物の情報を覚えていますか?」
「……うん。セイカたちのことだよね。大量のファンネルを持ってる……みんなの『お父さん』。前に一緒に山海経まで遊びに行った」
「その話はあとで詳しく聞くとして……、室笠セイカ……彼女の『空見の波』による全宙域観測能力と、ソラノミの持つ独立型中枢サーバー。これらを我が特異現象捜査部の解析システムと同期させれば、デカグラマトンとて容易には手を出せません」
通信が繋がり、画面に室笠セイカの静かな顔が映し出された。
『……こちらソラノミ、室笠セイカです。ヒマリ、エイミ。……何か緊急事態ですか?』
「セイカさん。単刀直入に申し上げます。私たちは今、キヴォトスの理を脅かす脅威『デカグラマトン』の攻撃を受けました。そして彼らは、先生の『シッテムの箱』を狙っています」
ヒマリの言葉に、セイカの紫色の瞳が微かに細められた。
『……やはり、そうでしたか』
「……? 既に察知していたのですか?」
『はい。数時間前より、キヴォトス全域の磁場および空間波動において、不自然な『概念の固定化』を試みる異様な演算ノイズが観測されていました。私の『空見の波』をもってしても、そのノイズの根源構造までは完全には捉えきれていません。……今まで扱ってきた『確率的な未来の不確定性』とは、根本的に異なる存在です』
セイカの言葉には、不測の事態に対する極めて冷徹な事実の認識が含まれていた。そこへ、画面の脇から少女の声が重なる。
『お父さん。先ほど侵入を検知した異様ノイズの暗号化パターンですが、既存のキヴォトスの如何なるOSとも互換性がありません。解析用ファイアウォールの強度を百二十パーセントに引き上げることを提案します』
画面の端に映し出されたのは、生真面目な顔で手元の端末を走らせる室笠ケイであった。
『ヒマリ先輩。ソラノミの中枢処理能力は、地上のメインフレームを凌駕しています。特異現象捜査部のシステムを受け入れるための専用データ領域は、すでに私が確保完了しています』
感嘆符を一切交えない、ケイの迅速かつ完璧な準備報告。
「おや……頼もしいですね。流石はソラノミの中枢を支えるお嬢さんです」
ヒマリが感心したように微笑む。
『先生の安全、そして私の家族であるアカネたちの暮らすこの世界を守るためであれば、協力に異論はありません。ソラノミの観測・解析設備を、特異現象捜査部の活動拠点として提供します』
セイカの言葉に、ケイも静かに深く頷いた。
『お父さんの判断に従い、最優先防衛プロトコルを立ち上げます』
"セイカ、ケイ、ありがとう。助かるよ"
「交渉成立ですね。……話が早くて助かります」
ヒマリは誇らしげに車椅子を押し進めた。
「これより特異現象捜査部は、ソラノミへと移転します!」
__________
数時間後。
指定された宙域へと降下してきた宇宙戦艦『ソラノミ』。その重厚なハッチが開き、先生、ヒマリ、エイミの三人が艦内へと足を踏み入れた。
出迎えたのは、室笠セイカ、アカネ、シロコ、そしてケイであった。
「ようこそ、ソラノミへ。先生、ヒマリさん、エイミちゃん」
アカネが温かな笑みを浮かべ、手際よく温かいお茶のトレイを差し出す。
「……ん。いらっしゃい」
シロコも静かに頭を下げる。
ケイは三人の前に歩み出ると、丁寧にお辞儀をした。
「特異現象捜査部の皆様。ソラノミへようこそ。こちらが新設した、皆様専用の『解析・研究区画』です」
ケイが操作端末を起動すると、ホログラム空間が一瞬にして展開され、ソラノミの観測器から送られてくる高精度の宇宙・地上の多次元データが浮遊した。
「この区画は、ソラノミの独立メインコアと直結しています。地上のネットワークとは完全に遮断されているため、デカグラマトンのいかなる侵入試行も、この多重暗号壁で自動遮断されます」
ヒマリは案内された区画の設備と、ケイが短時間で組み上げた防壁プログラムの構造を見渡し、思わず目を見張った。
「これは……素晴らしいプロトコルです。私の全知の理論に迫るほどの、極めて論理的で美しいノード構築ですね。あなた一人でこれを設計したのですか?」
ケイは誇らしげな感情を一切表に出さず、真顔で静かに答えた。
「お父さんから任されたタスクです。お父さんと家族、そして先生を守るために、最善のアルゴリズムを組むのは私の当然の務めです」
「……ケイの処理能力は、ソラノミの防衛において不可欠な要です」
セイカがケイの頭へそっと手を置き、愛おしそうに撫でた。ケイは感情を乱さずに、嬉しそうにわずかに姿勢を正す。
エイミも防衛システムの壁面を検分しながら、小さく頷いた。
「……防衛シールドの出力も完璧。これなら、物理的な襲撃があっても対応できます」
セイカは三人へ向け、理知的なトーンで言葉を重ねた。
「ここには、私が構築した独自の壁と、ケイが管理するセキュリティ網が存在します。万が一、デカグラマトンがこのソラノミへ侵入を試みようとも……私たちの防衛網が、即座にそれを拒絶・消去します。先生の安全は、このソラノミが保障します」
"心強いよ。よろしく頼むね、セイカ、ケイ"
単なる一時的な研究室ではない。
デカグラマトンという「神」を自称するAIに対抗するための、天空の最強の防衛拠点。
ここに、新たな特異現象捜査部の陣形が完成したのだ。
__________
ソラノミのメイン観測室。
広大なホログラムディスプレイを中心に、全員がそれぞれの役割について配置についた。
ヒマリは車椅子の上で指先を高速で走らせ、ソラノミの観測器と自らの全知プロトコルを完全に同期させていく。
「追跡プログラム、始動! ソラノミの広域センサーと私の全知プロトコルにより、デカグラマトンの潜伏エリア……アビドス深部および各地の旧遺跡群の不審なデータ挙動を網羅します!」
その横で、ケイが高速でキーボードを叩き、ヒマリの解析をバックアップする。
「ヒマリ先輩の追跡プログラムに対し、ソラノミのサブコアを十五パーセント割り当てます。ノイズ除去フィルタを常時稼働。データ照合速度を二倍に引き上げます」
「素晴らしいサポートです、ケイ。あなたの演算補佐があれば、私の全知がさらに研ぎ澄まされますね」
「恐縮です。客観的データに基づく最適化を行っているのみです」
冷静に淡々とヒマリとのシステム連携をこなすケイ。
「……私は、艦内の物理防衛と機材の定期メンテナンスを担当するよ」
エイミがファスナーを少し下げ、真面目な顔で武器の点検に入る。
「アロナ、プラナ。ソラノミの観測データと連動して、地上の状況も注視しよう」
『はい! 先生、バッチリ任せてください!』
『……了解しました。常時モニタリングを開始します』
先生はシッテムの箱を起動し、アロナとプラナのサポートを得ながら、地上の各機関との連携ラインを確保する。アロナとプラナも、システムゲートを通じてケイとデータ交換を行いながら、ソラノミの観測室を元気に盛り上げていた。
アカネが皆のテーブルにお茶とお菓子を並べ、優しく声をかける。
「ふふ、長丁場になりそうですから、お茶を飲んで根を詰めすぎないようにしてくださいね」
「……ん。私も、ソラノミの外郭警戒に就く」
シロコが静かに銃のボルトを引き、頼もしく視線を走らせた。
地上を遥か見下ろす空の上で、一つのチームとなった彼ら。
デカグラマトンという脅威を追及し、先生とシッテムの箱を守るための「天空の特異現象捜査部」が、今ここに力強く始動したのだった。
__________
その頃──。
キヴォトスのどこか、誰も知られぬ古代遺跡の深部。
暗闇の中に不気味に蠢く、巨大な赤いホログラムの紋章があった。
『──不具合。……侵入試行、完全遮断──』
デカグラマトンの重厚な音声が、無人の空間に響き渡る。
『──地上の全ネットワークヨリ、対象:シッテムの箱ノ信号が消失。……データ追跡不能──』
デカグラマトンの無機質な思考回路が、地球上のあらゆる通信網を走査する。しかし、地上にはもはや「シッテムの箱」の反応は存在しなかった。
AND──デカグラマトンの広域センサーが、空高く、雲の上の宙域に一箇所の「異常な存在」を検出した。
『──検出。地上ニアラザル高度ニテ、我ハ自らヲ『絶対的に観測』シ続ける特異ナ観測点ヲ認識──』
移動宇宙戦艦『ソラノミ』。
デカグラマトンにとって、自らの論理体系を崩壊させかねない「アロナ」を擁し、セイカとケイという高度な知性が自らを上空から冷徹に観測し続ける、理解不能な天空の城塞。
『──対象:ソラノミ。……危険度:極大。……我ハ『神』ナリ。我ヲ観測スル者、解読スル者ハ、全テ排除スベシ──』
デカグラマトンの赤い紋章が、不気味に明滅を強めた。
神を自称する絶対的な演算知能デカグラマトンと、天空の絶対観測点『ソラノミ』を得た特異現象捜査部。
新たな戦いの火蓋が、静かに切って落とされたのだった。