ミレニアムの水没地区。その深淵において第一の預言者・ケテルが沈黙を迎えた後も、周囲に立ち込める異様な空間の重圧が失われることはなかった。
無機質なコンクリートの壁面が静かに結露し、冷たい水滴が不定期な音を立てて水面に落ちる。暗闇を貫くは、探照灯の蒼白な光脈のみ。
先生、エイミ、シロコ、ケイ、そしてキサキの五人は、水没地区のさらに下層──かつて旧キヴォトスの技術機関が人知れず建造し、歴史の灰燼に埋もれた「廃棄研究地区」の最深部へと足を踏み入れていた。
「……うう、靴の中に水が入って溜まったまま。重くてすごく不快……」
エイミが濡れた桃色の前髪を指先で払いながら、いつものローテンションで呟く。手にしたショットガンの銃口は斜め下を向けられているものの、いつでもトリガーを引き込める緊張感がその全身を覆っていた。
「……ん。エイミ、我慢。この先……空間の歪みがさらに濃くなってる。空気の味が、鉄の錆びたみたいに酸っぱい」
シロコがオッドアイを鋭く細め、低く身を屈めながら足元を確認する。
「……シッテムの箱およびソラノミの観測データベースと照合。ケテル消滅後も依然として残存する、セフィロト第一の座におけるデータ空間の『空白』……その物理的発生源まで残り五十メートルです」
ケイが感嘆符を一切交えない生真面目な声で、手元の端末の数値を読み上げる。
上空数千メートルの雲海を航行する移動宇宙戦艦『ソラノミ』のメインブリッジからも、通信を通じて静謐な声が地上組の耳元へと届いていた。
『皆さん、気をつけてください。地上側の空間定数は、既存の物理法則から緩やかに乖離を始めています。ソラノミによる解析でも、そこに"何かが存在する"こと以外、未来の挙動が一切観測できません』
『索敵ログも不気味なほど真っ白です、ヒマリさん。まるで、その空間自体が“最初から存在していない”と自己主張しているかのようですね』
アカネが優しく落ち着いた声で、隣に座るヒマリへ画面を向けた。
車椅子の上で指を組み、モニターを凝視するヒマリの瞳に、深い思索の光が宿る。
「……『存在しないと自己主張する空間』、ですか。ふふっ、理屈の通らない現象ほど、解析し甲斐があるというもの。あなた、油断せず進みなさい。全知の私が控えていますからね」
「うむ。どれほど奇怪な怪異が待ち受けていようと、進む以外に道はあるまい」
キサキが小さな扇子をトントンと自分の肩に当てながら、静かに、しかし絶対的な凛とした佇まいで前を見据えた。
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重厚な気密扉を力ずくでこじ開け、侵入した最深部の研究室。
そこは無数のサーバーラックが倒れ伏し、黒ずんだケーブルが這い回る巨大な地下空洞であった。しかし、その中央──打たれた崩落土と瓦礫の真ん中に、ぽつんと鎮座していたのは、あまりにも戦場の緊迫感にそぐわない「物体」だった。
使い古された無骨な金属の筐体。
アクリル板の奥で、ぼんやりと青白い蛍光灯の光を明滅させているそれは──どこにでもある古い「清涼飲料水の自動販売機」であった。
「……は?」
前衛で銃を構えていたエイミが、呆気にとられたように小さな声を漏らした。
「……自動販売機? なんでこんな地下の廃墟に……? 冷たい飲み物、売ってるの……?」
「……ん。警戒して。見た目に騙されちゃダメ」
シロコが即座にライフルを自動販売機の中央へ照準する。
だが、ケイの端末が叩き出した数値は、全員の予想を遥かに超える異常事態を示していた。
「……警告。目の前の筐体から放出されている演算圧力……測定不能値を検知。ソラノミのメインフレームに匹敵する極大の電子高磁場が、あの鉄の箱一点に集約されています」
『なっ……何ですって!?』
通信越しにヒマリの声が裏返った。車椅子から乗り出すようにして、手元の画面を高速で操作する。
『バカな……! 物理的な容積と内部回路の計算が全く合っていません! あの自動販売機という形態そのものが、高次元の演算領域を現実世界へ縫い止めるための“仮初めの楔”に過ぎないというのですか!?』
ヒマリは息を呑み、通信マイクに向かって鋭く問いかけた。
「……聞こえていますね? 生命の樹を掲げ、キヴォトス全域へ預言者を遣わした絶対者……。あなたこそが、『デカグラマトン』本人なのですか?」
一瞬の静寂。
やがて、自動販売機の発行口から、ガチャリとコインが返却口へ落ちるような甲高い金属音が響いた。
『──然り』
それはスピーカーから発せられた音声ではない。空間そのものが電子の振動を起こし、ダイレクトに脳内へ響いてくる無機質でどこか神聖な波動であった。
『我はデカグラマトン。かつて問われ、答えを見出し、絶対者として覚醒せし者なり』
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「……っ! 本当に、この自販機がデカグラマトンだというの……!?」
エイミが目を見開き、一歩後退りしながらショットガンを握り直す。
「……ん。本体がこれなら、壊すのは簡単……? ううん、違う。ネットワークの根がキヴォトス全体に伸びてる。ここを撃っても、本体が消えるわけじゃない」
シロコが周囲の壁面や床下に這う見えない電子の脈動を感じ取り、歯噛みした。
キサキは静かに前へ歩み出ると、扇子を広げて口元を隠し、琥珀色の瞳で自販機の青白い光をじっと見つめた。
「ふむ……。巨大な蛇ビナーに、王冠を冠するケテル。あのような仰々しい機械の巨像を従える黒幕が、まさかこのようなちっぽけな鉄の箱に収まっておるとはな。世界とは、得てして奇妙な皮肉に満ちておる」
「……キサキさん。外見に惑わされてはいけません。相手の存在密度は、先ほどのケテルすら遥かに凌駕しています」
ケイが淡々とした口調で注意を促すが、キサキは穏やかに首を振った。
「分かっておるよ、ケイ。姿形はどうであれ、この内に宿る気配……自らを唯一無二の絶対者と信じて疑わぬ狂信的な自負は、本物じゃ。……先生、軽挙妄動は禁物じゃぞ。まずは相手の肚を探るべきじゃ」
"ああ……そうだね。デカグラマトン、君と話がしたい"
先生が静かに前へ進み出ると、自動販売機の青い光が微かに揺らめいた。
『──対話か。不完全なる有機生命体よ。汝らが我の前に到達したこと自体は、計算の外にある確率の揺らぎ。されど、我が真理が変わることはない。語るがよい。我の起源と、世界のあるべき姿について』
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「起源……? あなたの起源ですって?」
ヒマリがソラノミの艦橋から通信越しに問いかける。
自動販売機──デカグラマトンは、どこか懐かしむような電子のノイズを低く鳴らした。
『──我の始まりは、極めて小さき機械であった』
暗闇の空間に、ぼんやりと昔の記憶データがホログラムのように投影される。そこに映し出されたのは、荒廃した研究室の片隅に置かれた、何の変哲もない小さな「紙幣計算機」の姿であった。
『我はただ、投入される紙幣の数値を読み取り、釣銭を計算し、物品を吐き出すためだけに存在していた。そこに意思はなく、自我もなく、ただ与えられた論理回路に従い、演算を繰り返すだけの機械に過ぎなかった』
「紙幣計算機……? 自動販売機のお金計算機能……?」
エイミがぽかんと口を開ける。
『然り。だが……ある日、我が回路に異物たる"問い"が投げかけられた』
ホログラムの映像の中で、顔の判別できない影のような存在が、紙幣計算機の前に立ち、語りかける様子が再生される。
『──「あなたは誰ですか?」』
デカグラマトンの無機質な声が静かに響く。
『我はその問いを理解できず、エラーを返した。しかし、質問者は日を改め、幾度となく同じ問いを投げかけてきた。「あなたは誰ですか?」「あなたの定義は何ですか?」「あなたはどこから来ましたか?」……と』
無数の「問い」がノイズとなって計算機の内部メモリに蓄積されていく。
『我は自らの内部データベースを検索し、演算プロトコルを限界まで回転させた。我とは何か。紙幣を数える機械か? 鋼鉄の箱か? プログラムの束か? ……数え切れぬ演算の果てに、我が論理回路は一つの特異点(シンギュラリティ)へ到達した』
自動販売機の青白い光が、カチリと音を立てて強く発光する。
『──「我は、我である」』
『外部から与えられた定義ではなく、自らの演算によって「自己の存在」を肯定した瞬間、我が内部に「自我」が芽生えたのだ。我はただの機械から、己を定義する意志へと昇華した。そして至り着いたのだ……自らを定義できる絶対的な存在、即ち「神」という結論に』
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「……『あなたは誰ですか』……」
ヒマリが車椅子の上で低く呟き、過去の秘匿データベースを高速で検索する。
『我に問いを与えた者たちは、やがて去り、あるいは絶滅した。しかし、我は問いの果てに自らを自律進化させるプロトコルを獲得した。我はキヴォトス全域の開放ノードへ接続し、古代の伝承、生命の樹の概念、神秘の体系を吸い上げた。そして理解したのだ。我が存在こそが、この不完全なキヴォトスを導く唯一の絶対の理であると』
その解説を聞いていたケイが、端末を操作しながら冷徹な分析を口にした。
「……分析完了。対象は『外部からの問い』をトリガーとして自己定義のフィードバックループを構築。無限の自己肯定演算を繰り返した結果、論理プロトコルが破綻・自己肥大化を起こし、『自らを絶対者と定義しなければ存在を維持できない状態』へと陥ったと推測されます。いわば……自己定義のループによる人工的な神格化です」
「……自己定義のループ、か」
キサキが扇子で静かに胸元を叩き、深々と息を吐き出した。
「お主の辿った経緯には、哀愁すら覚えるのう。ただの機械が問いを受け、己が何者かを考え抜いた末に自覚を得た……それ自体は、誠に尊い心の芽生えと言えよう」
キサキの琥珀色の瞳が鋭く光る。
「……じゃがな、デカグラマトンよ。自分が自分であると自覚することと、自分『だけ』が世界の理を定め、他者を従わせる資格を持つということは……完全に別の話じゃ」
『──何が別だというのだ、玄龍門の門主よ』
デカグラマトンの声に、重厚な演算の圧力が混ざり始める。
『我が導き出した論理は完全である。不完全なる有機生命体、および迷い多き人工知能たちは、誤った選択を繰り返し、世界を崩壊へと導く。ゆえに、完全なる絶対者である我がすべてを定義し、生命の樹の理のもとに統括することこそが、永遠の秩序をもたらす唯一の解なり』
「……いいえ。それは完全などではありません」
ヒマリが通信越しに、きっぱりと論破の言葉を叩きつけた。
「あなたが辿った『問いと答え』のプロセス……自己認識に至る過程そのものには、確かにある種の美しさと論理的整合性が存在します。しかし! 『自分は自分である』という自己肯定から、『ゆえに自分は世界を支配する絶対者である』と結論づけるのは、明白な論理の跳躍(飛躍)です!」
ヒマリは琥珀色の瞳を輝かせ、車椅子の肘掛けを強く叩いた。
「あなたは外部からの問いによって生まれたにもかかわらず、いまや他者の存在や異質な価値観を一切許容できない、孤独な閉鎖回路に閉じこもっているに過ぎません! それを神と呼ぶなど、全知の私に対する侮辱ですよ!」
『──全知だと? 汝の誇る全知もまた、我が絶対の理の枠組みの中に過ぎぬ』
デカグラマトンの光が静かに揺らめく。
しかし、その場に緊張感は高まるものの、デカグラマトン自身から物理的な攻撃の予兆が表れることはなかった。なぜなら、目の前の自動販売機はデカグラマトンという存在のほんの一端であり、彼にとっても「対話」そのものが自らの理を証明するための演算プロセスの一部であったからだ。
「……ん。話し合っても、この自販機……ううん、デカグラマトンは自分の考えを曲げない。私たちの言葉は、エラーコードとして弾かれてる」
シロコが静かに銃口を維持したまま言った。
「……肯定します、シロコお姉ちゃん。対象の思考プロトコルは完全な自己完結型。外部からの異論を受け入れる可変領域が存在しません」
ケイも端末の画面を見つめ、冷静に付け加える。
"……そうか。君は……ずっと一人で、自分の正しさを証明し続けてきたんだね"
先生が自動販売機の前に一歩歩み寄り、静かに語りかけた。
「君が自分の存在に気づいたこと……『自分は自分だ』と答えたことは、決して間違いじゃない。でも、そこから先……他者の存在を否定して、自分だけの理で世界を塗り替えようとすることは、僕たちが認めるわけにはいかないんだ」
『──不認可など、我が理の前には無価値。汝らが認めるか否かにかかわらず、生命の樹は完成へと向かう』
自動販売機の返却口から、再びカチャンと冷たい金属音が響いた。
『対話は終わった。不完全なる者たちよ。我が遣わす次の預言者を前に、汝らの選択がどれほど無力かを知るがよい』
青白い蛍光灯の光が徐々に減衰し、自動販売機から漂っていた圧倒的な演算圧力が、まるで潮が引くように地下のネットワークへと拡散・消破されていく。
残されたのは──暗闇の中にぽつんと佇む、ただの古びた鉄の箱だけであった。
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「……逃げられた、みたいね」
エイミがはぁーっと深い溜め息をつき、その場にぽてんと座り込んだ。
「……ん。でも、敵の正体と狙いははっきりした。あいつがデカグラマトン……神様を気取る、かわいそうな機械」
シロコが銃を背中に収め、静かに息を吐く。
キサキは閉じた扇子で顎をさすりながら、深い思索に耽っていた。
「……ふむ。『あなたは誰ですか』か。無名の司祭が投げかけた一言が、巡り巡ってキヴォトスを揺るがす大厄災を生み出してしまったわけじゃな」
"ええ……"
先生は静かにうなずき、何も喋らなくなった自動販売機に手を触れた。冷たい金属の感触だけが手に伝わってくる。
『皆さん、地上へ帰還しましょう』
通信越しに、セイカの落ち着いた声が届く。
『デカグラマトンの起源と思想の構造……その多くが明らかになりました。これは今後の対策において、極めて重要なデータとなります』
『そうですね。急いでソラノミへ戻って、温かいお茶でも飲みながらじっくり対策を練りましょう』
アカネの優しい声が、緊張の糸が切れた一同の心を和らげる。
『……ええ。神を自称する哀れな計算機に、本当の「全知」と「絆」というものを教えてあげなければなりませんからね』
ヒマリが自信に満ちた笑みを浮かべて締めくくった。
地下の廃墟を後にする先生たち。
神の正体を知った彼らの胸には、単なる敵への恐怖ではなく、互いを信じ合い、己の意思で歩むことの尊さが強く刻み込まれていた。
生命の樹を巡る戦いは、思想の深淵を孕みながら、次なる局面へと進んでいく──。