遠い日の境界線 ― 供養の碑
上空数千メートルの雲海を裂き、過酷な極北の「氷海地域」へと進路を固定する直前──。
宇宙戦艦『ソラノミ』は、かつて数々の激闘と悲劇の舞台となったアビドス砂漠の最果て、熱砂と果てしない静寂だけが世界を覆い尽くす荒涼とした丘の上空に、蒼いプラズマ流の出力を限界まで絞って静かに浮遊・停泊していた。
乾いた熱風がひゅーひゅーと音を立てて吹き抜ける砂丘の頂。
室笠シロコは、胸元に一つの小さな包みを、まるで何よりも尊い宝物であるかのように両手で大切そうに抱え込んで立っていた。丁寧に幾重もの布で包まれたその中身は、かつて滅び去った「もう一つの世界」における惨劇の果て、崩壊の渦中で奇跡的に手元へ回収された遺品の折り鶴であった。
その傍らには、彼女の思いを静かに受け止め、寄り添う家族の姿があった。
濡れた黒髪を風になびかせ、静謐で凛とした佇まいで地平線を見つめるお父さん──室笠セイカ。
温かな慈愛に満ちた眼差しを注ぎ、シロコの華奢な背中にそっと手を添えるお母さん──室笠アカネ。
そして、彼女たちの中心で静かに佇み、優しく見守る先生。
カチリ、と耳障りの良い静かな電子音が響き、先生が手にする『シッテムの箱』のメイン端末から、柔らかな青白い光の粒子が立ち上った。
ホログラムの繊細な通信投影として地上へその姿を現したのは、アロナと共にシッテムの箱の統括プロトコルを担う存在──プラナであった。
プラナは投影されるや否や、風になびくシロコの手元の包みへと、まっすぐに視線を向けた。
その無機質でどこか透き通るような瞳が、微かに揺らめく。彼女にとっても、その焦げた折り鶴は単なる物言わぬ過去の遺品などではなかった。
滅び去った世界、絶望と狂気の果てに「色彩」の導き手・プレナパテスへと成り果ててしまった……もう一人の先生。そして、その傍らで傷つき、世界を呪いながら一人孤独に戦い続けていた……もう一人のシロコ。そのすべてを間近で見届けて看取り、シッテムの箱の管理者として共にこの新たな世界へ渡ってきたプラナにとって、それは共有されたあまりにも生々しく切ない記憶そのものであった。
プラナはしばらくの間、砂漠を吹き抜ける風の音に耳を澄ますかのように一切の言葉を発せず、ただじっとその包みを見つめ続けていた。
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シロコが意を決したように静かに膝をつき、砂利の混ざった硬く乾燥した土を、その手でそっと掘り進めようとした──まさにその時であった。
「……シロコさん」
プラナが、いつもより幾分か低く、けれど胸の奥深くへと直接届くような静かで透き通った声音で呼びかけた。
シロコが作業する手を止め、ゆっくりと振り向く。プラナはホログラムの光の裾を風になびかせながら、シロコのすぐ隣へと、足音もなく滑らかに歩み寄った。
「……私は、覚えています。あちらの世界で、あの先生と共に過ごした全ての時間を。喜びも、苦しみも、そして最後へと至る道筋のすべてを。……そして、もう一人のあなたがその小さな肩に背負っていた、息の詰まるような悲しみと絶望の記憶の重さを」
プラナのその言葉に、シロコは胸の奥を激しく突かれたように、深く息を呑んだ。
「あの壊れてしまった世界で歩んだ時間は……決して無意味なものではありませんでした。たとえ最後は悲劇の果てに世界ごと消えてしまったとしても、あの先生があなたを最後まで守り抜いたという真実も、あなたが必死に抗い、生き抜いた時間も……何一つとして、なかったことにはできません」
プラナは自身の胸元に小さな手をそっと当て、どこまでも透き通る砂漠の空を見上げた。
「ですが……過去の切ない記憶を大切に抱き続けることと、過去の鎖に縛られ続けることは違います。……シロコさん。あなたがいま、こうして新たな家族と共にあることを……先生に申し訳ないと、自分を責めたり、ためらったりする必要はどこにもありません」
プラナの無機質だったはずの声に、温かな揺らぎと優しい情感が混ざり込む。
「先生が最期の瞬間にまで望んでいたのは、あなたがただ生き延びることではなく……温かな家族と仲間の輪の中で、幸せに微笑んで生きることだったのですから」
プラナ自身もまた、静かに語り掛けながら視線をシロコの手元の包みへと落とし、心の中で深く言葉を紡いでいた。
「(……先生。あなたの命を懸けて護り抜いてくれた命は、いま……こんなにも温かな家族と絆の中で、しっかりと前を向いて歩もうとしています。……私もまた、あなたの生徒として……あなたに心からの感謝とお別れを告げます)」
温かな風が二人の間を優しく吹き抜けていく。
シロコは溢れ出そうになる涙を堪えるように、オッドアイを何度も深く瞬かせ、震える声で短く、けれど真っ直ぐに答えた。
「……ん。……ありがとう、プラナ」
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シロコは丁寧に彫り進めた砂地の小さな穴へと、折り鶴をそっと納めた。
手で優しく土をかぶせ、その上にアビドス砂漠で拾い集めた、風雨に耐える頑丈で美しい白銀の石を二つ、静かに重ねて据え置いた。文字も刻まれていない名もなき、けれど二人にとっては何ものにも代えがたい「供養の碑」である。
風になびく長い黒髪を片手で優しく押さえながら、セイカがシロコの隣へ歩み寄った。
「……良い場所を選びましたね、シロコ。ここなら……上空を航行するソラノミのメインカメラから、観測軌道を通じて、いつでもこの場所を見守ることができます」
セイカの言葉の裏側には、愛する娘を温かく包み込むような深い慈愛が滲み出ていた。
「ええ、本当にそうですね」
アカネも柔らかな笑みを浮かべ、シロコの華奢な肩を抱き寄せた。
「ここは、あの世界で最後まで戦い抜いた先生と……そして、かつて傷つき苦しんでいたもう一人のシロコの、絶対の安息の地にしましょう。私たちが、ずっと大切に記録し続けますから」
「……肯定します」
プラナが静かに深く頷いた。
「シッテムの箱の拡張ストレージ内に保持されている、崩落直前の各種座標データおよび暗号化ログを整理。この現実世界の地上座標と完全かつ不可逆的に同期させます」
シロコは、新しく据えられた小さな白銀の石碑を両手でそっと撫でた。
太陽の熱を吸い込んだ、冷たくもどこか温かい石の触感が、手のひらを通じて胸の奥へと伝わってくる。
「……先生」
シロコが傍らに立つ先生を見上げ、そしてもう一度石碑へと視線を戻した。
「……あっちの先生にも……直接、伝えたかった。……『ありがとう』って。……それから……『おやすみなさい』って」
その呟きは、砂漠の風にさらさらと溶けて消えていきそうなほど小さかった。
けれど、プラナはその言葉を誰よりも深く静かに受け止め、石碑に向かって深く頭を下げたのだった。
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その時、はるか上空に停泊するソラノミの艦底から、一筋の繊細で美しい白青のレーザー光線が地上へと静かに降り注いだ。
『──対象地点のリアルタイム座標照合、完了。これより、永久環境保護プロトコルを実行に移します』
ソラノミの作戦コンソールから、室笠ケイの感嘆符のない淡々とした声が通信越しに届く。
降り注いだ白青の光線は、石碑を中心に半径一メートルの完璧な円を描き、激しい砂嵐や経年劣化による風化からその場所を永久に守るための不可視のナノバリア・フィールドを静かに展開した。
『本座標を、ソラノミおよびシッテムの箱における永久保護記憶領域へ登録。データベース識別名──《メモリアル・セクター0》』
プラナが手元のホログラム・ウィンドウを指先で素早く操作し、ケイから送られてきた高度な暗号化データをシッテムの箱の根幹システムへとシームレスに同期させていく。
「……ソラノミの全方位メインセンサーと、シッテムの箱の記憶回路との常時優先通信ラインを確立しました。これにより……たとえ私たちがどれほど遠く離れた極北の氷海へ遠征しようとも、この場所のデータと存在を見失うことは決してありません」
プラナはデータの同期登録を完了させると、ホログラムの光の身体をシロコの目の前へと一歩進めた。
その小さな顔に、普段の冷徹な管理AIとしては珍しい、どこか柔らかで温かな微笑みが浮かんでいた。
「……登録を完全に完了しました。私自身も、この場所を……あの先生が確かに生きた証と絆を、永遠に忘れません」
プラナは真っ直ぐにシロコの瞳を見つめた。
「……ですから、シロコさん。もう大丈夫です。あなたは安心して、前だけを見て歩んでください」
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シロコはそっと石碑から手を離し、静かに深く深呼吸をした。
乾いた砂嵐の匂いと、心地よい風の感触。胸の中に長年燻っていた切なく重い痛みが、いまや穏やかで温かな思い出へと変わっていくのを鮮明に感じていた。
ゆっくりと立ち上がり、青空に浮かぶ偉容なソラノミを見上げる。
「……ん。……これで、おしまい」
シロコは力強い瞳で大切な家族たちを見つめた。
「……次は、もう迷わない。お父さん、お母さん……行こう」
プラナもまた、自分の中に確かに刻まれた「もう一つの世界の想い」を大切に抱きしめながら、静かに光の粒子となってシッテムの箱へと還っていった。過去を捨て去るのではなく、過去を糧として胸に秘めたまま、いま生きるこの世界で大切な仲間と共に歩んでいくために。
「お待たせいたしました、シロコ、先生」
丘の下から、アビ・エシュフを寒冷地仕様へと完全に固定した飛鳥馬トキが静かに歩み寄ってきた。
「周辺警戒、およびソラノミへの帰還用昇降ルートの確保、完了いたしました。いつでも搭乗可能です。……ぴーす、ぴーす」
「ふふっ、ありがとうございます、トキちゃん。それじゃあ、皆でソラノミへ戻りましょうか」
アカネが柔らかな笑顔で促す。
「ええ。……これより、ソラノミは全速力で極北の氷海地域へと進路をとります」
セイカが静かに、そして圧倒的な威厳に満ちた声で告げた。
一行を乗せたソラノミの搭乗エレベーターが滑らかに引き上げられ、重厚な艦底ハッチが音を立てて閉じる。
やがて、ソラノミの蒼いプラズマエンジンが重低音の唸りを上げて輝きを増し、巨大な艦体は雲海を豪快に切り裂いて、極北の地に眠る第5の預言者・ゲブラを討つべく、一直線に北の空へと舞い上がっていった。
地上に残された《メモリアル・セクター0》の小さな石碑は、柔らかな光の保護膜に守られながら、どこまでも続くアビドス砂漠の静寂の中で、彼女たちが歩んでいく未来を静かに、そして温かく見守り続けていた──。