壁一面に配置された大型の三層強靭観測ウィンドウからは、雲海の遥か彼方にゆらゆらと幻想的な蒼と緑の光芒を躍らせる極北のオーロラと、どこまでも地平線の果てまで広がる白銀の蒼氷原が見渡せる。しかし、完璧な二重防音システムと最新式の結露防止ヒーター付き暖房空調が常時稼働している室内は、外世界のマイナス48度という凄惨な極寒が嘘のように、心地よい温もりに満たされていた。
調査チームの集中解析活動が一時的に区切りを迎えたこの時間、お母さんである室笠アカネは艦内の備品整理へ向かい、シロコたちも各々の持ち場で待機や調整に入っている。そのため、ラウンジには静かで落ち着いた時間が流れていた。
そのラウンジの窓際。車椅子を寒冷地ホバーモードから静音固定モードへと切り替え、温かな木製テーブルの横に収まっているのは、特異現象捜査部のヒマリであった。
「……ふふ、見なさい先生。あの窓の外で猛威を振るう荒涼とした吹雪と、天を彩るオーロラの輝きを。過酷であればあるほど、この地に立つ私の繊細で神秘的な美しさが際立つというもの……。極北の自然すらも、私という全知の美少女を引き立てるための壮大な舞台装置に過ぎないということです!」
ヒマリが車椅子の上で胸を張り、自信満々に長い髪をかき上げてみせる。
「……相変わらずの自信ですね、ヒマリ。ですが、体温の維持と適度な水分補給を怠れば、その美しさも容易に損なわれてしまいますよ」
静かで品のある声と共に現れたのはセイカであった。
セイカは無機質で洗練された動作でトレイを運び、淹れたての温かな紅茶が注がれたカップを、ヒマリと先生の前へと優しく滑らせるように置く。
「……ふふ、セイカの気遣いは評価してあげましょう。ですが全知の美少女にとって、この程度の極寒など私の至高の思考速度を少しばかり加速させる背景音に過ぎませんからね!」
ヒマリは得意げな笑みを浮かべ、湯気の立つカップを手に取ったのだった。
__________
先生は差し出された紅茶に口をつけ、ほっと息をついた後、車椅子のヒマリへ視線を向けた。
"ヒマリ、体調は本当に大丈夫かい?"
「おや、先生? 私の心配ですか? ふふ、安心しなさい。私は自他共に認める清楚系病弱美少女ではありますが、こう見えて己のバイタル管理にも抜かりはありませんよ。それに……」
ヒマリはトレイを片付けるセイカをチラリと見た。
「……セイカによる艦内の完璧な温度・湿度管理と、この極上の紅茶のおかげで、私の身体は至極快適に保たれています。全知の頭脳を誇る私が、自分の体調管理すら満足にできないはずがないでしょう?」
胸を張るヒマリに対し、先生は思い出したように人差し指を立てた。
"実はね……さっきエイミから聞いたんだ。『部長が解析に夢中で、休憩を忘れている』って"
「……っ!?」
ヒマリの動作がピタリと停止した。その整った顔立ちが、一瞬だけ分かりやすく硬直する。
「え、エイミ……! 余計なことを……っ! い、いえ違いますよ先生! 忘れていたのではありません! あれはタイミングを全知の演算によって最適化していただけです!」
すかさずセイカが、トレイから新しく淹れ直した温かな紅茶のカップを取り出し、テーブルの上へと静かに置いた。
「……なるほど。私としても、ヒマリが根を詰めすぎて倒れてしまっては困りますからね。こうして温かい紅茶を用意しました。せっかくの休憩時間なのですから、少しは端末から離れてゆっくり羽を伸ばしてください」
「くっ……! セイカまで手際が良いですね……! ですが言っておきますがね、私にとって演算作業そのものが精神の至高の安らぎであり、休息のようなものなのですよ!」
ヒマリは湯気の立つ紅茶を横目で見ながら、いつもの高調子な口調で語り始める。
「そもそも、全知の美少女たる私の超絶脳内CPUが、たかが数時間の連続演算ごときでオーバーヒートを起こすなどあり得ません! 本来であれば私の存在そのものが効率の象徴であり――」
朗々と自論を展開し、見事な弁舌で「自分に休憩など不要である」とその場の雰囲気を煙に巻いてごまかそうとするヒマリ。
"(あ、これは完全に休むのを後回しにしてまたすぐ作業に戻ろうとしている流れだ……)"
先生とセイカは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
セイカは追及して無理に休ませようとするのではなく、静かにその言葉を受け流すことにしたようだ。
「……ふふ、ヒマリらしい言い換えですね。ですが、私としても先生としても、あなたが限界を超えて無理をしてしまうことだけは避けたいのです。今はこの紅茶を楽しんで、ご自身のタイミングでリフレッシュしてくださいね」
「ええ、分かっていますとも! この全知の美少女明星ヒマリ、己の完璧なスケジュール管理のもとで適切に気分転換いたしますから!」
ヒマリは堂々と胸を張り、端末を脇へと押しやって、何事もなかったかのように優雅に紅茶を啜ったのだった。
__________
「それにしても……このソラノミの艦内環境は実に見事なものですね」
ヒマリはカップをソーサーに戻し、改めて窓外の吹雪を見つめながら口を開いた。
「これほど凄惨な極寒地帯の上空でありながら、艦内の空気は一切の濁りがなく、暖房の温もりも実に上品です。セイカのもてなしも含め、快適な環境整備能力については素直に称賛してあげましょう」
「……お褒めに預かり光栄です、ヒマリ。ソラノミの環境維持システムは、私やアカネの手によって常に最適化されていますから。ヒマリが快適に休めているのなら、それに勝るものはありません」
セイカは静かに微笑み、先生も二人のやり取りに温かな視線を送る。
"うん、ヒマリがこうしてリラックスして過ごせていて安心したよ。いつもミレニアムの調査や解析で、誰よりも頭を使っているからね"
「ふふ、先生。分かっているではありませんか! そう、私のこの類稀なる頭脳は常にキヴォトスの平和と真理の解明のためにフル回転しているのです。まあ、私ほどの知性があれば、この程度の極寒など頭脳の熱処理で吹き飛ばせる勢いですが……ソラノミの設備とセイカの細やかなもてなしが、私の休息をより高品質なものに高めていることは認めてあげても良いでしょう!」
「……ふふ、誇り高いのは結構ですが、暖房を消したら真っ先に凍えてしまうのはヒマリ自身ですよ」
「なっ……!? せ、セイカ!? 全知の美少女に対するその口ぶりの不敬さは何ですか!?」
冗談めかしたセイカのツッコミに、ヒマリが車椅子の上でパタパタと手を振って抗議する。そのコミカルなやり取りに、先生も思わず声を上げて笑ってしまった。
窓の外ではマイナス48度の白濁した凄惨な吹雪が吹き荒れ、巨大な氷原を打ち叩いている。
けれど、このラウンジの中だけは、香ばしい紅茶の香りと、三人の穏やかで心地よい会話の音覚で満たされていた。
__________
温かな紅茶を飲み干し、十分な歓談と気分転換を楽しんだヒマリは、ふと表情を引き締めた。
車椅子のサイドコンソールを滑らかに操作し、膝の上に格納されていた最新型の戦術解析端末を起動させる。
「……さて。紅茶も美味しくいただき、心身ともに完璧な休息を享受しました。そろそろ、全知の美少女としての本領を発揮するとしましょうか」
ヒマリの目つきが、一瞬で「全知の天才ハッカー」としての鋭い輝きを帯びる。
セイカもまた、即座に手元の端末を操作し、ソラノミの広域観測センサー群が捉えた最新のデータをヒマリの端末へと同期させた。
「……ソラノミのメイン観測システムから得られた、氷海地域の磁気脈動データおよび空間歪曲の最新ログです。ヒマリの解析の助けになれば幸いです」
「素晴らしい手際です、セイカ。……ほう、なるほど。先ほどのゲブラの出現時に観測された熱循環パターン、および高次元ノイズの波形データですか……」
端末の液晶画面に流れる無数のバイナリコードと幾何学模様を、ヒマリの青い瞳がミリ秒単位でスキャンしていく。
"ヒマリ、体調は無理しなくていいんだよ? まだ休息が必要なら、もう少し休んでからでも……"
先生が心配そうに声をかけると、ヒマリは満足げにクスリと笑って振り返った。
「ふふっ、先生。心配性ですね。ですが不要な懸念ですよ。一度エンジンのかかった私の全知の演算能力は、何者にも止めることはできません! むしろ、休息を経て私の頭脳は今、人生で最も冴え渡っていると言っても過言ではありませんからね!」
「……ふふ。相変わらずの自信ですね、ヒマリ。ですが、過度な集中によるオーバーワークにはくれぐれも注意してください」
セイカは苦笑しながらも、観測データの更新・ノイズ除去プロトコルをバックグラウンドで実行し、ヒマリの演算を完璧な体制で支援する。
__________
ヒマリは車椅子の上でスッと背筋を伸ばし、姿勢を正して先生とセイカへ向き直った。
その表情には、一切の隙も迷いもない、圧倒的な知性と自信が満ち溢れていた。
「……さあ、先生、セイカ。お喋りはここまでです。休息も気分転換も十分に堪能しました。ここからは、この超絶天才美少女ハッカー・明星ヒマリの演算能力を存分にお見せしましょう!」
先生とセイカは顔を見合わせ、同時に小さく微笑み、苦笑いを浮かべた。
"頼むよ、ヒマリ。君のその頭脳が、僕たちの最大の道標だからね"
「ええ。お父さんとしても、あなたの弾き出す答えを楽しみにしていますよ」
「ふふ、任せなさい! 全知の私に解けない謎など、このキヴォトスには存在しないのですから!」
ヒマリの滑らかな指先が、端末のキーボードを軽快なリズムで叩き始める。
セイカも静かな動作で最新の観測ストリームを送り続け、ヒマリの演算プロセスをバックから力強く支えていく。
ラウンジに再び響き渡る、軽快で心地よい電子操作音。
三人の穏やかで温かな休息は、ヒマリらしい絶対の自信と知性の輝きとともに、誇らしく終わりを迎えるのだった──。