未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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銀河で最も温かな0センチメートル

 

 

 

 

 宇宙戦艦ソラノミのキッチンには、ほんのりと甘い香りが漂ってた。

 

 それは、かつて孤独な研究者としてこの艦にいた私にとっては、未知の、そして定義しがたい「生活」という名の香りだ。

 アカネは、手元に集中している。

 湯煎されたチョコレートが、彼女の丁寧な手つきで混ぜられ、滑らかな艶を帯びていく……。

 その背中を見つめながら、私はダイニングテーブルで最新の観測データを整理していた。

 

 私は、自らの内側に眠る力「空見の波」を行使している。数時間にわたって未来を見続け、それを固定すれば、脳内のブドウ糖は枯渇し、世界が数センチほど浮き上がったような、ひどいふらつきに襲われることもある。

 そんな渇いた脳を癒し、私を「こちら側」の世界へと繋ぎ止めてくれたのが、アカネが作るこのチョコレートだった。

 

 

「……セイカさん?」

 

 

 ふいに名前を呼ばれ、私は思考の海から引き上げられた。

 いつの間にか作業を終えたアカネが、小さな銀色の紙に乗せられたチョコレートを差し出している。

 

 

「……ありがとうございます、アカネ」

 

 

 私はそれを受け取り、一口、口に運ぶ。

 瞬時に、私の脳内では職業病とも言える「解析」が開始された。

 

 

「(成分解析)

(糖分:適正。脳のエネルギー源として非の打ち所がない)

(脂質:適正。カカオバターの融点は、リラックス効果を最大化する数値にある)

(カカオ比率:良好。苦味と甘味のバランスが、思考のノイズを静めていく)」

 

「……問題ありません。エネルギー源としての品質、並びに嗜好品としての規格、すべてにおいて合格点だと思います」

 

 

 いつも通りの、淡々とした評価。

 私はそれを「最適解」として出力しました。……ですが、アカネは少しだけ頬を膨らませて、困ったように微笑んだ。

 

 

「もう……セイカさん。それ、感想じゃないですよ? 私は『美味しいかどうか』を、あなたの心に聞いているんですから」

 

「……。……私の味覚受容体は、正常に『良質である』という信号を送っていますが……」

 

「理屈じゃないんですけれどね。……ふふ、まあ、いいです。いつか分かってくれるときが来るでしょうし」

 

 

 アカネはそう言って、どこか楽しそうに笑いながら、残りのチョコを片付け始めました。

 その時は、まだ……。

 私にとって「食事」とは情報の摂取であり、「味」とは化学物質の組み合わせによる結果でしかなかった。

 

 

__________

 

 

 

 それからも、アカネは時々、キッチンでチョコを作ってくれた。

 「波」を使った後の深刻なエネルギー不足の時はもちろん、何気ない午後のティータイムにも。

 その度に、私は同じように供され、同じように解析し、同じように「問題ありません」と答えてきた。

 

 ですが、ある日のこと。

 ソラノミのリビングに、穏やかな人工太陽の光が差し込む昼下がり。

 差し出されたチョコを口にした瞬間、私の思考回路に、これまでにない「ノイズ」が走った。

 

 

「……」

 

 

 動きが止まる。

 舌の上で溶けていく感覚。鼻に抜ける香り。

 脳は即座に、過去の膨大な記録と照合を開始した。

 

 

「(成分:同一)

(配合:前回と誤差範囲内)

(品質:同等)」

 

 

 客観的な数値で見れば、それは紛れもなく「前回のアカネのチョコ」と同じ。

 ですが、何かが違う。

 かつては「波」の反動によるふらつきを抑えるための、いわば薬のようなものだったはずのそれが……。

 今は口にする前から、胸の奥が締め付けられるような、数値化できない多幸感を伴って迫ってくる。

 

 

「……セイカさん? どうかしました?」

 

「……。……味が、違います」

 

「え?」

 

 

 アカネが少し驚いたように、瞬きをした。

 私はチョコをじっくりと見つめ、再度、確かめるようにゆっくりと口に運ぶ。

 甘さ。苦味。香り。

 そのすべての奥底に、私の知らない「何か」が、重層的な意味を持って潜んでいる……。

 

 

「(未定義)

(数値化不能)

(再現困難な、心拍の微増)」

 

「……これは、同一ではありません。前回までの記録にあるチョコと、今回のこれには……決定的な、論理的欠落が含まれています。……同じ成分のはずなのに、なぜ、私にはこれが『今までで一番甘い』と感じられるのでしょう。……エネルギー補給という目的を超えて、私の精神がこれを異常なまでに『特別』だと認識しているの……」

 

 

 私が混乱しながら、その非合理的な結論を口にすると、アカネはふっと力を抜いて笑みを浮かべた。

 優しく、どこか照れくさそうに。

 彼女の指先が、私の頬に触れ、そのまま耳元へと滑る。

 

 

「ふふ……。それをね、セイカさん。……『愛情』って言うんですよ」

 

「……愛情?」

 

 

 その言葉が、私の脳内で、これまでのあらゆる記録と結びついていく。

 私が「波」を使ってボロボロになるたび、彼女がどんな顔でこれを作っていたか。

 どれほど私の無事を祈り、私の帰りを待ちながら、その甘さを調整していたか……。

 

 

 

 愛情

 

 

 

 これは単なる糖分の補給ではない。これは、私の存在そのものを肯定し、愛おしもうとする彼女の意志そのものなのだ。

 それを理解した瞬間、私の内側で何かが音を立てて書き換わっていった。

 

 

 

__________

 

 

 

 それ以来、私はチョコを「選ぶ」ようになった。

 かつての私は、「同じ成分であれば、供給源はどこでも良い」と断言していただろう。ですが、今の私は、ソラノミの備蓄品にある最高級チョコレートを口にしても、静かに首を振る。

 

 

「……問題ありません。品質は規格外と言っていい。……ですが」

 

 

 私は、キッチンのカウンターでケイに家事の手順を教えているアカネを見た。

 彼女がこちらを向き、不思議そうに首を傾げる。

 

 

「どうかしましたか、セイカさん? そのチョコ、とっても高いものだって聞きましたけれど」

 

「……ええ。完璧と言っていい品質です。……ですが、満足できません」

 

 

 私は市販のチョコを脇に置き、立ち上がった。

 そして彼女のもとへ歩み寄り、その細い腰を後ろから静かに抱き寄せる。

 

 

「……セイカ、さん……?」

 

「……否定はしませんよ。味は素晴らしい。……ですが、私は、それ以上の『正解』を知ってしまったの。……アカネ。君の『愛情』という、定義不能な変数が加わらなければ、私の脳は、真の意味で満たされることはないようです。……たとえ『波』を使わず、エネルギーが十分であっても……私は、君の作ったチョコだけを独占したい」

 

「……。……もう、セイカさんは。……そういうことを、どうしてそんなに真っ直ぐ言えるんですか」

 

 

 アカネは顔を真っ赤にして視線を逸らしましたが、その手は私の腕に優しく重ねられていた。

 彼女が私のために時間を使い、私の体調を案じ、祈りを込めて作ってくれる。

 その「熱」こそが、今の私にとって最大のエネルギー源であり、唯一の生存戦略だった。

 

 

__________

 

 

 

 翌朝。

 リビングには、いつものように三名分の朝食が並んでいた。

 新しく「器」を得たケイが、湯気の上がるカップを置きながら、淡々と告げる。

 

 

「……お父さん、お母さん。おはようございます。……観測結果。お父さんのバイタルサイン、昨夜の特殊糖分摂取により、最適値を維持しています。……幸福指数の、著しい上昇も併せて記録」

 

 

 ケイの正確すぎる報告に、私は少し照れくさくなりながらも……隣に座るアカネを、引き寄せた。

 

 

「……ケイ。君の言うとおりだね。……私のシステムは、今、最高に安定しているわ。……この甘さがある限り、私はどのような困難に直面しても、必ずこの場所へと戻ってこられる。……ふふっ、この場所が……大好きだからね」

 

 

 そう言って、私は迷うことなく、アカネを深く抱きしめた。

 昨夜、彼女が教えてくれた「甘さの正体」。その温もりが、今も私の胸の奥を灼き続けている。

 そして、私は空いた手で、傍らに立っていたケイの白い髪を慈しむように撫で、彼女もまた、私たちの抱擁の輪の中へと招き入れた。

 

 

「……ケイ?」

 

「……ふふ、ケイも混ぜて欲しかったのね?」

 

 

 背後から伝わる、硬質ながらも温かなケイの感触。

 私とアカネ。そして、私たちの愛の結晶とも言える娘。三人の身体が重なり合い、ソラノミのリビングに一つの大きな熱量を生み出していく。

 

 

「……私も、混ぜてください。お父さんとお母さんの熱が、私のコアに伝達されています。……論理的な理由はありません。ただ、私もこうして……一つに、なりたいんです」

 

 

 ケイの声は、かつての無機質さを脱ぎ捨て、柔らかな家族の響きを帯びていた。

 私は腕の中のアカネを愛おしく抱きしめ直し、背後にいるケイの体を、空いた手で優しく引き寄せた。

 

 不器用な言葉で結ばれた心。

 そして、家族同士、手を取り合って生きていくという新しい誓い。

 

 

「……この甘さがある限り、私はどのような困難に直面しても、必ずこの場所へと戻ってこられると思うわ。……君たちがいてくれる、この『家』へと」

 

「……もう、セイカさん。ケイが見てますよ。……でも、そんなに気に入ってくれたなら、またすぐに作りますね。……おかわりの準備、いつでもできていますから」

 

 

 アカネは私の胸に顔を預け、穏やかに笑った。

 窓の外には、今日も輝く星の海。

 けれど、私たちの世界は今、この小さなリビングの中で、銀河のどの星よりも眩しく、温かな甘さに満たされている。

 

 

「……愛していますよ、アカネ。……そして、ケイも」

 

「……はい。私もです、セイカさん。……ねえ、ケイ」

 

「……はい。……私も、お父さんとお母さんを、愛しています」

 

 

 不器用な言葉で結ばれた、私たちの最適解。

 ソラノミの朝は、今日も甘い香りと共に、新しい奇跡の続きを紡いでいく。

 

 三人の声が重なり、ソラノミに、本当の意味での「家」の音が、穏やかに鳴り響いていた。

 

 

 

 

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