氷海最深部・深度六千メートルの海底に沈む宇宙戦艦ソラノミ。
その最上層に位置するラウンジの広大な展望強化ガラスの向こうには、極北の漆黒の海と、断層の底で不気味な脈動を続ける『祭壇』──そして、それを球状に覆う多次元バリアの禍々しい青紫の輝きが広範囲に映し出されていた。
重厚な静寂が漂う艦内において、そのラウンジの一角だけは、まるでミレニアムの部室がそのまま移動してきたかのような温かな賑やかさに包まれていた。
「──ねえねえ、レナ! その角度! もう少し光の剣の砲身を斜め上に向けた構えにしてよ! ほら、パッケージイラストによくある『これから冒険に旅立つ勇者』みたいなカット!」
「ちょっと、お姉ちゃん……! レナがスケッチしづらいでしょ? そんなに動かしたらアリスちゃんだってポーズを維持するのが大変じゃない」
「ふふっ、大丈夫です、ミドリ! アリスは勇者ですので、この程度の固定ポーズならあと三時間は維持可能です!」
「三時間は無理して! 明日が決戦なんだから体力温めておいてよ!」
賑やかな声を上げるのは、ゲーム開発部のモモイ、ミドリ、そして勇者として光の剣を抱えるアリスの三人だ。ソファーの隅では、部長のユズが膝の上に載せたノートPCと格闘しながら、通信・制御プロトコルの最終チェックを黙々と進めている。
そして、アリスたちの正面に座り、膝の上に広げた大きなスケッチブックに滑らかな手つきで鉛筆を走らせているのはレナだった。
「ふ、ふん……ううん、別に大丈夫よ、ミドリちゃん。アリスちゃんのあの誇らしげな表情、すごく絵になるじゃない。光の剣の重厚な金属の質感と、アリスちゃんの柔らかい雰囲気のコントラストも……すっごく素敵だと思うわ」
レナはスケッチブックから顔を上げ、柔らかく目を細めた。
かつて晄輪大祭の応援パフォーマンスにおいて、陰ながら彼女たちの晴れ舞台を支え、デザインや衣装の面で深い絆を育んだレナ。学校の垣根を越えたその信頼関係は、この極北の過酷な戦場にあっても変わることはなかった。
「出来たわよ。……どうかな?」
レナがスケッチブックをクルリと返して見せると、モモイが真っ先に身を乗り出して覗き込んだ。
「うわあぁぁっ! すごい! なにこれ、完全に超有名RPGの限定版パッケージイラストじゃん! この光の反射の描き込みとか、アリスの髪のなびき方とか……最高すぎる!」
「本当……すごく綺麗。アリスちゃんの凛とした強さが、そのまま紙の上に表現されてる……」
ミドリも感嘆の声を漏らし、ユズも画面から目を離して小さく感銘の吐息を漏らした。
「れ、レナさん……やっぱり、すごい絵の才能です……。この絵があれば、作戦前のモチベーション補正が+50%は上昇します……!」
ゲーム開発部からの大絶賛に、レナは耳の先をほんのり赤く染めながら、照れくさそうにスケッチブックを抱え直した。
「も、もう……みんな褒めすぎよ……。でも、喜んでもらえたならよかったわ。……私には戦う力も、難しい計算ができる頭脳もないけど……晄輪大祭の時と同じように、みんなの眩しい姿を、私の絵でもっと輝かせられたらいいなって……そう思っただけなんだから」
「レナ……ありがとうございます!」
アリスは胸の前で小さな手をギュッと握り締め、目をキラキラと輝かせた。
「アリスは勇者ですが、一人ではただの『攻撃力だけが高いユニット』です。背中を守ってくれるミドリとユズ、そして世界をこうして美しく描いてくれるレナ、ついでにモモイがいるから……アリスは勇者でいられるのです!」
「ちょっとアリス、さらっと私のことだけおまけみたいにって呼ぶのやめてよ!」
「モモイは『賑やかな前衛(ムードメーカー)』です!」
「扱いが雑!!」
モモイのツッコミに、ラウンジ内はどっと温かな笑いに包まれた。
明日には、キヴォトスの存亡を賭けたデカグラマトンとの決戦、そして多次元バリアへの穿孔作戦という凄絶な戦いが待っている。過酷な負荷と命のリスクが立ちはだかる現実を前にしながらも、彼女たちの間には悲壮感など微塵もなかった。
レナは鉛筆を再び手に取ると、照れくさそうに笑うモモイ、アリスの頭を優しく撫でるミドリ、そしてキーボードを叩きながら小さく微笑むユズ──その四人の姿を、一枚の新しいページへと丁寧に描写し始めた。
「……晄輪大祭の時にも思ったけど、ゲーム開発部のみんなって、本当に素敵なチームよね。それぞれ得意なことを生かして、苦手なところは補い合って……誰一人欠けてもダメな、大切なパズルのピースみたいじゃない」
レナの優しい言葉に、ミドリは愛用のスナイパーのメンテナンスの手を止め、静かにうなずいた。
「うん。……明日、アリスちゃんが光の剣で道を切り開いてくれる。だから私たちは、アリスちゃんの背中に一切の敵を近づけさせない。ユズちゃんが完璧なルートを示してくれて、お姉ちゃんがお調子者だけど一番前に立ってくれて……全員で、アリスちゃんを守るんだ」
「当然でしょ!」
モモイが胸を張り、力強く拳を突き出した。
「勇者パーティーのクリア条件は、全員無事に街に帰って勝利の宴会をすること! アリスだけに無理なんて絶対させないし、終わったらみんなで盛大にお祝いのパーティをするんだから! レナも絶対参加だよ!」
「うん、約束だからね、モモイちゃん! ……や、破ったら許さないんだから!」
レナはスケッチブックに描かれた四人の笑顔に、最後の仕上げとなる光のハイライトを描き加えた。
少女たちの固い絆と、互いを想い合う温かな覚悟。明日へ向かう彼女たちの背中に、レナの描く美しい線画が力強い祝福の光を添えていた。
__________
夜が更け、決戦へ向けた休息をとるためにモモイ、ミドリ、ユズ、そしてレナがラウンジをあとにした。
賑やかだった空間に再び静寂が戻り、外海を包む暗黒と多次元バリアの蒼い明滅だけが、ガラス窓を静かに照らしている。
静まり返った展望デッキには、二人の影が残されていた。
一人は、光の剣のケースを傍らに置いた天童アリス。
そしてもう一人はケイであった。
「……みんな、行ってしまいましたね」
アリスが窓ガラスに寄りかかりながらぽつりと呟くと、ケイは澄んだ瞳で外の多次元バリアを見つめたまま、淡々とした声で応じた。
「ええ。明日の作戦開始時刻まで、あと数時間です。睡眠および休養による生理的パフォーマンスの最適化は、戦闘継続時間において極めて重要なファクターとなります。……アリス、あなたも速やかに休息に入るべきです」
「ケイこそ、休まなくていいのですか?」
「私には睡眠という生理現象は不要です。ソラノミのメインサーバーと同期し、明日の照射における多次元演算のシミュレーションを継続することが、最も効率的な時間の使い方です」
淡々と、どこまでも計算と効率だけを口にするケイ。
だが、アリスはそんなケイの横顔を、どこか寂しげで、しかし深い温もりを秘めた瞳で見つめていた。
「……ケイ。嘘をついてはいけません」
「……嘘、ですか? 私の発言に不整合なデータは存在しません」
「存在します」
アリスはケイの前に回り込むと、まっすぐにその目を見つめ返した。
「アリスは知っています。ケイが今、ソラノミのサーバーを使って行っているシミュレーション……それは、明日スーパーノヴァを最大出力で放った際、アリスの機体にかかる過酷な負荷を……そのすべてを、ケイが自分の演算領域へ肩代わりするための計算だということを」
その言葉に、ケイの瞳が一瞬だけ大きく揺れ動いた。
「……それは、合理的な判断です」
ケイは視線を少しだけ逸らし、抑圧された声で言った。
「私は元より、アトラ・ハシースの概念そのものを制御するためのシステム……アリス、あなたというメインフレームを保護し、作戦の成功率を最大化することが私の最優先プロトコルです。私の演算領域がどれほど破壊・損耗しようとも、それは代替可能なシステム機能の劣化に過ぎません。あなたが無事であれば、作戦は完遂されます」
「『システムの損耗』ではありません!!」
アリスの強い声が、静まり返った展望デッキに響き渡った。
珍しく感情を露わにしたアリスに、ケイは目を見開き、言葉を失った。
「ケイは……代わりのきくシステムなどではありません! アリスと一緒にゲームのコントローラーを握り、クソゲーに怒り、美味しいものを食べて、セイカやアカネ、シロコと一緒にリビングで笑い合ってきた……室笠家の大切な家族です!」
アリスはギュッとケイの手を両手で握りしめた。実体化したケイの小さな手のひらからは、人間と同じ温かな体温が伝わってくる。
「セイカは言いました。『自分の意志で選べ』と。アカネは『温かいスープを作って待っている』と言ってくれました。シロコも、先生も、空見観測研究部のみんなも、ゲーム開発部のみんなも……誰も、ケイが誰かの代わりにボロボロになることなんて望んでいません!」
「アリス……しかし、それでは負荷の分散が……」
「先生はアリスに言いました。『危険になったら勇者をやめて、一人の生徒に戻って僕の後ろに隠れなさい』と」
アリスはケイの瞳を真っ直ぐに見つめ、優しく、しかし何ものにも折れない強い意志を込めて語りかけた。
「だから……ケイにも同じ約束をしてほしいのです。ケイは、アリスを守るための影の騎士です。ですが、もし明日……本当につらくて、苦しくて、壊れそうになったら……ケイも騎士としての役割を降りてください。そして、アリスと一緒に、先生の後ろに隠れてください!」
「私が……騎士を降りる……?」
「はい! 一人で負荷を背負って消えてしまうなんて、そんなの絶対にいけません! アリスが勇者で、ケイが騎士で、みんなと一緒に笑って手をつないで帰る……! それが、私たちが目指す『本当のハッピーエンド』なのですから!」
アリスの言葉が、ケイの胸の奥深く──かつてはただのプログラム回路だったその場所に、温かな熱となって染み込んでいく。
かつてのケイには理解できなかった「誰かを愛おしく思い、共に生きたい」と願う感情。
機械の論理を超えたその想いが、ケイの瞳から一筋の透明な雫となって溢れ出させた。
「……私は……」
ケイは自らの頬を伝う温かな涙に驚いたように指を触れ、そして、ゆっくりと愛おしそうにアリスの手を握り返した。
「……私は、ただのプログラムでした。ですが……お父さんや、お母さん、シロコお姉ちゃん……そしてアリス、あなたと過ごす中で……私も、みんなと一緒にあの温かな家に帰りたいと……心から願うようになっていました」
ケイの顔に、固い仮面が剥がれ落ちたような、一人の少女としての人間らしい穏やかな微笑みが浮かんだ。
「分かりました、アリス。……命令でも、計算結果でもなく……私自身の意志として、誓います。私は一人で消えたりしません。あなたと共にバリアを貫き……二人で、お父さんや先生の待つあの温かな場所へ帰ります」
__________
「ケイ……!」
アリスは弾けたような笑顔を咲かせると、ケイの手を強く、強く握り直した。
「はい! 約束です! 勇者と騎士の、絶対に破ってはいけない大切な約束です!」
展望強化ガラスの向こう側、漆黒の極北の海と、不気味に脈動する多次元バリアの光輪。
明日は、世界の命運を賭けた過酷な決戦が待っている。マルクトの覚醒によって世界が再構築されようとする圧倒的な絶望が、すぐ目の前まで迫っている。
しかし、ガラスに映る二人の少女の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。
名もなき神々の兵器として生み出され、かつては冷たい演算の中に閉じ込められていた二人の少女。
彼女たちは今、自らの意志で立ち上がり、愛する家族と仲間たち、そして温かな日常を守るために手を携えている。
勇者アリスと、影の騎士ケイ。
二人が交わした小さな、しかし何よりも固い約束は、どんな神の論理や多次元の障壁をも切り裂く、「絆」という名の絶対の力へと昇華していた。
「行きましょう、ケイ。私たちのハッピーエンドを掴み取るために!」
「ええ、行きましょう、アリス。私たちの未来へ」
蒼い光芒が二人を優しく照らし出す中、少女たちは明日訪れる決戦へ向け、静かに、そして確固たる覚悟を胸に刻み込むのだった。