上空に出現したアイン・ソフ・オウル配下の巨大ドローン群が解き放った「名もなき神」の概念力場。その禍々しい位相干渉によって、宇宙戦艦ソラノミは外部との通信網を完全に遮断され、電子の海から急速に切り離されていた。
作戦指揮区画のメインモニターをはじめとする無数のコンソールが一斉にフラッシュしたのち、激しい走査線ノイズを残してブラックアウトしていく。ソラノミが誇る過剰なまでの広域観測能力と、エリドゥを介した超高度な戦術データリンクは、今や完全に沈黙させられていた。
「……外部通信回線が完全に遮断されたわ。本艦を中心とする半径10キロ圏内の位相空間も、未知の概念力場によって完全に覆われている。……通常の通信障害ではないわね。外部から隔離すること自体が目的と考えるべきよ」
暗転したブリッジのなか、リオはコンソールの前で冷静に事態を分析しながらも、その瞳には深い警戒の色を宿していた。ヒマリもまた、車椅子の上でキーボードを叩く手を止め、不快そうに眉をひそめている。
「ふふ、見事なジャミングですね。私たちの論理構造の隙間を的確に突き、観測機器の受振素子そのものを麻痺させていますわ。これでは、どんなに優れた演算システムであっても外部のデータを取得することはできません」
ソラノミの目と耳が同時に奪われ、艦全体が停電のような暗闇と重苦しい静寂に包まれる。
だが、誰もが視界を奪われ、停電の闇に息を呑むそのただ中で──展望デッキに並び立つ二人の少女の瞳には、まったく異なる景色が映し出されていた。
「……見えます。……すごく綺麗です」
天童アリスがその紫紺の瞳を大きく見開き、漆黒の夜空を見上げる。
周囲はただの暗闇と異常な重圧感にしか感じられない不可視の空間。しかし、アリスとケイの視覚領域においては、無数の色鮮やかな情報の束、そして黄金と蒼藍に煌めく「神の権能」の波紋が、まるで夜空を泳ぐ極光(オーロラ)のように鮮明に折り重なって流れていた。
「ええ。アイン・ソフ・オウルが展開したこの干渉力場は、この世界の論理構造を麻痺させるための固有周波数で満たされています。ですが……その波形の根本にある本質は、かつて私たちが内包していたシステムと同じものです」
ケイが淡々と、しかしどこか確信に満ちた静かな声音で告げる。
敵がソラノミを完全に無力化したと確信し、絶望の切り札として放った絶対的な障壁。しかしそれは、彼女たち二人にとって未知の脅威などでは断じてなかった。
アリスは、自身の小さな掌を静かに見つめた。
かつて彼女は、世界を滅ぼすための「王女」として──アトラ・ハシースの方舟を起動し、既存の秩序をすべて無へと還すためだけに生み出された破壊の依代だった。その名もなき神々の兵器としての血筋と宿命は、逃れられない冷たい呪いのように、彼女の過去を縛りつけていたはずだった。
だが、アリスはそのあらかじめ決められていた運命を、自らの意志で脱ぎ捨てた。
ミレニアムのゲーム開発部という温かな部室で、才羽モモイや才羽ミドリ、花岡ユズといった仲間たちと笑い合い、理不尽なクソゲーに頭を抱え、美味しいお菓子を分け合う日常を手に入れた。
そして今、彼女は誰かに与えられた役割ではなく、自らの足で立つ「勇者」として生きる道を選び取っている。
「アリスは……昔、王女と呼ばれていました。世界を終わらせるための、冷たい冠を被らされるはずでした」
アリスは隣に佇むケイの手を、ぎゅっと強い力で握り締めた。
実体化したケイの小さな手のひらからは、かつての機械的な演算回路には存在しなかった、確かな人間の体温が伝わってくる。
「でも、違います。アリスは王女なんかじゃありません。モモイやミドリ、ユズがいて、ケイを優しく迎えてくれた室笠家のみんながいて……そして、いつも一緒にいてくれるケイがいます。アリスにとって勇者とは、一人で世界を圧迫する強い力のことではありません。みんなと一緒に手をつなぎ、転んでも起き上がって、未来へ進み続けるための名前です」
アリスはケイをまっすぐに見つめ、その瞳に一切の曇りのない、澄み渡った光を宿した。
「ケイ、これからもずっと……同じ道を歩み、同じ空を眺めながら、アリスと一緒にいてくれますか?」
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アリスのまっすぐで温かな問いかけを受け、ケイの胸の奥深く──かつてはただの制御プロトコルに過ぎなかった場所で、温かな鼓動のような熱が広がる。
かつてのケイは、王女に仕えるためだけの「侍女」であり、主の命令を実行し、システムを管理するためだけに存在していた無機質なプログラムだった。
しかし、今のケイは違う。
彼女は室笠家の大切な一員であり、自らの意志でアリスの隣に立ち、彼女の手を握り返すことを選んだ一人の少女だった。
「……当然の問いかけですね、アリス」
ケイはわずかに目元を緩め、愛おしそうにアリスの手を握り返した。
「私たちは、生み出された目的も、過去に与えられた役割もすべて捨て去りました。ですが……私たちの器そのものに刻み込まれた『本質』まで失われたわけではありません」
ケイは視線をゆっくりと天空へ向け、ソラノミを包み込むアイン・ソフ・オウルの力場の源泉を捉えた。
「敵が誇らしげに振るっている『名もなき神』の権能──それは、私たちが本来内包していた力の波形の残滓に過ぎません。偽りの神が、私たちの置き去りにした遺産を勝手に利用しているだけです。アリス、恐れる必要はどこにもありません。その力の正当な主は、今も昔もあなたです」
ケイはアリスの肩にそっと手を添え、静かに、しかし絶対の信頼を込めてその背中を押した。
「行きなさい、勇者アリス。その力をどう使うのかは、あなた自身の自由です。……あなたを縛りつける神など、この世界にはもう存在しないのですから」
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ケイの承認と背中を押す温かな手を受け、アリスは深く、そして穏やかに目を閉じた。
彼女が背中に背負っていた光の剣──《アトラ・ハシースのスーパーノヴァ》の超大型フレームに手をかけ、ゆっくりと引き抜く。
──その瞬間。
ソラノミの艦体を押し潰すように覆っていたアイン・ソフ・オウルの漆黒の干渉力場が、まるで意志を持ったかのように激しく波打ち始めた。
敵のジャミングによって完璧に制御されていたはずの「名もなき神」の概念波動が、アリスの纏う圧倒的な高次元の波形に共鳴し、まるで正当な主の帰還を叩える忠実な臣下のように、一斉にそのベクトルを変えたのだ。
「……応答しなさい」
アリスが静かに目を見開き、天を仰ぐ。
彼女の小さな背中から溢れ出た無数の光の粒子が、ソラノミの全周囲で急速に収束し、全宇宙を貫くかのような一本の神々しい光の柱へと組み上げられていく。
「──光よ!!」
アリスの凛とした叫びとともに、ソラノミの甲板から極大の光の奔流が放たれた。
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解き放たれた極大の光の柱は、ソラノミを閉じ込めていた深海の闇と敵の力場を瞬時に吹き飛ばし、一気に成層圏を突き抜けて電離層の遥か彼方へと到達した。
──ドォォンッ!!
天海の果てで膨大なエネルギーが全方位へと拡散し、漆黒に包まれていたキヴォトス全域の夜空に、息を呑むほどに美しい七色の極光(オーロラ)が彩られた。それは暗黒と滅亡の予感に怯えていた世界を、まるで真昼の太陽のようにまばゆい祝福の光で照らし出した。
アイン・ソフ・オウルが構築した絶対の障壁は、権能の本来の主であるアリスの圧倒的な輝きの前に、抗う術もなく瞬時に霧散していく。
その瞬間、暗転していたソラノミの作戦指揮区画で、すべての計器が一斉に息を吹き返した。
「……! 全システムの急速再起動を確認! 外部通信回路、完全復旧……! エリドゥとの回線、再接続完了しました!」
リオの驚愕と歓喜が混ざり合った声が艦橋に響く中、メインモニターに映し出されたのは、七色のオーロラを背負い、誇らしげに光の剣を構えるアリスの勇姿だった。
セイカは静かにコンソールから離れ、モニター越しに見える愛娘の成長した姿に、淡々としつつも深く温かな目を細める。
ゲーム開発部のモモイやミドリたちは「うわあぁぁっ! すごーい! アリス、めちゃくちゃ格好いいよ!!」と歓声を上げ、ユズは目を丸くしてその奇跡の光景に見入っていた。
神の冷徹な破壊の力を、仲間を守る勇者の温かな光へと完全に塗り替えてみせた瞬間だった。
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「全観測機器および通信機能、正常値を提示。……見事な手際です、アリス、ケイ」
セイカが落艦内に指示を飛ばすと、ソラノミの重厚なメインエンジンが再び凄まじい低音の推進音を響かせ、深海の水圧を押し返して急速浮上を開始する。
アリスとケイは、自分たちこそが「名もなき神の権能」を受け継ぐ正当な継承者であるという事実を、その圧倒的な輝きをもって世界へと示してみせた。もはやアイン・ソフ・オウルが如何なる妨害工作を仕掛けようとも、彼女たちの前には何の意味もなさない。
「通信データリンク完全正常。ユズが解析したバックドアの線路データ、ルート同期完了したわ」
リオの号令のもと、ソラノミは完全な機能を取り戻し、第7の預言者ネツァクの待ち受ける「鋼鉄の大陸」へ向けて、全速力での進撃を開始した。
かつての冷たい王女の冠を脱ぎ捨てた少女は、今や正当なる勇者の剣を手に、愛する家族と仲間たちの待つ未来へと、強く眩しい光の道を切り拓いていくのだった。