その日、ミレニアムサイエンススクール、C&Cの部室前は妙な静けさに包まれていた。
いつもなら、扉の向こうからネルの怒鳴り声や、アスナが何かを壊す派手な音、あるいはカリンが黙々と銃を整備する規則的な金属音が漏れ聞こえてくるはずの場所だ。しかし今は、重厚な金属の扉がただ沈黙を守っている。
「……おい、なんか変じゃねえか?」
廊下の角から現れた美甘ネルが、怪訝そうに眉を寄せた。手には掃除用具の入ったバケツ。今日はC&Cの定期清掃日だ。
「いつもならアカネの奴が『掃除の時間ですよ!』って、あたしたちを叩き起こしに来るはずだろ。なんで今日はあいつ、部室から出てこねえんだ? セイカの野郎も、今日はこっちに顔を出すって言ってたはずだろ」
「……確かに。今日は朝から二人の姿を見ていない」
カリンが狙撃銃のケースを担ぎ直し、冷静に付け加える。
「ソラノミの調整で疲れて、ここで休んでいるのかもしれないが……」
「わあ! 二人とも、部室の中でお昼寝してるのかな!?」
アスナが楽しそうに駆け寄り、なんの躊躇もなくドアの開閉レバーを握った。
「セイカちゃーん! アカネちゃーん! 遊びに来たよー!」
「おい、待てアスナ! ノックくらい――」
ネルの制止が間に合うよりも早く、部室の重厚なスライドドアが左右に開かれた。
直後、三人の鼻孔を突いたのは、いつもの硝煙や金属の匂いではない。
甘く、とろけるような紅茶の香りと……それ以上に熱を帯びた、「甘ったるい恋の空気」だった。
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「……え」
あたしの喉から、間の抜けた声が漏れた。
部室の中央にある、年季の入ったソファ。いつもはあたしがふんぞり返って作戦を練ったり、カリンが仮眠を取ったりしているその場所が、今は完全に「二人だけの世界」と化していた。
「……ふふ、セイカさん。そんなに顔を真っ赤にして。……嫌なら、もっと強く突き放してもいいのですよ?」
聞こえてきたのは、いつもの完璧なメイド、室笠アカネの声。
だが、その声音には、仲間に向ける慈愛とは決定的に違う、「恋人にだけ許された情熱」が混じっている。
ソファに深く沈み込んでいるセイカ。
その膝の上に、スカートを広げたまま当然のように跨り、セイカの首筋に顔を埋めているアカネ。
アカネの細い指先は、セイカの襟元をゆるゆると弄り、腕の付け根をなぞるように動いている。
「……っ、アカネ……もう、十分でしょ……。誰か……来ちゃう……」
セイカの声は、あたしたちの前で見せる凛とした姿とは正反対の、潤んだ、消え入りそうなものだった。顔は耳の先まで真っ赤に染まり、抵抗しようと上げているはずの手は、なぜかアカネの細い腰をしっかりと抱き寄せ、その体温を確かめるように指を食い込ませている。
「誰が来ても構いません。……今の貴女は、私だけの恋人なんですから。……ほら、もっと力を抜いて。……心拍数、すごいですよ?」
アカネがさらに深く顔を寄せ、セイカの耳たぶを薄い唇で優しく食んだ。
セイカの身体がビクンと跳ね、紫の瞳がとろんと蕩けていく。
「……ああ、もう……。貴女には……勝てないわね……」
セイカが観念したように、アカネの胸元に顔を伏せる。
まさに、キヴォトス全域が恐れる救世主が、一人のメイドの情欲に完全に屈服し、甘い吐息を漏らしている――そんな、恋人同士にしか許されない「密事」の真っ最中だった。
__________
「…………」
ドアの前で、ネル、カリン、アスナの三人は、まるでメドゥーサの盾を見たかのように石化していた。
ネルは握っていた雑巾を無意識に握りつぶし、その顔は赤、青、白と目まぐるしく変化している。怒鳴るべきか、逃げるべきか、それともこのまま気絶するべきか、脳内の演算回路が完全にオーバーヒートを起こしていた。
カリンは即座に踵を返し、壁に向かって直立不動の姿勢を取った。
「……私は何も見ていない。私は透明人間だ。ここはミレニアムではなく、深海だ……」
小声で自己暗示をかける彼女の耳は、今やネルの髪の色よりも真っ赤に染まっている。
アスナだけが、目をキラキラと輝かせ、「わああ……!」と感嘆の声を漏らしていた。
「すごいねカリンちゃん! 二人とも、すっごく仲良しだよ! 磁石みたいにくっついて――」
「バカッ! 喋るなアスナ!」
ネルが慌ててアスナの口を塞ぐが、時すでに遅し。
その物音に、ようやく「現実」が戻ってきたのか、セイカがハッと目を見開いた。
「……なっ!?」
セイカの顔が、一瞬で「死」を悟ったような青白さに、誠に勝手ながら次の瞬間には沸騰したヤカンのような真っ赤に変色する。
「ネ、ネル!? カリン!? い、いつから……そこに……!」
セイカが慌ててアカネを引き剥がそうと、ソファの上でバタバタと暴れる。
しかし、アカネは微動だにしない。
それどころか、アカネはゆっくりと顔を上げると、入り口で固まっている三人に向けて、これ以上ないほど「勝ち誇った」、極上の恋人スマイルを投げかけた。
「あら、皆様。……掃除の時間には、まだ少し早いのではないでしょうか?」
「早いも遅いもあるか! ここはあたしたちの部室だぞ!」
ネルがようやく叫んだが、その声にはいつもの威圧感がない。
「おい、アカネ! お前、何やってんだ! セイカも! その恋人と……その、不潔だぞ!」
「不潔? ふふっ。……愛し合う恋人同士が、共に過ごす時間のどこが不潔なのですか?」
アカネはセイカを離すどころか、さらに密着させ、その首筋を誇示するように抱きしめた。
「リーダー。申し訳ありませんが、あと一時間は……いえ、今日はもう、この部室は私たち二人が貸し切ります。邪魔をしないでいただけますか?」
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「……ふざけんな! あたしたちの……あたしたちの部室だぞ……!」
ネルは涙目になりながらも、アカネの放つ「恋人の余裕」とも言うべき圧倒的なオーラに押され、一歩、また一歩と後退していく。
カリンにいたっては、もはや正気を保つのが限界らしく、アスナの襟首を掴んで引きずり始めていた。
「リーダー、撤退だ。……ここにこれ以上いたら、私たちの精神が破壊される」
「でもカリンちゃん、セイカちゃんの顔、すっごく幸せそうだよ!」
「黙れアスナ! それを言うな!」
ネルは最後に、顔を覆ってソファのクッションに潜り込もうとしているセイカを一瞥し、呪詛を吐くように叫んだ。
「……覚えとけよ、お前ら! 次に会うときは、絶対にお説教だからな!」
バタンッ!
重厚なドアが、逃げるように閉じられた。
廊下を駆けていくネルたちの足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った部室。
セイカはクッションの中から顔を上げ、潤んだ瞳でアカネを睨んだ。
「……アカネのバカ。……もう、明日からネルたちにどんな顔をして会えばいいのよ……」
「ふふっ。別に、いつも通りでいいのですよ? ……ただ、『私がセイカさんの恋人である』ことを、彼女たちも再確認しただけですから」
アカネはそう言うと、セイカの額にそっと唇を寄せた。
「……セイカさん。……私を、困らせるようなことを言わないでください。……これほどまでに愛しているのですから」
「……もう、本当に……意地悪……」
セイカは文句を言いながらも、再び近づいてくるアカネの甘い香りに、抗うことができなかった。
恋人としての熱が、部室の冷たい空気を塗りつぶしていく。
その日のC&Cの清掃任務は、結局、未達成のまま終わった。
けれど、部室に残された二人の「熱」は、どんな清掃よりも徹底的に、その場所を「恋人たちの家」へと変えてしまったのだった。
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「……さて。あたしたちの神聖な部室を、ピンク色のゴミ溜めに変えてくれたのは、どこのどいつだったかなぁ?」
パイプ椅子を逆向きに座り、不機嫌そうに足を組んでいるネル。その手には、掃除用具ではなく、ミレニアムの規律違反報告書が握られています。
その目の前で、正座をしているのが、数時間前までソファで愛を語らっていたセイカとアカネでした。
「……ネル、その。悪かったわよ。少し……空気に流されたというか」
セイカは、あんなに堂々とアカネを抱き寄せていたのが嘘のように、今は視線を泳がせ、真っ赤な顔で俯いています。対照的に、アカネは背筋を伸ばし、いつもの涼しい顔で微笑んでいますが、その頬にはまだ微かに、恋人の温もりが残した熱が滲んでいました。
「『流された』ぁ? あたしがドア開けたとき、お前ら今にも……いや、思い出すだけでも腹が立つ! あたしらの部室をなんだと思ってんだ!」
「……ネル先輩、声が大きい。廊下まで聞こえる」
壁際で腕を組んでいたカリンが、冷静に――けれどやはり耳を赤くして――注意を促します。
「……それに。セイカがこれほどまでに無防備だったのは、私たちにとっても衝撃が大きすぎる。敵の前であの顔を見せたら、ミレニアムの威信は終わりだ」
「カリン、それは誤解です」
アカネが、鈴を転がすような声で口を開きました。
「セイカさんが私にあのような表情を見せるのは、私と二人きり――あるいは、気心の知れた皆様の前だからこそ。……つまり、皆様を信頼している証拠なのですよ?」
「いいから黙れアカネ! 屁理屈こねんじゃねえ!」
ネルが机をバン! と叩きました。
「いいか、セイカ! お前はあたしたちが……いや、ミレニアムの奴らが頼りにしてる奴なんだ! それが、部室のど真ん中でメイドに鼻の下伸ばして、首筋なんか食われて……あたしはな、情けなくて涙が出てくるぜ!」
「……首筋は、食べていません。少し……味わっただけで」
「アカネ、火に油を注がないで……!」
セイカが顔を覆って絶叫に近い声を上げます。
しかし、説教の「魔の手」は止まりません。
「アスナなんてな、あれ見てからずっと『セイカちゃんとアカネちゃん、どうやってくっついてたの!?』って、あたしに聞いてくるんだぞ! 教育に悪いだろうが!」
「……それは、申し訳ないと思ってる」
「謝るなら、あたしの目に焼き付いたあの『とろけた顔』を今すぐ記憶から消しやがれ! あたしは明日から、どんな顔してあんたに任務の相談をすればいいんだよ!」
ネルの言葉は、怒りというよりも、もはや「見せつけられた側」の悲痛な叫びでした。
尊敬し、背中を預ける戦友が、自分たちの知らないところで「一人の恋する少女」として完全に蕩けていた事実。それは、硬派なネルにとって、どんな不条理な任務よりも処理しきれないバグだったのです。
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一時間近く続いた説教の末、ネルは大きく溜息を吐き、書類を机に放り投げました。
「……分かった。もういい。これ以上説教してると、こっちの頭までおかしくなりそうだ」
「……許してくれるの?」
セイカが、恐る恐る顔を上げます。
ネルは不機嫌そうに顔を背けながら、ぶっきらぼうに告げました。
「許すわけねえだろ。……条件だ。今度、あたしたち全員に最高級の肉を奢れ。……それと、今後部室で二人きりになるのは禁止だ! ドアは常に五センチ開けとけ、分かったか!」
「……善処します」
「『善処』じゃねえ! 『はい』だろ!」
「……はい」
ようやく解放され、部室を出る二人。
廊下の静寂の中で、セイカは深い溜息を吐き、隣を歩くアカネを弱々しく小突きました。
「……ねえ、アカネ。本当に散々な目に遭ったわ」
「ふふっ。でも、セイカさん。……ネル先輩に怒られている時の貴女も、必死で隠そうとしている耳が真っ赤で……とても可愛らしかったですよ?」
「……もう、貴女っていう人は……!」
「おっと、五センチ。忘れないでくださいね?」
アカネが楽しげに笑い、セイカの手を、今度は誰の目も憚らずにぎゅっと握りしめました。
説教されたはずの二人の間には、まだ懲りる様子のない、甘い熱が揺らめいていました。