宇宙戦艦ソラノミの心臓部とも言える観測室は、この艦の中で最も孤独で、そして最も美しい場所だ。
周囲を覆う透過装甲の向こう側には、どこまでも深い紺青の宇宙と、名前も持たない星々の瞬きが広がっている。私にとって、ここは自らの力を振るい、無限に広がる可能性の海を凝視するための、いわば聖域だった。
計算端末の微かな駆動音と、時折響く電子音だけが室内の静寂を支配している。私はいつものように、紫の瞳を端末に固定し、流れる数列の波を解析していた。私の背中は微塵も動かず、まるで彫像のような静謐さを湛えていたはずだ。
だが、その背後に柔らかな気配が近づく。
振り返るまでもなく、私はその主を知っていた。この艦で自分の聖域に足を踏み入れることを許した存在。室笠アカネだ。
「セイカさん。少し、お休みになってはどうですか? 集中しすぎて、呼吸が浅くなっていますよ」
アカネはいつもの丁寧な、それでいてどこか見透かすような柔らかな笑みを浮かべ、私の隣に静かに腰を下ろした。私は視線を端末から外さないまま、淡々と答える。
「……問題ありません。観測データの補正は、あと数サイクルで完了します。効率を優先すれば、今止めるべきではありません」
「効率、ですか。ふふ、あなたらしいですね」
アカネはくすっと笑い、それ以上は無理に作業を止めようとはしなかった。ただ、私の横顔を、慈しむような眼差しでじっと見つめている。
私の水色髪は、星の光を反射して冷たく、けれど気高く輝いているだろう。その長い髪は私の顔の輪郭を縁取っているが、ふとした瞬間に、その隙間から覗く肌が、アカネの目にはどこか頼りなく、無防備に映っていたのかもしれない。
「セイカさん。……最近、お耳元が少し寂しそうに見えます」
不意に投げかけられた言葉に、私は初めて指を止めた。紫の瞳に僅かな戸惑いを乗せて、隣に座るアカネを捉える。
「……寂しい、ですか? 私の聴覚器官、あるいは耳の形状に、機能的な不備が発生しているという報告は受けていませんが」
「ふふ、そういう物理的な意味ではありませんよ。セイカさんはいつも綺麗な長い髪をされているから、耳が隠れがちですけれど……。何か、今のセイカさんに似合うものを付けてあげたいな、って思ってしまったんです。装飾というよりは、何か、あなたを彩るための光を」
私は無言で少し考え、再び端末に視線を戻した。横顔には、いつも通りの冷静さを張り付かせたつもりだ。
「……必要ありません。装飾品は物理的な干渉を引き起こし、演算の邪魔になるだけです。それに、私を飾ることに論理的なメリットは見出せません」
「ふふっ、本当に素直じゃないんですね。でも、今回は私の『わがまま』を聞いてくれませんか?」
アカネの声が、少しだけ低く、熱を帯びた。
「セイカさんが一人で戦っている姿を見るとき、私はいつも『無事でいてほしい』って祈っています。……あなたのその力は、あまりにも遠くまで見通せて、あまりにも多くの未来を背負ってしまうから。だから、少しだけ、私の気持ちを形にして……。あなたが戦場にいても、ふとした瞬間に『私と繋がっている』と思い出せるような、そんな印が欲しいんです」
私はそれ以上、否定の言葉を紡ぐことができなかった。
アカネの言葉は、単なる好奇心や装飾への興味ではない。それは、私という個をこの世界に繋ぎ止め、守りたいという、切実なまでの慈愛の告白だったからだ。
「…………好きにしてください。邪魔にならない程度であれば、拒否はしません」
私は顔を背け、再びキーを叩き始めた。だが、自分の耳の端がわずかに熱を持っているのを自覚せざるを得なかった。アカネは、それに気づいただろうか。
内心では、アカネが私のことをそんな風に強く、深く想ってくれているという事実が、演算回路を狂わせるほどにほんの少しだけ嬉しかったのだ。
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数日後。
私は、ミレニアム・サイエンススクールの商業エリアを一人で歩いていました。
普段、家事や艦内の管理、セイカさんとケイのサポート、そしてC&Cの任務に追われている私にとって、こうして自分の目的だけのために街を歩く時間は、少し新鮮で……どこか背徳的な高揚感を伴うものでした。
ジュエリーショップが立ち並ぶ通り。
私は一つひとつのウィンドウを、真剣な眼差しで吟味していきました。
ミレニアムらしい、最新の電力伝導金属を用いたものや、人工宝石が規則正しく並んだ幾何学的なデザインのものが多く目に付きます。
「(……これではない。これは、セイカさんには強すぎる)」
派手な大粒の宝石や、煌びやかすぎる金細工は、彼女には似合いません。
彼女が持つあの紫の瞳の理知的な美しさや、どこか浮世離れした透明感を損なうようなものは、選ぶべきではない。そう確信していました。
私は、かつてセイカさんが孤独にソラノミを動かしていた頃を思い出します。
あんなに強くて、賢くて、冷徹なふりをして。本当は、誰よりも繊細で、温もりを求めていたはずの、あの人の背中。
だからこそ、贈るものに特別な力なんて、必要ありませんでした。
「(『私を選んだ』という事実。それだけが、彼女を救う鍵になる)」
一軒の、静かな佇まいの店に入りました。
店内には、技術の粋を凝らしながらも、素材本来の美しさを活かした繊細な装身具が並んでいます。
私はショーケースの前で足を止め、一つひとつの光の粒を丁寧に見つめていきました。
「お探しのものでもございますか?」
店員さんの問いかけに、私は穏やかに微笑んで答えました。
「ええ。とても大切で、とても綺麗な人に贈るものを。……その人の瞳は夜の色をしていて、髪は星の光を溶かしたような色なんです。その人がふとした瞬間に、自分が愛されていることを思い出せるような……そんな、静かな光を探しています」
店員さんは感銘を受けたように頷き、いくつかのトレイを並べてくれました。
結晶を模したもの、雫の形をしたもの、複雑な幾何学模様。
どれも美しかったけれど、私の心に決定的な一打を与えるには至りませんでした。
そして、その店の片隅に、それはあったのです。
それは、白い光を放つ貴金属を薄く叩きだし、繊細な三日月を模した、シンプルで上品なデザインでした。
あえて左右対称ではなく、自然な月の揺らぎを写し取ったような造形。
主張しすぎず、けれど確かな存在感を持って、ディスプレイの中で静かに、けれど誇り高く輝いていました。
「……これです」
私は、そのイヤリングを手に取らせてもらいました。
指先に乗るほどの小さな三日月。
月の満ち欠けは、不完全から完全への過程を示すもの。
「(三日月は、今は少し欠けているけれど、いつか必ず満ちるもの)」
今のセイカさんも、そして私たちも、まだ未完成です。
「空見の波」という巨大な力に翻弄され、家族という形もまだ手探りな状態で、明日が見えない戦いに身を投じています。
けれど、共にあることで、いつか満月のように満ち足りた日々を迎えられるように。
たとえ今は欠けていても、その欠けた部分は、私の愛という光で埋めていけるように。
私はその両耳用のセットを、まるで宝物を扱うように手に取りました。
特別な能力を付与されたわけではない、ただの美しい金属の細工。
けれど、私が街を歩き、迷い、悩み、最終的に「セイカさんに」と決めて選んだという、この時間の集積こそが、何よりも強い「守護」の魔術になると信じて。
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店を出ると、ミレニアムの街は夕暮れに染まり始めていました。
バッグの中には、小さな、けれどずっしりと重みを感じるジュエリーボックスが収まっています。
道行く人々は、それぞれに幸せそうな顔をして、家族や友人と談笑していました。
かつてはこの光景すら、遠い世界の出来事のように感じていたかもしれません。けれど今は、私自身もその「誰かのために祈る者」の一員になれたのだという実感が、胸を熱くさせます。
「(セイカさん。これを付けたとき、あなたはどんな顔をしてくれるでしょうか)」
「似合わない」とぶっきらぼうに言うでしょうか。
それとも、無言で鏡を見つめるでしょうか。
どんな反応であれ、その耳元で三日月が揺れるたび、彼女は私の存在を意識することになります。
戦場にあって、冷徹な計算が必要なときであっても。
絶望的な未来を予見してしまいそうなときであっても。
耳元に触れるその小さな金属の冷たさが、私の手の温もりを思い出させてくれるはずです。
「(三日月は、満ちるための約束)」
私は、ソラノミへと続く帰路を急ぎました。
早く、あの静かな観測室に戻りたい。
不器用なほどに真っ直ぐで、理屈っぽくて、けれど誰よりも優しいあの人のもとへ。
夜が来れば、空には本物の三日月が昇るでしょう。
けれど、これからはセイカさんの耳元にも、決して消えることのない月が昇り続けるのです。
小さな箱に丁寧に包まれた、愛という名の光。
私はそれを大切に抱え、星の降る戦艦へと帰っていきました。
あなたに贈るべきその瞬間のために——。