ゴールデンウィーク初日。地上の暦では大型連休の始まりに沸いているらしいけれど、成層圏を漂う私の戦艦「ソラノミ」には、下界の喧騒は届かない。広大な空の只中に浮かぶこの場所は、今、いつもより少しだけ、いや、劇的にゆったりとした重力に支配されている。
リビングルームの柔らかなソファの上。私は今、アカネの膝枕というこの世で最も贅沢で、かつ抗いがたい引力を持つ場所に収まっていた。普段、私の身体を支えている重厚な外骨格も、数多の敵を灰にしてきた重火器も、そして戦艦の全機能を司る指揮権さえも、今はリビングの隅に置いている。一人の人間として、ただ最愛の伴侶の体温を全身で感じること。それが今の私に与えられた、唯一にして最大の任務だった。
アカネが私の水色の髪を、まるで壊れやすい精密回路を扱うように、指先で優しく梳いてくれる。その一つひとつの動作、肌に触れる指の温度が、私の脳内に蓄積された演算ログを甘く塗りつぶしていく。
「……セイカさん。今日は本当に、何も予定がないのですね。珍しいことです」
アカネが落ち着いた、けれど少しだけ弾んだトーンで囁く。その声に誘われるように、私は彼女の太ももの柔らかさに深く、深く頬をすり寄せた。
「……ええ。今年は、全部キャンセルしたよ。会議も、設計のデバッグも、次世代武装のテストもね。……アカネと二人で、ゆっくり過ごすことだけを確定事項にしたんだ」
効率と論理を愛する設計者として、一週間の空白を作ることは本来なら「非合理的」なはずだ。けれど、こうしてアカネの体温に触れていると、今までの自分の演算がいかに不足していたかを思い知らされる。
見上げると、アカネの白い頬が薄紅色の花が咲くように、じわりと赤くなっていくのが見えた。
「ふふっ……嬉しいです。私も、セイカさんとずっとくっついていたい気分でした。連休という概念に、これほど感謝したことはありません」
アカネが私の頭をそっと両手で包み込むように抱きしめ、額に柔らかなキスを落とした。私は幸せな溜息を吐き出し、彼女の細い腰に腕を回して、子供のようにぎゅっと抱きつく。
「……アカネの匂い、好き……。温かくて、一番安心するんだ……」
「あら。私の匂いですか? ただの洗剤や紅茶の香りではなく?」
「違うよ。洗剤でも紅茶でもない、アカネっていう、私の世界で唯一の『安らぎ』という名の定義だ」
我ながら直球すぎるけれど、偽らざる本心だ。アカネの心臓が甘く、少しだけ速く跳ねる音が、耳元を通じて私に伝わってくる。
私たちはそのまま、互いの体温を確かめ合うように長く抱き合っていた。言葉のない唇が何度も重なり、彼女の指先が私の耳元を優しく撫でるたび、自我が蕩けていくのを感じる。かつて戦場で、あるいは深層意識の最深部で振るっていた冷徹な威厳なんて、もうどこかに忘れてしまった。私はアカネの胸に顔を埋め、自分でも驚くほど甘えた声を出していた。
「……もっと、ぎゅってして……。今日は一日中、一秒だって離れたくない」
「はい。離しません。たとえソラノミが緊急事態に陥っても、今の私の最優先事項は、この腕の中にあるのですから。……セイカさんが私のものだって、ちゃんと確認しておかないと……」
アカネがくすくすと落ち着いた声で笑い、私を折れそうなほど強く抱きしめ返してくれた。その腕の力強さが、私には何より心地よかった。
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午後になると、私たちは連れ立ってキッチンに立った。今日のアクティビティは「クッキー作り」。精密機械を組み上げるよりも遥かに不確定要素が多く、けれど材料の配合一つで結果が変わる、幸福な化学反応。
アカネが手慣れた手つきで生地をこねている。彼女の所作はいつだって無駄がなく、美しい。その横顔を眺めているだけで時間は過ぎてしまうけれど、私はもう我慢できなくなって、後ろから彼女の身体を抱きしめた。エプロンの紐の上から回した腕で、彼女の体温を独り占めする。
「……アカネ、本当にかわいいよ。そのエプロン姿、すごく好きだ。私だけのメイド、っていう感じがして」
「……っ、セイカさん。今は作業中ですよ。粉が飛んでしまいますから」
そう言いながらも、アカネは私を拒む素振りすら見せない。むしろ、私の腕に自分の腕を重ねるようにして、背中に預けられた私の体重を受け止めてくれている。私は彼女の首筋に顔を寄せ、くすぐったがる耳元に熱い吐息を吹きかけながら、さらに言葉を重ねる。
「いいじゃない、今日は休みなんだから。エラーもバグも、今日だけは許容範囲。……ねえ、アカネ。こっち向いて」
アカネが困ったように、けれど幸せを隠しきれない慈愛に満ちた表情で振り返る。私はその瞬間を逃さず、彼女の唇を塞いだ。バターと砂糖の甘い香りが部屋中に漂う中で、私たちは生地をこねる手も止めて、何度も、深く接吻を交わす。
「……セイカさんこそ、今日は本当の甘えん坊さんですね。……ふふ、でも、いいですよ。もっと、私に甘えてください。今日は、甘やかすことだけが私の任務です」
焼き上がったクッキーは、形こそ少しだけ不揃いだった。観測士としての私なら、規格外品として弾くところかもしれない。けれど、二人で笑いながら、熱々のそれを半分こにして食べた味は、どんな精密な計算によって導き出された黄金比よりも、圧倒的な「正解」だった。
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夜が訪れて、私たちはリビングの照明を落とし、プロジェクターの大画面で映画を見ることにした。窓の外には、成層圏から見下ろす宝石を散りばめたような夜景が広がっている。地上の光の波は美しいけれど、私の視界には隣に座る愛しい彼女の横顔しか映っていない。
私はアカネの肩をしっかりと抱き寄せ、彼女は私の広い肩に頭を預けてくる。画面の中では大作映画のクライマックスが流れている。派手な爆発や、感動的なセリフがスピーカーから響いているけれど、正直なところ、私の脳にそのプロットは一行も入力されていなかった。
「……このシーン、主役はどうなるんでしたっけ」
「……さあ、どうだろう。アカネの髪が綺麗すぎて、画面を見ていられなかったよ。隣にこんなに魅力的な存在がいるのに、映画に集中しろっていう方が非論理的だ」
私が彼女の耳たぶを優しく甘噛みすると、アカネは身を縒らせて、私の首筋に腕を回してきた。映画の劇伴が最高潮に盛り上がる中、私たちは物語の結末も見届けないまま、何度も、何度も、互いの存在を確認するように深く唇を重ねた。
「……セイカさん」
「……ん?」
「……大好きです。この世のどんな論理よりも、私の命よりも、あなたを愛しています。私を室笠として置いてくれた、あなたを」
アカネの真摯な、けれど熱情を孕んだ告白。その言葉が胸に深く突き刺さって、愛おしさが爆発しそうになるのを堪えながら、私は彼女をさらに強く抱きしめた。
「……私もだよ、アカネ。君という変数が存在しない世界なんて、私にはもう設計できない。大好きだ」
成層圏の静寂の中に、ただ二人だけの、溶け合うような甘くて温かい空気。私はもう、エンディングロールすら見ていないアカネの胸に、深く、深く顔を埋めた。
「……今年のGWは、私の人生で最高の『確定事項』になったよ……」
幸せな余韻に浸りながら呟くと、アカネは愛しさに目を細めて私を抱きしめ返し、穏やかに、けれど揺るぎない確信を持って微笑んだ。
「……ええ。私も、一生忘れられないゴールデンウィークです。……明日も、明後日も、その先も。ずっとこうしていましょうね、セイカさん」
地上の光がゆっくりと流れていく中で、私たちの鼓動だけが、重なり合いながら幸せなリズムを刻み続けていた。
ゴールデンウィークはメインと幕間を一個ずつ出していく予定です。
幕間は間に合えばになりますけど……