ミレニアムサイエンススクールの奥深く、喧騒から切り離された特異現象捜査部の部室。そこは、論理と神秘、そして明星ヒマリの「超天才的」な自負が渦巻く、学園内でも有数の特異点であった。
西日が窓から差し込み、無機質な精密機器の隙間をオレンジ色に染めている。その光の中に、二人の少女がいた。
一人は車椅子に深く腰掛け、自らの知性を謳歌するように端末を操作するヒマリ。
そしてもう一人は、その傍らで一分一秒の狂いもなく端末と向き合うセイカである。
二人は簡単な言葉では括れない、奇妙で、それでいて強固な友人関係にあった。
__________
「セイカちゃん。先ほどからあなたが入力しているその数式の羅列、少しばかり美しさが欠けているとは思いませんか?」
ヒマリが、手元のカップに映る自分の顔を確認しながら、わざとらしく溜息をついた。私は指を止めない。背後にある重厚な舵輪状のヘイローが、思考の加速に合わせて微かな熱を帯びている。
「……ヒマリ。美しさは、結果に宿るもの。……今の計算は、ノイズを排除するための『添削』。……美醜を論じる段階じゃない」
「おやおや、相変わらず冷徹ですね。ですが、私の超天才的な感性によれば、論理の美しさと結論の正しさは常に等価であるべきなのです。あなたが今追っているその『重力変動の特異点』……。そこにあるのは、単なる数値のバグではなく、世界がこぼした『溜息』のようなものだとは思いませんか?」
私は、顔を上げた。私の瞳には、ヒマリの言葉を否定する色も、肯定する色もない。ただ、同じ景色を見つめる者への、微かな信頼だけをそこに置く。
「……世界は、溜息なんてつかない。……ただ、不条理な事象がそこに積み重なっているだけ。……私は、それを一分の隙もなく観測して、解体する」
「ふふ、それこそがあなたの不器用な優しさというわけですね。不条理を許容できず、すべてを解き明かして秩序を与えようとする。……私とあなたは、確かに似ています。ただし、私はその不条理さえも『美しく』飾り立てて、自らの知性のスパイスにしてしまいますが」
ヒマリは車椅子を滑らせ、私の隣まで移動した。
二人の視線が、一つのメインディスプレイに重なる。
そこには、キヴォトス全域の観測データから抽出された、微細な「空間の歪み」が可視化されていた。
「この特異点、放っておけばセミナーが血眼になって介入してくるでしょうね。リオなら、おそらくこれを『計算不能な脅威』と断じて、箱の中に閉じ込めようとするはずです」
「……リオなら、そうする。……でも、閉じ込めても解決しない。……歪みは、いつか外に溢れる」
「ええ、その通りです。だからこそ、私たちが必要なのです。誰も見ようとしない、あるいは見ることさえできない深淵の端っこで、こうして放課後にお茶を飲みながら、世界の綻びを繕う……。これほど知的で、これほど『超天才美少女』にふさわしい役回りがあるでしょうか?」
ヒマリは誇らしげに胸を張った。私はただ静かに、端末のエンターキーを叩く。
「……ヒマリ。……お茶、冷めてる。……淹れ直してくる」
「あら、気が利きますね。では、私の体調を考慮して、カフェインを抑えた特別なブレンドをお願いできますか?」
「……わかってる。……ヒマリは、いつも注文が多い」
私は椅子から立ち上がり、給湯コーナーへと向かう。ヒマリが私の後ろ姿を黙って見送っているのを感じる。私と彼女の間に流れるのは、馴れ合いじゃない。互いの知性が、互いの孤独を認め合っているからこそ成立する、静謐な調和。
数分後、部室にはハーブの柔らかな香りが満ちていた。私が差し出したカップを受け取り、ヒマリはその一口をゆっくりと味わう。
「……ふむ。完璧です。温度、香り、そして注がれたタイミング。一分の隙もない、素晴らしいおもてなしです。やはり私の友人は、何をさせても超一流ですね」
「……ただ、アカネに教えてもらった通りにしただけ。……ヒマリ。さっきの歪みの話……」
「わかっています。私が観測網をダミーデータで偽装しておきましょう。特異現象捜査部が『ただの計測器の故障』として処理すれば、セミナーも手出しはできません」
「……助かる。……これの観測は、私にしかできない」
私は再びコンソールに向かおうとしたが、ヒマリが私の袖をそっと引いた。
「少し、休みましょう。星を観るのがあなたの仕事ですが、時には足元の花や、隣にいる友人の顔を観るのも、立派な観測ですよ」
私は一瞬だけ足を止め、それからゆっくりとヒマリの向かいの椅子に座り直した。
「……ヒマリの顔、結構見てる。……昨日より、少しだけ血色が良さそう」
「あら、よく見ていますね。今日の私は、自らの美しさに磨きをかけるために、朝から念入りに鏡と対話してきましたから。……あなたのその鋭すぎる観察眼も、たまには私を褒めるために使ってみてはどうですか?」
「……天才。……病弱。……美少女。……これで満足?」
「ふふ、棒読みなのが気になりますが、合格点としておきましょう」
窓の外では、太陽が完全に沈み、キヴォトスの空に星々が瞬き始めていた。地上の喧騒が遠ざかり、部室の中は私と彼女の知性だけが響き合う静かな空間へと変わっていく。
「セイカちゃん。あなたはいつか、この地上の引力を振り切って、もっと遠くへ行ってしまうのでしょうね」
ヒマリがふと、独り言のように呟いた。その言葉には、寂寥感よりも、未来を予見する者の確信が混じっていた。
「……私は、どこに行っても、観測を続けるだけ。……星を観て、一分の隙もない明日を計算する」
「ええ、そうでなくては。たとえあなたが宇宙の果てまで行ったとしても、私の知性があなたの座標を見失うことはありません。……私たちは、そういう契約を交わしたはずですからね」
「……契約なんて、してない。……ただの友達でしょ」
私は少しだけ顔を背けて、そう言った。ヒマリは驚いたように目を見開き、それから今日一番の、心からの笑顔を見せた。
「……ええ。その通りです。ただの、最高に知的な友人同士。それ以上に強固な論理は、この世界には存在しませんね」
夜の帳が降りた特異現象捜査部。私と彼女は、冷めかけた紅茶の香りに包まれながら、明日という名の不条理をどう美しく解体するか、尽きることのない対話を続けていた。