未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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エデン条約編はじまりはじまり





エデン条約編I
偽りの終止符、真実の回収


 

 

 

 宇宙戦艦ソラノミの静寂の中、深い眠りに落ちた私の意識は、物理的な次元を離れ、境界のない「夢」の領域へと沈んでいった。

 水色の髪をたゆたわせ、無意識の底を漂う私の前に、光の粒子が収束し、一人の少女が姿を現す。

 

 百合園セイア。

 かつて同じ予知的領域の深淵で言葉を交わした恩人は、静かな佇まいでそこに立っていた。

 

 

「……やあ、セイカ。……ふふ、そんなに驚かなくてもいいだろう? ここは君の意識の深層だ」

 

 

 セイアは超然としたトーンで微笑む。私は彼女に向き直り、一歩踏み出した。耳元には、現実世界でアカネから贈られた「白い三日月」が、精神体の一部として確かな光を放っている。

 

 

「……セイア。あなたに感謝を。前回の事象……私が『空見の波』を酷使し、自分自身という座標を見失いかけたとき。君が示した『沈黙』と『光』がなければ、私は今もあの暗黒の海を彷徨っていたでしょう」

 

 

 私は深々と頭を下げた。合理性を重んじる私が、その合理性を超えた場所で受け取った「愛」という名の奇跡。それを繋ぎ止めてくれた彼女への、最大級の敬意。

 

 

「君のおかげで、私は不確かな、けれど温かな今日を選択できた。……君がいなければ、私は家族の温もりさえ知らずに消えていたはずです」

 

 

 だが、セイアの瞳に宿ったのは、祝福ではなく冷徹で哀しき「予知」の光だった。

 

 

「……ふふ、律儀だね、そうだセイカ。そうだ、去り際にもう一つ、私の見た『断片』を預けておこう。……私は先ほど、一つの不吉な夢を見た。……誰かが、私の命を狙っている」

 

 

 夢の中の静寂が、一瞬にして凍りついた。セイアの声は冬の夜風のような鋭さを帯びる。

 

 

「……それは、限りなく現実に近い色彩をしていた。暗い回廊、響き渡る爆破の余韻。……私の意識が、強制的に断絶させられる瞬間の感覚だ。……もし、私の声が届かなくなるときが来ても、君は君の信じる『今』を手放してはいけないよ」

 

 

 彼女は「その時が来たら、君の戦艦の扉を叩くかもしれない」と、消えゆく光の中で微かに笑った。

 だが、そんな非論理的な楽観を、私が許容するはずがない。

 

 

「……待ちなさい、セイア! そんな未来、私が認めない。……ソラノミに来なさい。この艦の内部に君の因果を秘匿すれば、外部からの干渉はすべて私がパージしてみせる!」

 

 

 私の叫びも虚しく、夢の境界は白く溶け、意識は急速に現実へと浮上していった。

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた瞬間、私の心臓は激しく鼓動していた。

 隣で眠るアカネの体温、ケイの規則的な駆動音。この「平和」の中に、死の予兆が冷たい棘のように突き刺さっている。

 

 

「……システムは必要ありません。ただ、私が『視る』。それだけで十分です」

 

 

 私は観測室へ向かい、椅子に深く腰掛けた。

 私という存在に直結した固有の権能——「空見の波」を、全出力で解き放つ。

 

 

 

ガコン

 

 

 脳内に爆発的な情報の濁流が流れ込む。数千万という住人の可能性の残像を、力任せに剥ぎ取っていく。

 『拒絶。神秘による隠蔽を確認』

 何者かが仕掛けた、あるいは歴史そのものが持つ古い神秘の防壁が、私の干渉を拒もうと立ち塞がる。

 

 

「……邪魔です。どきなさい」

 

 

 私は論理的なバイパスなど探さない。思考の指先で、因果の壁を直接引き裂いた。

 水色の髪が逆立ち、耳元の三日月がキィィィンと悲鳴を上げる。肌を灼くほどの熱。だが、構わない。

 

 

「見つけた……!」

 

 

 紫の瞳をカッと見開いた瞬間、私の視界はソラノミの壁を透過した。

 どれほどの距離、どれほどの秘匿に隠されていようと無駄だ。彼女の魂の波動、揺らぐ因果の糸——その特異点を、私は今、完全に捉えた。

 

 

「座標、固定。……逃がしませんよ、セイア」

 

 

 私は立ち上がり、虚空を掴むように手を伸ばした。「空見の波」はもはや観測を越え、彼女をソラノミの座標へと引き寄せる「引力」へと変質していた。

 

 

「アカネ、ケイ! 居住区の予備電源をすべて維持に回しなさい! 私が『ここにいる』と決めたからには、彼女はもう、そこにはいられません!」

 

 

 セイア。君がどれほど孤独な運命に殉じようとも、私はその運命ごと君を誘拐する。

 未来を視る力など、未来を創る私の我儘の前では、無力であることを思い知りなさい。

 

 耳元の三日月が、冷たい月光のような輝きを放ち、私の狂気を静かに肯定していた。

 これは救済ではない。

 ソラノミという名の鋼鉄の翼による、一方的な「運命の拉致」の始まりだった。

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ、これが、私の視た……終止符か……」

 

 

 トリニティの古い学舎の一室。白州アズサとの対話を終えた直後、アリウスによる急襲が現実のものとなった。

 

 爆風によって吹き飛ばされたセイアは、焼け焦げた床に横たわりながら、薄れゆく視界で天井を見上げていた。肺を満たすのは熱い煙。遠のいていく意識のなかで、彼女は自分の運命がここで途切れることを悟り、静かに目を閉じようとする。

 

 しかし、その瞬間。空間が水面に石を投じたように、不自然に波打った。高度数万メートル。全領域ステルスを展開し、キヴォトスのあらゆる知覚網から姿を消している宇宙戦艦ソラノミ。

 そのブリッジで、セイカは紫の瞳を鋭く光らせていた。

 

 

「……因果の断絶、および物理的衝撃を確認。……今です、アカネ。火事場泥棒のように、鮮やかに彼女を奪いなさい」

 

 

 セイカの指先は、すでにトリニティの全監視網に介入していた。爆発のノイズを利用して「百合園セイアの生体反応が消失した」という偽のデータを、一秒の狂いもなく全システムへ上書きしていく。

 

 爆煙が渦巻き、アリウスの襲撃者たちが混乱のなかで戦果を確認しようとしたその刹那。焼け落ちた部屋のなかに、場違いなほど優雅な、けれど全く見覚えのないメイドの影が降臨した。

 ソラノミから単身降下した、室笠アカネである。

 

 

「……お迎えにあがりましたよ、セイアさん。……少しばかり、騒々しい夜になってしまいましたね」

 

「……だ、れ……だ? 君は……」

 

 

 血の気の引いた顔で、セイアは困惑に目を見開く。自分を抱き上げたその女性が何者なのか、その知性をもってしても、どれだけ記憶を辿ってもわからない。

 しかし、アカネは敵意を微塵も感じさせない完璧な微笑みを向け、セイアの体を赤子を扱うように優しく、けれど迅速に抱き上げた。

 

 周囲では、爆発に気づいた生徒たちが悲鳴を上げて駆け寄ってくる。しかし、ステルスフィールドに守られた二人の姿は、誰の瞳にも映らない。カメラも、神秘も、そして運命さえも、今の彼女たちを捉えることはできない。

 

 

「セイカさんの計算通り。これより『幽霊』を聖域へ護送します」

 

 

 アカネが短く囁くと、二人の姿は夜の闇に溶けるように、空へと吸い込まれていった。

 

 

__________

 

 

 ソラノミの医療区画。滅菌された静寂のなか、私の懸命な処置を受けたセイアが、ゆっくりと目を開けました。

 

 彼女の視界に飛び込んできたのは、無機質な戦艦の天井。そして、彼女を見下ろす私たち三人の姿。

 

 私、セイカ。彼女を救い出した、我が愛しきメイドのアカネ。そして、その傍らに佇む、冷静な眼差しを湛えた私の娘、ケイ。

 

 

「……気がつきましたか。私の恩人にして、最も非論理的な予言者」

 

「……セイカ。……私は、死んだはずでは……。それに、彼女たちは……?」

 

 

 私は自らの耳元に触れました。そこには、アカネが私に贈ってくれた「三日月のイヤリング」が、誇らしげに揺れています。

 

 

「彼女は室笠アカネ。そしてこちらは室笠ケイ。二人とも、私の大切な……この艦の家族です」

 

 

 私の言葉に応えるように、ケイが一歩前に出ました。彼女は表情を変えぬまま、真っ直ぐにセイアを見つめます。

 

 

「初めまして、百合園セイア。私は室笠ケイ。あなたの生体反応、および因果のバイタルを確認しました。現在、外部の世界において、あなたは『死亡』したと定義されています。ソラノミの秘匿能力により、あなたがここにいる事実は、あらゆる観測者から隠蔽されています。……安心して、休息してください」

 

「……死亡、したと。……そうか。君たちは、世界の理さえも欺いたというのかい」

 

 

 私は窓の外、眼下に広がるトリニティの街を見下ろしました。

 全領域ステルスによって、ソラノミは再び夜空の一部となり、誰にも知られぬ孤独な航行を続けています。

 

 

「ここでは、君の死は観測されず、したがって存在しません。……君が視た『死の予知』など、私が力技でねじ伏せてあげました」

 

 

 アカネが穏やかな香りの紅茶を差し出し、丁寧に頭を下げます。

 

 

「改めて、初めましてセイアさん。精一杯おもてなしさせていただきますよ。……しばらくは、この『宇宙船』で静養していただきます」

 

「栄養バランスを考慮した食事の準備も、私が手伝いました。完了しています」

 

 

 ケイの淡々とした、けれど温かな補足。それを受けたセイアは、困惑したように、しかし心底安堵したように息を吐きました。

 家族という名の「我儘」が、残酷な運命を書き換えてしまったことを、彼女も理解したのでしょう。

 

 

「……ようこそ宇宙戦艦ソラノミへ、セイア。君の新しい物語は、この星の海から始まります」

 

 

 夜明け前の静かな艦内で、私の耳元の三日月は、この勝利を祝うように美しく輝いていました。

 

 

 

 

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