セイアは、差し出された白湯を一口飲み、ベッドの傍らにたたずむ少女へと視線を向けました。ケイは感情の読み取れない無機質な瞳で、セイアのバイタルモニターをじっと見つめています。
「……ふふ、驚いたな。セイカの傍らに、これほどまでに純粋な『意志』の器がいるとは。君は……この艦の家族、だったね」
ケイは視線をモニターから外さず、淡々と、けれど誇りを持って答えました。
「肯定します。初めまして、百合園セイア。私は室笠ケイ。この艦における生活維持、および外的脅威に対する防衛プロトコルの実行を担当しています。心拍数は安定していますが、脳波に乱れがあります。安静を推奨します」
「……室笠、ケイ。……そうか、君はアカネの苗字を継いでいるのだね。……ケイ、君に聞きたいことがある。君たちは、私が『死ぬ』という確定した未来を、どうやって否定したんだい?」
セイアの問いに、ケイは初めてその瞳を彼女へと向けました。
「それは、お父さんの『我儘』です。……そして、私の『優先事項』です」
「……お父さん? ……ああ、セイカのことかい」
セイアは思わず目を細めました。あの超然としていたセイカが「お父さん」と呼ばれ、家族の中心にいるという事実に、夢の中では知り得なかった彼女の「変化」を強く実感したからです。
「はい。お父さんは、あなたが失われることを論理的に拒絶しました。そして私は、お父さんが望む『幸福な環境』を維持することを目的としています。あなたが欠けることは、お父さんにとって、そして私たち家族にとって計算不能な
「……ふふっ、予言者泣かせの言葉だ。君たちにそう言われると、保存されるのも悪くないと思えてくるよ。……キヴォトスの誰もが私を失ったと定義する中で、君たちだけが私を『ここに在る』と認めてくれた。それは、どんな詩篇よりも美しい福音だ」
「福音……その単語の定義は理解していますが、私には過分な評価です。私はただ、お父さんの大切なものを、あるべき場所に置いただけです。……お代わりが必要ですか?」
「ああ、頼むよ。……ありがとう、ケイ。君たちが私の手を引いてくれたおかげで、私はまだ、この不確かな世界の続きを観測できそうだ」
ケイは無言のまま、セイアのコップを受け取りました。その指先が触れた瞬間、セイアは気づきます。彼女の体温は、お父さんやお母さんと同じように、確かに「生きて」温かいことに。
「……礼には及びません。……それが、家族というものの定義であるとお父さんから教わっていますから」
ケイは背を向け、ポットへと歩き出しました。その小さな背中には、お父さん——セイカと、お母さん——アカネが作った「新しい世界」を支える、揺るぎない覚悟が宿っていました。
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セイアの体が回復し、艦内を歩き回れるようになってからも、彼女が最も多くの時間を過ごしたのは観測室だった。
そこには、室笠ケイが実体を持って座っている。ケイは膨大な艦のステータスを監視し、セイアは窓の外に流れる事象の地平線を見つめていた。
「……ケイ。君は飽きないのかい? ただ数字の羅列を見つめ、変化しない現実を保守し続けることに」
セイアの問いに、ケイは視線を向けずに答える。
「退屈という概念は、私の論理回路には優先順位が低く設定されています。お父さんの居場所を守る。その目的に対して、倦怠が入り込む余地はありません」
「……ふふ。かつてのセイカを見ているようだ。けれど、君の言葉には彼女がかつて持っていなかった『熱』がある。……家族への愛という、非論理的で強力な出力がね」
セイアは隣に座り、ケイの操作するコンソールを覗き込んだ。それは、キヴォトス全域のニュース。そこには「行方不明の百合園セイア」を探すトリニティの混乱が映し出されていた。
「世界は、私を失ったものとして扱っている。……少しばかり、胸が痛むね。私の『不在』が、誰かの未来を歪めているのではないかと」
セイアが零した弱音に、ケイの指が初めて止まった。ケイは椅子を回転させ、正面からセイアを見つめる。
「百合園セイア。あなたは、自分が『欠落したデータ』であると考えていますか?」
「……客観的に見れば、そうだろうね」
「否定します。……私もかつて、自分を『名もなき王の道具』であると定義していました。お父さんに拾われ、名前を与えられるまで、私の座標は世界のどこにも存在しませんでした。……今のあなたは、あの時の私と同じです。座標がないのなら、新しく作ればいい」
ケイは小さな手を伸ばし、セイアの膝の上に置いた。
「お父さんが言いました。家族とは、互いの存在を確定させるための『観測者』であると。……世界があなたを見失っても、私がお父さんの隣であなたを視ています。室笠ケイという個体にとって、百合園セイアは『現存する重要友人』として記録されました」
セイアは目を見開いた。予知という絶対的な視点を持つ彼女にとって、「誰かに存在を確定される」という受動的な救済は、何よりも新鮮な衝撃だった。
「……重要友人、か。君のデータベースは、随分と思い切った分類をするのだね」
「はい。お父さんが私にしてくれたことを、私はあなたにコピーしているだけです」
セイアはふっと笑い、ケイの手を優しく握り返した。
「ならば、私も君を『定義』し直さなければならないな。……ケイ。君は、私にとっての救済者であり、そして……初めてできた、この星海での『友達』だ」
『友達』。
その言葉が紡がれた瞬間、ケイの瞳が微かに揺れた。
「……友達。……その単語の処理には、通常の数倍のメモリを消費します。……ですが、不快なエラーではありません。むしろ、非常に安定した出力です」
ケイは無機質な表情を崩さなかったが、その頬は微かに桜色に染まっていた。
それからというもの、観測室からは二人の話し声が絶えなくなった。
難解な哲学や予知夢の解釈を語るセイアと、それを冷徹なまでに合理的な視点でぶった斬るケイ。
「ケイ、この詩篇の意味をどう思うかい?」
「非効率な言語の羅列です。ですが……お父さんが好きそうな響きですね」
その様子をドアの隙間から覗いていたセイカは、耳元の三日月を揺らしながら、隣に立つアカネに微笑んだ。
「……どうやら、私の計算以上にソラノミの『家族』は拡張性が高いようです。……ふふ、嫉妬してしまいそうですよ」
「あら、セイカさん。私たちの娘に、素敵な親友ができたのですから。今夜はお祝いにしましょうか」
ステルスに守られた見えない戦艦。
世界から忘れられた少女と、世界を護る少女。
二人の「友達」が奏でる新しい音色が、星空の向こうへと静かに響き渡っていった。