未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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呼び声は事象の地平を超えて

 

 

 

 ソラノミの観測室は、外界の喧騒から切り離された静寂の底に沈んでいた。全領域ステルスによって空の一部と化したこの場所は、キヴォトスのあらゆる理から解き放たれた、私たち家族だけの聖域だ。

 

 しかし今、その静寂は、私の前に座る一人の少女——百合園セイアが放つ、目に見えない「震え」によって激しく波立っていた。

 

 私は、耳元の三日月を微かに揺らしながら、彼女の正面に腰を下ろした。

 

 

「失礼いたします。セイアさん、少し熱めですが、こちらを」

 

 

 凛とした声と共に、アカネが静かに歩み寄った。彼女の手元には、湯気を立てる磁器のカップ。最高級の茶葉の香りが観測室の無機質な空気を一瞬だけ和らげる。だが、セイアはその芳香を楽しむ余裕すら失っていた。彼女の指先はカップを掴んだまま白く強張り、その瞳には、現実の景色ではなく、今もなお彼女の精神を焼き続けている「あり得べき地獄」が、逃れられぬ残像として投影されている。

 

 

「お気になさらず。今は喉を湿らせるだけでも十分ですよ。……セイカさん、彼女の心拍数が上昇したままです。あまり追い詰めないであげてくださいね」

 

 

 アカネが私の肩にそっと手を置き、釘を刺すように微笑む。私はそれに応えるように頷き、再びセイアへと向き直った。

 

 

「……セイア。君のバイタルは、依然として深刻な高負荷状態にある。脳波の励起は、通常の観測限界を二十パーセントも超過している。意識をこちら側へ固定しなさい。何を視たのか、感情という不純物を排し、論理的な事象として記述するの」

 

 

 私の冷徹な、けれど彼女の魂を現実に繋ぎ止めるための杭となるような問いかけに、セイアは重い唇をゆっくりと、苦痛に耐えるようにして開いた。

 

 その声は、かつての超然とした予言者のものではなく、ただ一人、世界の終わりを最前列で観測してしまった生存者の、震える独白だった。

 

 

「……セイカ。私の視る未来は、これまで常に『可能性』の断片に過ぎなかった。不確実で、曖昧な、霧の向こう側に揺らめく不確かな影。だが、今度は違う。これは、誰かの確固たる殺意と逃れようのない悪意によって綴られた、あまりにも完成度の高い、逃げ場のない譜面だ。一度演奏が始まれば、指揮者が死ぬまで止まらない、死の舞踏曲だよ」

 

 

 彼女が語り始めたのは、エデン条約を舞台とした、無慈悲な終焉の記録だった。

 

 

「……まず、沈黙が訪れる。古聖堂に響き渡る誓いの言葉。トリニティとゲヘナ、両校の数千年にわたる憎しみの歴史に、形ばかりの終止符を打つはずだったその神聖な瞬間を、物理的な破壊——暴力的な爆炎が塗り替える。空からは、人の意志も、神への祈りも嘲笑うかのような巡航ミサイルが降り注ぐ。それは決して偶然の産物でも、不運な事故でもない。徹底的に計算され、最適化された、最大効率の絶望だ。命中精度は百パーセント。避難なんてする前に、すべてが瓦礫に変わる」

 

「……巡航ミサイル、ですか。随分と大掛かりな仕掛けを用意したようですね」

 

 

 アカネが私の隣で、ティートレイを抱えたまま目を細めた。その瞳には、メイドとしての優しさとは別の、冷徹なプロフェッショナルの光が宿る。

 

 私は黙ってコンソールを叩き、彼女の脳波から直接、視覚イメージをデジタル・データとして吸い上げ始めた。モニターに映し出されるのは、崩落する古聖堂の白亜の尖塔、そして逃げ惑う生徒たちの悲鳴。だが、それは序曲に過ぎなかった。

 

 

「……ナギサは、友を疑い続けた自責の念の中で、心の拠り所を失い倒れる。ミカは、自らの『我儘』が招いた取り返しのつかない惨劇の重さに耐えきれず、自暴自棄という名の憎悪の海へと沈んでいく。アリウスの影が、腐敗したキヴォトスの心臓部を蹂躙し、平和という名の幻想は、内側から修復不可能なほどに腐り落ちていく。救済を求める声は爆風にかき消され、後に残るのは、誰のものでもない血と、救われなかった魂の残骸だけだ。……これが、エデン条約という喜劇の裏に隠された、真実の終着駅だよ、セイカ。……私は、これを止める術を持たない」

 

 

 セイアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは予知者としての敗北感ではなく、ただ一人の少女としての、友を想うあまりに純粋な、あるいはあまりに無力な悲鳴だった。

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が視たイメージを、私はリアルタイムでソラノミのメインプロセッサに流し込み、シミュレーションを開始した。紫色のグリッドが空間を満たし、無数の「IF」が高速で演算され、事象の分岐を検証していく。私の視界には、数千、数万通りの「滅びのパターン」が光の速さで流れていく。

 

 しかし、そのどれもが、残酷な一点に収束していた。

 

 

「……認めざるを得ませんね。セイア、君が視た地獄は、現在のトリニティの防衛網では論理的に回避不可能です。巡航ミサイルの迎撃確率は現状の機材では三パーセント以下。アリウス分校による浸透工作は、すでに古聖堂の地下深層部、かつての『戒律』の領域にまで及んでいる。事態は君の予知よりもさらに深刻だ。これは単なるテロではない。キヴォトスというシステムの根幹を揺るがす、致命的なバグの強制実行よ」

 

 

 私は立ち上がり、観測室の大型モニターに映し出された、無機質な弾道計算グラフを睨みつけた。私の瞳の中に、計算式の光が紫色の火花となって散る。

 

 

「ソラノミの全武装を解放し、私が戦場の因果に直接介入すれば、巡航ミサイルの半数は撃墜あるいは無効化できるでしょう。アカネを現場に降下させれば、アリウスの遊撃部隊を一時的に沈黙させることもできる。……ですが、それでは足りない。それでは、ミサイル一発の漏れが、あるいは一人の潜入者が、すべてを灰にする可能性を排除しきれない」

 

 

 傍らで私の演算結果を同期していたケイが、無機質な瞳に微かな険しさを宿してデータを補足した。

 

 

「……お父さんの予測に同意します」

 

「敵の戦力分散、および戦術目標の多点同時発生。ソラノミ一艦の機動力と処理能力では、すべての破壊事象をミリ秒単位で制御することは、数学的に不可能です。生存率、十二・四パーセント。……これほど不安定な不確定要素の渦へ身を投じることは、防衛プロトコルとして推奨できません」

 

「分かっているよ、ケイ。……だからこそ、私は、この盤面をひっくり返すための『もう一つの知性』を招喚する。私の手が届かない場所を、私と同等の速度で埋められる、あの冷徹な合理主義者をね」

 

 

 セイアが驚いたように顔を上げ、涙の跡が残る瞳で私を見つめた。

 

 

「……もう一つの知性? セイカ、君以上にこの狂った状況を冷静に分析し、あまつさえ覆そうなどと考える者が、他にいるというのかい?」

 

「能力の優劣の話ではありません。必要なのは、私とは異なる視点での『合理』の極致。そして、私たちが現在持っていない『広域演算リソース』と『都市管理権限』を、たとえ非公式であっても握り続けている者です。……彼女の潜伏は完璧。完璧すぎる。彼女はミレニアムを離れ、自らの存在を隠蔽して潜伏していますが、その『空白』こそが彼女の居場所を証明している」

 

 

 私はコンソールに向かい、多重暗号化された特殊な通信プロトコルを起動した。それは、すべてを背負って砂漠の塵へと消えた、ミレニアムの生徒会長——調月リオへと繋がる回線だった。

 

 

「……あの調月リオと連絡を取るつもりかい!? 彼女は今、行方も分からず、多くの問題を抱えたまま姿を消したはずだぞ」

 

「ええ。彼女は現在、公的には失踪状態です。ですが、彼女のその徹底した危機管理能力と、秘密裏に構築していたネットワーク。それらはこの絶望をバグとして処理するために不可欠なピースです。……私は彼女の持つ『救済のための冷徹さ』には、ある種の敬意すら抱いている。だからこそ、今、彼女の力が必要なのです」

 

 

 私はモニターに手をかざす。回線が砂漠の熱風を切り裂き、見えない糸となって、かつての協力者、そして今も変わらぬ合理主義者のもとへと伸びていった。

 

 

「今、私たちが対峙しているのは、正論や倫理で救えるような生易しい未来ではない。神が用意した最悪の脚本を書き換えるには、彼女の持つ『盾』と、私の持つ『剣』を合わせる必要がある……。そうでしょう?」

 

 

 私の問いに、コンソールはただ、接続を待つ無機質な電子音を返し続けていた。

 

 

「アカネ、新しいお茶の準備をしておいて。……これから始めるのは、一刻の猶予もない『お掃除』になるよ」

 

「かしこまりました。それでは、特製のお茶菓子も用意しておきましょう。お客様は……きっとお疲れでしょうから」

 

 

 アカネは優雅に一礼し、静かに観測室を後にした。

 

 これは新たな因果が編み上げられる前の、嵐の前の静けさのようだった。

 

 

 

 

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