通信回線の先にあったのは、不気味なほどの静寂でした。
幾重にも張り巡らされた偽装プロトコルを突き抜け、砂漠の最深部、誰にも知られぬ孤独な座標へと、私の意志が電子の槍となって到達します。
コンソールに表示される「CONNECTING」の文字が、数秒の沈黙の後に「ESTABLISHED」へと切り替わりました。スピーカーから溢れ出したのは、かつての威厳を押し殺したような、けれど相変わらず冷徹で、乾いた女の声。
『……私を探さないでと言ったはずよ、天野江セイカ』
「久しぶりですね、調月リオ。……いいえ、今はただの『逃亡者』でしたか。自らの内に芽生えた自責の念から、表舞台を去る道を選んだあなたの知性を、そのまま砂に埋もれさせるには、少々キヴォトスの未来は騒がしすぎるようです」
私は挨拶もそこそこに、セイアの脳波から抽出した「死の譜面」を、そのままリオの端末へと転送しました。アリウスの展開図、巡航ミサイルの推定弾道、そしてエデン条約会場の構造欠陥。膨大な負のデータが、光の速さで砂漠のシェルターへと流れ込みます。
通信の向こう側で、リオが短く息を呑む音が聞こえました。
『……これは、合理的な襲撃ね。今のトリニティに、これを防ぐ術はない。……それで? あなたはこの私に、何を求めているの。私はもう、自らの過ちに対する答えを見つけられず、世界から身を引いた身よ』
「リオ、あなたはかつて、キヴォトスを護るために最善を尽くそうとした。その過程で起きた齟齬に、あなたは今も苛まれているのでしょう。
……ならば、その責任感を、ただの『隠遁』という免罪符で終わらせるつもりですか? その高い知性は、後悔に浸るための道具ではないはずです」
私は冷酷に、けれど確かな信頼を込めて語りかけました。
「ソラノミの機動力と、私が掌握する因果の演算。それに、あなたが今もなおその指先に残している広域ネットワークへの干渉権限が加われば、この絶望的な未来は、単なる『処理すべきバグ』に成り下がる。……自責の念を抱えたまま立ち止まるよりも、その合理性で、未だ救われていない命を救う方が、あなたらしい贖罪だとは思いませんか?」
『……フフ。相変わらず、あなたは人のことを見透かしたように言うのが上手いわね。……ええ、そうね。私の合理性が、このまま指をくわえて破滅を見過ごすことを拒絶している。わかったわ、その『我儘』に協力しましょう。エデン条約調印式まで、まだ時間は残されている。その間に、私たちができるすべての『予防策』を講じるわ』
その瞬間、観測室のモニター群が次々と再起動し、未知の演算支援データが滝のように流れ込み始めました。リオがかつて構築した秘密のバックドアが、ソラノミのシステムと完全同期を開始したのです。
「お父さん、接続完了。調月リオのシステム、受領しました。……これで、迎撃の
ケイが、満足げに私の顔を見上げました。
「素晴らしいわ、ケイ。……アカネ、お客様の追加です。彼女の分も、最高の一杯を用意しておいて頂戴。調印式までの数日間、私たちは不眠不休で『未来の添削』をすることになるから」
観測室に戻ってきたアカネは、ティーポットを手に、完璧な角度で一礼しました。
「承知いたしました、セイカさん。責任感の強いお客様には、背筋が伸びるような深い香りの紅茶がよろしいでしょう。当日までの数日間、最高のコンディションで『お掃除』ができるよう、しっかりとサポートさせていただきます」
ステルスに守られたソラノミは、トリニティ上空の高高度、雲よりも高い静止軌道へとその座を据えました。そこから見下ろすトリニティの街は、まだ自らの運命を知らず、穏やかな光に包まれています。
「……さあ、世界を欺く準備を始めましょうか。……誰も死なない、誰も傷つかない。そんな都合の良い『奇跡』を、残された時間を使って、完璧な数字の羅列で証明してあげます」
耳元の三日月が、冷たく、そして静かに、目前に迫る嵐を待ち構えるように輝いていました。
私は、静止軌道上にあったソラノミの高度を下げ、砂漠の最深部——調月リオが潜伏する座標へと、その巨体を静かに滑り込ませました。
__________
ソラノミのハッチが開くと、熱風と共に砂混じりの風が艦内に流れ込んできました。そこは、キヴォトスの華やかな日常とは無縁の、風化した岩と砂だけが支配する無機質な世界。
「お父さん。熱源反応、および微弱な電力信号を確認。前方百二十メートル、地下シェルターの入り口です」
ケイが私の隣で、眩しそうに瞳を細めながら報告しました。
「ええ。アカネ、お迎えの準備は?」
「万全ですよ、セイカさん。今の彼女が必要としているであろう、心落ち着く香りの茶葉と、ソラノミの清潔な客室。すべて用意しております」
アカネは、砂漠という過酷な環境に不釣り合いなほど完璧なメイドの所作で一礼し、私たちの数歩後ろに従いました。
私たちは、陽炎の揺れる砂地を歩き、やがて不自然に配置された廃材の山に囲まれたハッチへと到達しました。私がその表面を軽く叩く前に、重厚な金属音が響き、扉がゆっくりと内側から開かれました。
薄暗いシェルターの光の中に立っていたのは、かつての威厳ある「ビッグシスター」のコートを脱ぎ捨て、疲れを隠しきれない瞳をした、一人の少女——調月リオでした。
「……本当に来たのね。天野江セイカ」
「不合理な潜伏はやめて、私たちが運営する戦艦へ移りなさい、リオ。……ここで一人、砂を噛みながら過去を反芻していても、計算上の損失が増えるだけです」
私は一歩踏み込み、彼女の瞳を真っ向から見据えました。リオは自嘲気味に微笑み、自らの細い指先を見つめました。
「私には、そこへ行く資格はないわ。アリスを……アリスを傷つけようとしたこの私が、あなたたちの仲良し家族ごっこに混ざるなんて、それこそ非論理的よ」
「……ええ。あなたは過ちを犯しました。論理の飛躍と、過剰な防衛本能によって。ですが、だからこそ、その責任は『行動』によってのみ購われる」
私は彼女の手を掴みました。その指先は、砂漠の熱気の中にありながら、驚くほど冷えていました。
「エデン条約を巡る惨劇。これを未然に防ぎ、犠牲者をゼロにする。それが、今のあなたに課せられた唯一の合理的な選択です。……自責の念に沈むのは、すべてが終わった後、アカネのお茶を飲んでからにしなさい」
「……強引な人」
リオは小さく溜息をつき、けれどその瞳には、失われていた「意志」の火が微かに灯りました。
「……いいわ。あなたの戦艦の演算リソース、私の目でも確かめさせてもらう。準備はできているわ」
「そうこなくては。……アカネ、彼女の荷物を。ケイ、リオのパーソナルデータを艦の防衛プロトコルに登録しなさい。彼女は今日から、この艦の『客人』です」
「かしこまりました。リオ会長、ようこそソラノミへ。……まずは、冷たいおしぼりをご用意しましょうか」
アカネの穏やかな出迎えに、リオはどこか戸惑いながらも、静かに頷きました。
こうして、かつてミレニアムを揺るがした合理主義の亡霊は、私たちの戦艦へと乗り込みました。エデン条約まで残された時間は、まだ数日。
しかし、その戦力と演算能力、そして予言者の目を得たソラノミは、もはやキヴォトス全校を相手にしても「負け」を想定できないほどの絶対的な防衛機構へと進化していました。
「……さあ、ソラノミを元の高度へ。……リオ、あなたのその頭脳、存分に酷使させてもらいますよ」
私は耳元の三日月を揺らし、砂漠を背に、再び星の海へと続く空を見上げました。