不条理の落日、あるいは観測者たちの
トリニティ総合学園の正門。 かつては権威と義務、そして逃れられぬ運命を監視するための象徴でしかなかったその巨大な石門を、セイアは今、一歩ずつ地面の感触を確かめるように歩いていた。
かつての彼女を支配していたのは、ソラノミの無機質な計器音と、高高度の観測室を包み込む凍てつくような孤独な風だった。しかし今、彼女の鼓膜を震わせるのは、昼下がりの柔らかな陽光に解かされた少女たちの騒がしい笑い声と、校庭の木々を揺らす穏やかな初夏の風だ。
「……ああ。空気が、随分と甘いね」
セイアが、誰に聞かせるともなく小さく呟く。その言葉には、長い間、予知という冷徹な情報の海に溺れていた者が、ようやく「呼吸」を取り戻したかのような安堵が混じっていた。
「セイアさん。……おかえりなさい。本当に、本当によく戻ってきてくれました」
隣を歩くティーパーティーのホスト、桐生ナギサが、どこかホッとしたように、けれど万感の思いを込めて目を細める。彼女の手には、いつもの紅茶セットではなく、ただ一人の親友を迎え入れるための、温かな慈しみだけが握られていた。
「ナギちゃん、気が早いよ! セイアちゃんはこれから、補習授業部の皆と特大の『お疲れ様パーティー』をしなきゃいけないんだから。感動の再会は、ケーキを食べてからでも遅くないでしょ!」
反対側から、聖園ミカがいつも通りの無邪気な笑顔でセイアの肩を抱き寄せた。かつて裏切りと絶望に染まり、修羅の道を歩みかけた彼女の瞳には、今は親友への真っ直ぐな想いと、明日を信じる光だけが宿っている。
セイアは、ミカの奔放な力強さに少しだけ面食らったように目を瞬かせた。かつての自分――孤独な予言者としての殻に閉じこもっていた自分――なら、この騒々しさを「不確定な未来を乱す喧騒」と切り捨てていただろう。
けれど、今は違う。
この熱こそが、この不格好なまでの生命感こそが、彼女が取り戻したかった世界そのものだった。
「……そうだね、ミカ。……予知で視る固定された未来も悪くないが、こうして君たちの予測不能な声に耳を貸す方が、ずっと『現実味』がある。……そう思えるようになったんだ」
その時、校舎の向こうから「セイア様ー!」と呼ぶ、弾んだ声が響き渡った。 ペロロ様のぬいぐるみを揺らしながら走ってくるヒフミ、その隣で無表情ながらもどこか必死な足取りのアズサ、顔を赤くして「もう、遅いわよ!」と叫ぶコハル、そして、含み笑いを浮かべながら優雅に歩み寄るハナコ。 あの不条理な戦場を、あるいは空の上と地上という遠い距離を超えて連携し、共に駆け抜けた補習授業部の面々が、こちらへ向かって走ってくる。
「セイア様! 無事でよかったです……! 本当に、本当によかったです!」
ヒフミが涙を浮かべながら彼女の手を取る。アズサは小さく頷き、銃を背負い直した。
「……状況、異常なし。ターゲット・セイアの無事な帰還を確認した。これで、私たちの任務は真の意味で完了だ」
「もう! セイア様まであんな無茶するんだから! 心配して損したわよ、もう! ……えっと、でも、その。……おかえりなさい、セイア様」
コハルが照れ隠しに声を荒らげる一方で、ハナコはセイアの顔をじっと覗き込み、桃色の唇を弧の字に曲げた。
「ふふ、セイアちゃん。……その、憑き物が落ちたような清々しいお顔。空の上で、よほど素敵な『お父さん』に甘やかされたのですか?」
ハナコの鋭い、けれど優しさに満ちた冗談に、セイアは思わず口元を隠して「ふふっ」と声を漏らして笑った。
かつての彼女が見せていた、諦観を含んだ微笑ではない。心の底から溢れ出た、一人の少女としての笑い。
「……ハナコ。君のその洞察力は、相変わらず恐ろしいね。ああ、そうだよ。……世界で一番お節介で、けれど誰よりも温かい『家族』に、少しだけ大切なことを教わってきた」
セイアは語りながら、室笠家の風景を思い出す。
不器用ながらも必死に家族を守るお父さんの背中。論理の裏に深い愛を隠した娘の言葉。そして、すべてを包み込むお母さんの慈愛。
「……未来を変えるのは、特別な神秘などではない。ただ、目の前の誰かを守りたいという、不器用な意志なのだとね。それを忘れていた私を、彼女らは叱り、そして抱きしめてくれた」
セイアは一度、歩みを止めてトリニティの青空を仰いだ。
そこにはもう、降り注ぐ絶望のミサイルも、運命を縛り付ける不条理の暗雲もない。ただ、どこまでも高く、どこまでも澄み渡る蒼がある。
「……さて。パーティーに行く前に、一つだけ約束をさせてほしい」
セイアはミカとナギサ、そして補習授業部の少女たちを一人一人、その黄金の瞳に焼き付けるように見つめ、静かに、けれど力強く告げた。
「私はもう、一人で夜の夢を視ることはしない。予知という名の檻の中で、来るべき終わりを数えるだけの時間はもう終わりにしよう。これからは君たちと一緒に、迷いながら、間違えながら、この眩しい『今日』を紡いでいきたい。……それが、私を暗闇から救い出してくれた、あの観測士たちへの、最高の返礼になるはずだから」
少女たちの歓声が、昼下がりの並木道に響き渡る。
百合園セイア。孤独な予言者としての役割を脱ぎ捨て、一人の「生徒」へと戻った彼女は、今、親愛なる友たちの輪の中へ、本当の意味で帰還したのだった。
「さあ、行きましょう、セイアさん! お茶の準備は完璧です」
「セイアちゃん、ケーキは私が一番大きいのもらうからね!」
「ミカさん、主賓はセイアさんです! 空気読んでください!」
騒がしく、愛おしい日常。 その光景の中心で、セイアはもう一度空を見た。
「……見ていたまえ、セイカ。……私は、私の場所で、精一杯、この『今日』を愛してみせよう」
その呟きは、初夏の風に吹かれて消えた。
背後から響く、ミカの明るい声。
「おかえり、セイアちゃん!」
その声は、キヴォトスの空よりも高く、温かく、彼女の胸に響いていた。
__________
ミレニアムサイエンススクールの最深部、宇宙戦艦「ソラノミ」のハッチが、深夜の静寂を切り裂くように微かな金属音を立てて開いた。
隙間から流れ込んできたのは、学園都市の冷たい夜気と、どこか遠くで光る摩天楼の無機質な気配だ。調月リオは一人、最小限の荷物を手にしたまま、暗闇に紛れてその場を去ろうとしていた。
自らが信じた「合理性」が引き起こした過ちの全容を直視した彼女にとって、ソラノミという場所で過ごした時間は、あまりにも眩しく、あまりにも優しすぎた。アリスという純粋な存在を傷つけた「独裁者」である自分に、この温かな食卓を囲む資格などない。それが彼女の導き出した、最新の、そして唯一の「合理的結論」だった。
だが、重い鋼鉄の扉を抜けた先、冷たいコンクリートの通路には、逃げ場のない「壁」が立ちはだかっていた。
「……計算通りですね。あなたが今の状況で向かう先は、ミレニアムの居住区ではなく、この学校の外。つまり、二度目の『失踪』です」
暗闇の中で、端末の青白い光がリオの顔を冷たく反射させた。そこにいたのは、ミレニアムの規律を体現するかのような完璧なメイド姿――室笠アカネだった。そしてその隣には、淡々とデータを処理し続けるケイと、まだ眠たげな目をこすりながらアカネの服の裾をぎゅっと掴んでいる、「お父さん」こと、セイカが立っていた。
「……アカネ。どいて。今の私には、この学校に留まる資格なんてないわ」
リオは声を震わせ、鋭い視線を向ける。だが、アカネの微笑みは崩れない。
「資格、ですか? そんな非論理的な言葉で逃げるなんて、ミレニアムの元生徒会長ともあろう方が笑わせますね」
アカネが冷徹なまでの優雅さで一歩前へ出る。その眼鏡の奥の瞳は、逃亡を企てるリオのすべてを見透かしていた。
「セイカさんが、あなたを連れ戻すためにどれだけの不条理を『添削』したと思っているのですか? あなたが勝手にいなくなることは、私たちの……いいえ、ミレニアム全体の多大なリソースの損失です。勝手に消えることは許容できません」
「……リオ」
不意に、小さな、けれど抗いがたい力がリオの手首を掴んだ。セイカだった。
その掌は、不条理を撃ち抜く時の鋭い衝撃ではなく、迷子を優しく、けれど絶対に離さない親のような、頑固な温かさに満ちていた。
「……ダメだよ。私、まだリオと……ミレニアムでやりたいこと、たくさんある。……逃げるのは禁止」
「……セイカ。でも、私は……アリスに、あんなに酷いことを……」
「……もう全部直したよ。だから、リオも一緒に直しにいこう。……逃げるより、そっちの方が……私は嬉しい。観測者として、君のいないミレニアムなんて、つまらないから」
セイカの瞳には、迷える子供を正しく導こうとする、深く静かな責任感が宿っていた。その純粋なまでの「お父さん」としての情愛が、リオの胸を突き刺す。
「……会長。いえ、リオ。私の演算によれば、あなたの帰還はミレニアムの安定に不可欠です」
ケイが淡々と、けれどリオの背中を物理的に押し戻すように一歩近づいた。
「お父さんとお母さんが、あなたを必要としています。そして……私も、あなたの高度な知性を学習のリソースとして必要としています。自己犠牲という名の逃避行動は、計算結果にノイズを生むだけです。……帰る場所を、間違えないでください」
「……っ。……あなたたちは、本当に……」
リオは力なく笑い、その場に膝をつきそうになった。冷徹な合理的知性を誇った彼女が、最も非合理な「家族」という絆の前に、完全に屈した瞬間だった。
アカネがすかさずその肩を支え、完璧な所作で彼女をミレニアムの中枢へと促す。
「さあ、戻りましょう、リオ会長。セミナーの山積みの書類と、あなたの帰りを待っている、わがままな後輩たちが首を長くして待っています。……私たちが、あなたをミレニアムへ『強制送還』いたします」
逃亡を企てた天才は、こうして、かつて自ら捨てようとした学園へと、家族という名の強い鎖で繋ぎ止められた。
それは呪縛などではなく、彼女がどれほど望んでも手に入らないと思っていた、何よりも強固な「居場所」だった。
「……おかえり、リオ」
セイカのその一言が、冷たい廊下に優しく響く。
リオの長い放浪は、本当の意味で、今度こそ幕を閉じたのだった。
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ミレニアムサイエンススクールの権威の象徴、セミナー執務室。
かつて「ビッグシスター」として、誰にも介入を許さぬ冷徹な合理性で君臨したその場所で、調月リオは借りてきた猫のように背中を丸め、高級な革張りの椅子に縮こまって座っていました。
彼女の正面に立ち、凄まじい威圧感で仁王立ちしているのは、セミナーの会計、早瀬ユウカです。
その背後には、室笠家の面々――「お父さん」であるセイカ、「お母さん」のアカネ、そして「娘」のケイが、まるでお通夜のような、あるいはこうなることを初めから演算済みであったかのような静けさで控えています。
部屋を支配しているのは、重苦しい沈黙と、ユウカが手にする算盤の珠が擦れる微かな音だけでした。
「……それで? 騒動が片付いて、不条理がどうのこうのと空の上で格好つけた挙句、今度は黙って夜逃げですか、会長。いえ、調月リオさん」
ユウカの声は低く、そして恐ろしいほどに冷徹でした。パチリ、と一度だけ弾かれた珠の音が、静まり返った室内に銃声のように響き渡ります。リオはその音に肩を震わせ、視線を床へと落としました。
「……ユウカ、それは……その。私というリソースがミレニアムに残留し続けることは、現在の信頼指数と合理性の観点からして、組織の最適化を阻害する要因に……」
「『合理性』、その言葉を二度と私の前で使わないでください!」
ユウカの怒声が執務室の壁に反響し、リオの肩がビクッと大きく跳ねました。ユウカの瞳には、積み重なった疲労と、それを遥かに凌駕する怒りの焔が宿っています。
「どれだけの赤字を、どれだけの不確定要素をあなたが撒き散らしたと思っているんですか! 資産の横領、秘密要塞の建設、アリスちゃんへの非道な仕打ち……! 挙げ句の果てに、後始末もせずに失踪? 冗談じゃありません。計算が合わないどころの騒ぎじゃないんですよ、これは!」
ユウカは一歩、また一歩とリオに詰め寄ります。デスクが軋むほどに身を乗り出し、その鋭い指先がリオの鼻先を指しました。
「あなたがいない間に、私がどれだけ胃を痛めて帳簿を合わせたと思っているんですか! 数百億、数千億という単位の不透明な資金移動を、一円単位で整合させる地獄のような作業を! 謝って済む問題じゃありません。逃げて済む問題でもない。……いいですか、これからあなたが犯したすべての失策、すべての赤字を、あなたの労働で一円単位まで完済していただきますからね!」
「……っ。……ええ、分かっているわ。……償いなら、一生かけてでも……」
リオの声は消え入りそうでしたが、ユウカはそれを許しません。
「当然です! 逃げるなんて、この早瀬ユウカが、そして……あそこにいるセイカたちが許すはずないでしょう!」
ユウカが親指で背後を指すと、そこには室笠家の「家族」が冷徹なまでに揺るぎない布陣で控えていました。
「……リオ」
セイカが、ユウカの横に並んで歩み出ました。その瞳は、観測者としての鋭さと、迷える「身内」を叱咤する厳格な愛に満ちています。
「……逃げる力があるなら、その知性を……ミレニアムのために使いなさい。私は空の上で、君の不条理を書き直した。次は、君がこの地上で、自分の過ちを書き直す番だよ。……ユウカの説教を全部聞き終わるまで、……今日はお茶も抜き、です。もちろん、アカネ特製のスイーツも、お預けだよ」
「……セイカ。……お茶すら、……ないの?」
リオの顔が、絶望に染まりました。彼女にとってセイカの淹れる茶とアカネの振る舞う安らぎは、唯一の心の支えだったからです。しかし、アカネは完璧なメイドの礼法で深く一礼しながら、容赦のない追撃を加えました。
「その通りです、リオ会長。債務を放り出して逃走する構成員に振る舞うティーセットは、我が家にはございません。……代わりに、眠気覚ましの非常に濃いブラックコーヒーをご用意いたしました。もちろん、糖分補給の砂糖は没収してあります」
「……会長。追加の報告です」
ケイが淡々と、端末の画面をリオに向けました。そこには、複雑怪奇なガントチャートと、秒単位で詰め込まれたスケジュールが映し出されていました。
「リオの労働効率を200%まで向上させるための、個別最適化スケジュールを構築しました。セミナーの未決済書類の処理、アリスへの謝罪行脚、各学園との戦後交渉……。私の演算によれば、あなたの睡眠時間は一律四時間に固定されます。……帰る場所を間違えたペナルティです」
「……っ。……あ、あなたたちは、本当に……情けというものが……」
「冗談です」
リオはもはや、返す言葉もありませんでした。彼女の天才的な知性は、この「正論」と「家族の鞭」という名の包囲網に完全に飲み込まれ、思考がホワイトアウトしています。かつての独裁者は、今や一人の「債務者」として、自分の椅子に縛り付けられていました。
「さあ、お喋りは終わりです。まずはこの、あなたが独断で凍結させた三ヶ月分の未決済書類の山から片付けていただきます。……一睡もできると思わないでくださいね、リオ会長?」
ユウカがドサリ、と机に置いた書類の束。それは、不条理を撃ち抜く弾丸よりも重く、リオのこれからの「日常」という名の刑期を確定させました。
「……ええ。……ええ、分かったわ、ユウカ。……何でも、命じてもちょうだい……」
リオは力なくペンを手に取り、最初の一枚に署名を始めました。 ミレニアムの会長は、こうして不屈の会計士と、お節介な「家族」たちの手によって、かつての自分の椅子へと、文字通り「魂まで縛り付けられた」のでした。
「……お父さん。……リオの心拍数が安定しました。……労働意欲、および受容のシグナルを確認。……更生プロトコル、フェーズ1を開始します」
「……ふふっ。……よろしく頼むよ、ケイ。……さあ、リオ。頑張りなさい。……全部終わったら、……温かいココアを淹れてあげるからね」
厳しい言葉の後に添えられた、セイカの小さな、けれど温かい約束。
リオの長く孤独な放浪は、こうして「終わらない仕事」と「帰るべき場所」という、最も賑やかで過酷な救いの中で、本当の終わりを迎えたのでした。