3倍早く動けそう!!
トリニティ総合学園の最奥、選ばれた者しか足を踏み入れることのできないティーパーティーの庭園。
かつて不条理な戦火に晒され、予知という名の呪縛に覆われていたその場所には、今や最高級のダージリンの香りと、春の終わりを告げるような柔らかな陽光が満ちていた。
白を基調とした優雅なガゼボ。テーブルの上には、ナギサが厳選した茶葉から淹れられた紅茶と、ミカが自ら用意した色鮮やかなロールケーキが並んでいる。
この日の集まりは、エデン条約を巡る混乱と、その後の不条理な戦いを共に乗り越えた「室笠家」への、ティーパーティーからの正式な感謝の茶会であった。
ホストであるナギサとミカの向かいには、三人の客人が座っている。背筋を真っ直ぐに伸ばし、隙のない佇まいで、まるで工芸品のように静かに紅茶を味わうセイカ。その隣で、メイドとしての所作を維持しながら、周囲の状況を常に冷静な瞳で監視しているアカネ。そして、無機質な瞳を明滅させ、庭園の構造から防衛兵装の配置までを瞬時にスキャンし続けているケイ。
かつての激闘を経て、ようやく訪れたはずの穏やかな時間。だが、その静寂を、セイアの一言が鮮やかに、そして無慈悲に切り裂いた。
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「……ふむ。ナギサ、ミカ。今日の紅茶は一段と美味しいね。……だが、これからは毎日ここで飲むわけにはいかなくなりそうだ」
セイアが断固とした口調で告げた。ナギサが怪訝そうに眉を寄せる。その手元にあるティーカップの中の液体が、微かに波紋を描いた。
「……セイアさん? 休養が必要なのは分かりますが、まさかまたどこかへ姿を隠そうというのではありませんよね? あなたの容体については、救護騎士団からも、そして私個人からも厳重な管理を言い渡されているはずですが……」
ナギサの声には、隠しきれない心配と、少しの警戒が混じっていた。エデン条約の際、セイアがどれほどの犠牲を払おうとしたかを知っている彼女にとって、セイアの「ここにはいない」という宣言は、トラウマに近い拒絶反応を引き起こす。
「まさか。……ただ、私は決めたんだ。セイカがミレニアムで設立した『空見観測研究部』。……そこに、私も正式に入部させてもらうことにしたよ」
庭園に、凍り付くような沈黙が走った。風に揺れる花々の音さえも消え去ったかのような、暴力的なまでの静寂。
「……は?」
ミカが手に持っていたロールケーキをフォークごと地面に落とした。ボトッ、という鈍い音が、静まり返ったガゼボに異様に大きく響く。
ナギサはあまりの衝撃に、カップをソーサーに戻すことすら忘れ、空中で手が静止したまま固まっている。
「入部……? セイアちゃん、今なんて言ったの? ミレニアムの部活に!? トリニティのティーパーティーであるセイアちゃんが、学園の枠を完全に越えて、ミレニアムの活動に参加するって言ってるの!?」
ミカの声が裏返る。それは驚きというより、信じがたい裏切りに直面した時の悲鳴に近かった。
「ああ、その通りだ。既に部長であるセイカには内諾を得ている。私はこれからは放課後、ソラノミの部室へ通わせてもらうよ。もちろん、ティーパーティーの公務は疎かにしない。移動中や部室でリモートワークをこなせば済む話だからね。情報の秘匿性についても、ケイが構築したセキュアラインを使えば、そこらの通信網よりよほど安全だ」
セイアは事も無げに言ってのけ、澄ました顔で紅茶を一口啜った。だが、その発言の重さを、周囲の人間が聞き流せるはずもなかった。
「……うふふ。少々お待ちください、セイアさん」
これまで静かに控えていたアカネが、一歩前へ出た。その微笑みはどこまでも優雅でお手本のようだが、纏う空気には、彼女が爆薬を扱う際に見せる特有の、冷徹なまでの「清掃」の予感が混じっている。
「セイアさん。今日という日は絶好のお掃除日和だと思っておりましたが……まさか、これほど巨大な『不純物』が部活動の拠点に紛れ込もうとするなんて、流石の私も計算外です。私たちの……いえ、セイカさんが丹精込めて作った神聖な部活動に、トリニティの権威をそのまま持ち込むおつもりでしょうか?」
アカネは一歩詰め寄り、その穏やかで丁寧な声のまま、逃げ場を塞ぐような物騒な言葉を続けた。
「それはミレニアムとトリニティの外交問題になりかねませんし、何より、私の管理範疇を大きく逸脱しています。ミレニアムの監査局がこの事実を知れば、ソラノミの活動許可さえ危うい。……いっそ、その非論理的な入部届ごと、跡形もなく綺麗に『解体』して差し上げましょうか? 埃と一緒に吹き飛ばしてしまえば、悩みも消えて無くなりますよ? うふふ、お任せください。効率的かつ、徹底的に清掃させていただきますので」
その言葉は脅しではなく、本気でその場で爆破処理を検討している者の響きだった。
しかし、その殺気を受け流すように、もう一人の部員が口を開く。
「お父さん。セイアの入部は、私の演算には含まれていませんでした。……ですが」
ケイが、無機質な瞳をセイアに向けた。そこには機械的な分析だけでなく、共に死線を潜り抜け、互いを認め合った「親友」としての確かな温度があった。
「私の親友であるセイアが、論理的リスクを理解した上でこの場所を求めている。ならば、それを拒絶する理由は希薄です。むしろ、ティーパーティーの要人が部員となることで、ソラノミの防衛プロトコルを国家機密レベルまで引き上げる正当な大義名分が得られます。お父さん、私は親友として、彼女の入部を支持します。セキュリティの構築は私が行えば問題ありません。……何より……私が嬉しい……です」
ケイの淡々とした、けれど力強い援護射撃。それに、ナギサが悲鳴のような声を上げた。
「ケイさんまで何を……! セイアさん、正気ですか!?
あなたがミレニアムの、しかもあの艦を拠点とする部活動に加わるなど、トリニティ内部の反発がどれほどになるか……! 権力バランスが崩壊してしまいます!」
「バランスなど、最初から添削されているのさ、ナギサ。私はもう、見えもしない未来の影に怯えて、この庭園に引きこもるつもりはない。私は私の眼で、今この瞬間の空を観測したい。……それができるのは、セイカとケイがいるあの場所だけなんだ」
セイアの言葉には、迷いがなかった。視線が一斉に、部長である私に集まった。
ナギサとミカの驚き、アカネの物騒な微笑み、そして親友を迎え入れる準備を終えたケイ。そのすべてを一身に受け、ゆっくりとカップを置き、静かに、けれど迷いのない瞳でセイアを見返した。
私にとって、セイアは共に死線を越えたかけがえのない親友だ。家族のように常に寄り添うわけではない。だが、同じ「不条理」に抗い、新しく手に入れた自由な時間を共有するのに、これ以上の適任はいない。
「……セイアがやりたいなら。私はいいよ。歓迎する」
声は短く、けれど確かな意志が宿っていた。彼女にとって、この不条理な入部希望もまた、受け入れるべき新しい日常の輝きの一つに過ぎなかった。
「……許可されたね。ありがとう、セイカ」
セイアは勝利を確信したように笑い、呆然とするナギサたちを尻目に、椅子の位置をずらして私の隣へとスッと移動した。
その横には、入部を支持したケイが平然とした顔で座っている。
「……いいわけないでしょー! セイアちゃん! 待ってよ、そんなの認めないんだから! ナギちゃんも何とか言って! このままじゃティーパーティーがミレニアムに実質吸収されちゃうよ!」
「……ミカさん、無理です……。セイアさんは一度こうなると、不条理の化身よりも頑固ですから……。それに、部長本人が認めてしまった以上、部外者の私たちが何を言っても無駄です……。ああ、明日からの外交ルートの再編、どうすればいいのでしょうか……」
ナギサは頭を押さえてガックリと項垂れた。一方で、入部を許可したセイカは、混乱する周囲を気にする様子もなく、セイアの差し出した手を、確かな力強さで握り返した。
「……うふふ、仕方がありませんね。セイカさんがそこまで仰るのなら、私も専属メイドとして、セイアさんの『お世話』を徹底的にさせていただきます。……ソラノミに入った以上、逃げ出そうとしても無駄ですよ? 埃一つ残さず、完璧に管理させていただきますから」
アカネは諦めたように、けれどどこか楽しげに、新しい「友人」を受け入れるための物騒な準備を脳内で始め、ケイはそれを見越してソラノミの防衛プロトコルをティーパーティー対応版へと更新し始めた。
「……さて、部長。部活動の初日はいつかな? 親友である君とケイの隣で、この空を観測するのが、今から楽しみで仕方ないんだ」
「……明日から。準備はしておく。一緒に、良い星を見よう」
そう言って、親友たちの集う新しい日常を静かに、けれど誰よりも強く肯定した。
こうして、学園のパワーバランスを完全に無視した、史上最も贅沢で不条理な「部活動」が、ティーパーティーの悲鳴と、空の上に繋がる新しい絆の気配と共に、高らかな幕を上げたのである。
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トリニティでの「入部宣言」から数日後。
激震の波は、ついにミレニアムサイエンススクール、そしてその自治の中枢である「セミナー」へと到達しました。
ソラノミという特例的な拠点で活動する「空見観測研究部」に、トリニティの最高権力者が加わったという事実は、論理を重んじる彼女たちにとって、計算機がショートするほどの不条理でした。
ミレニアムサイエンススクール、セミナー執務室。そこには、今にもディスプレイを叩き割りそうな勢いで計算機を叩く早瀬ユウカと、その横で「あらあら」と肩をすくめる生塩ノアの姿がありました。
「……ありえない! 意味がわからないわ! どうしてトリニティのティーパーティーが、うちの……それも、よりによってあのセイカが作った部活に入部してるのよ!?」
ユウカが叫びながら、端末に表示された「部員名簿更新通知」を指差しました。そこには、ミレニアムのロゴの隣に、場違いなほど優雅な筆致で『百合園セイア』の名前が並んでいます。
「落ち着いてください、ユウカちゃん。論理的に考えれば、これはトリニティによるソラノミの『実効支配』への布石、あるいは……」
ノアが手帳を開き、楽しげに目を細めます。
「ただ単に、あのセイカちゃんとセイアさんが仲良しだ、という極めてシンプルな理由かもしれませんよ?」
「シンプルすぎて、こっちの予算管理と外交プロトコルがパンクするわよ! ティーパーティーの要人がミレニアムの部活動に参加するなんて、ミレニアムの予算をトリニティの利権に使うことにならない!? そもそも、活動拠点のソラノミはどこが管轄するのよ!?」
ユウカの混乱をよそに、当の「空見観測研究部」の活動場所――上空を漂うソラノミのブリッジは、今日も驚くほど静かでした。
「……ふむ。ミレニアムのセミナーから、私の端末に一分間に一通のペースで『確認事項』という名の悲鳴が届いているよ。……ミレニアムの生徒会というのは、これほどまでにマメなものなのかい?」
セイアがソラノミの観測用ソファに深く腰掛け、端末を眺めて苦笑しました。その隣では、部長であるセイカが、新しく持ち込まれた機材の調整を黙々とこなしています。
「……ユウカは、心配性なだけ。……無視していいよ」
セイカは短く答え、セイアの隣に座りました。彼女にとって、政治的なパワーバランスなど、観測する星々の動きに比べれば微々たるノイズに過ぎません。
「部長がそう言うなら、私もそれに従おう。……ねえ、ケイ。ミレニアムの監査局がここに来ようとしたら、どうするつもりだい?」
セイアが問いかけると、ケイが平然とした顔で答えました。
「既にセミナーのサーバーには、この場所が『超法規的観測領域』であるとの虚偽……いいえ、添削された活動報告書を提出済みです。物理的な侵入を試みる者がいれば、私の親友であるセイアの入部を祝うため、ソラノミの主砲……ではなく、歓迎のプロトコルで対応します」
「……お掃除の準備なら、いつでもできていますよ。セイアさん」
アカネが、完璧に淹れられた紅茶を差し出しながら、物騒な微笑みを浮かべました。
「ミレニアムの監査員の方が、埃と一緒に消えてしまわないよう、最大限……『丁寧』に扱わせていただきます。うふふ」
「……ははは! さすがだね。トリニティのティーパーティーという肩書きが、これほどまでに通用しない場所は、世界中でここだけかもしれない」
セイアは満足げに笑い、受け取った紅茶を啜りました。
トリニティではナギサとミカが胃を痛め、ミレニアムではユウカが発狂し、ノアが面白半分に記録をつける。
そんな地上の喧騒を遥か下に置き去りにして、セイカが守り、セイアとケイが選び取った「空見観測研究部」は、今日も誰にも邪魔されることなく、ただ純粋に明日という空を観測し続けるのでした。