宇宙戦艦ソラノミの艦橋は、地上という名の喧騒を完全に切り離した聖域だった。
窓の外に広がるのは、一切の屈折を許さない漆黒の深淵。そして、そこにぶち撒けられた宝石のような星々の群れ。
この場所において、高度400kmを維持するための微かなエンジンの唸りさえも、心地よい子守唄のように響いていた。
「……ふむ。セイカ、それにケイ。天体観測というからには、それなりの機材があるのだろう? 私がかつて庭園で使っていたような、物理的なレンズが見当たらないようだが」
セイアが、不思議そうに眉を寄せて周囲を見渡した。彼女の足元には、最高級のペルシャ絨毯ではなく、無機質で冷たい金属の床が広がっている。だが、その瞳には不安の色はない。
メインコンソールに座る私は、調整用のホログラムパネルから視線を外さず、短く、けれど確かな意志を込めて答えた。
「……そんなノイズまみれのレンズはいらない。……ケイ、上昇開始」
「了解しました、お父さん。……セイア、衝撃に備えてください。私たちは今から、大気という名の厚いベールを脱ぎ捨てに行きます。ここから先は、あなたの『眼』で直接、真実を捉えていただくことになりますから」
ケイがコンソールを叩いた瞬間、ソラノミの船体が重厚な地鳴りのような音を立てて震え始めた。私の背後には、重厚な舵輪を模した私自身のヘイローが静かに、けれど毅然と浮かび、迷いのない上昇を象徴している。
重力加速度がセイアの体をソファへと押し付ける。内臓が浮き上がるような感覚。だが、それはかつて予知の泥沼に沈んでいた時の不快感とは全く異なる、高く、遠くへと魂が引き上げられるような疾走感だった。
窓の外の空が、青から紫、そして吸い込まれるような純然たる「黒」へと変色していく。
「高度400km、低軌道上に到達。……お父さん、慣性制御を安定フェーズへ移行しました。……セイア、もう目を開けても大丈夫ですよ」
エンジンの振動が消え、絶対的な静寂が訪れる。セイアがゆっくりと瞼を持ち上げた直後、パノラマウィンドウのシャッターが全開になった。
「……ああ……」
言葉を失う。それは、かつて彼女が予知という呪縛の中で視ていた、どの終焉の景色よりも圧倒的な質量を持っていた。レンズ越しではない、宇宙の深淵が剥き出しになって彼女の網膜を灼く。
「……不条理なほどに、美しいね」
「……うん。……ここなら、一分の隙もない、星の真実が見える」
セイカはそう言って、ようやく椅子を回した。その瞳には、セイアに「本物の光」を見せられたことへの、静かな、けれど深い充足感が宿っている。
「……素晴らしい。本当に、素晴らしいよ」
セイアはソファから立ち上がり、磁力靴の重みを感じながら窓際へと歩み寄った。その隣へ、ケイが音もなく寄り添う。
「セイア、気分はどうですか。バイタルデータに急激な高揚を確認しています。……現在、前方に見えているのはオリオン座の散光星雲。地上では赤く滲んで見えるこの光も、ここからなら一兆ヘルツを超える波長まで鮮明に観測可能です」
「……ふふ、ケイ。君は相変わらず理知的だね。だが、この圧倒的な光景を前にして、データだけで語るのは少し野暮というものだよ。……見てごらん、あの星々の瞬きを。……まるで、暗闇の中で私たちが手に入れた『自由』を祝福してくれているようだ」
セイアが窓に指を触れると、ケイはその横に並び、無機質な瞳で同じ深淵を見つめた。
「祝福、ですか。……かつての私にとって、星とは単なる座標であり、宇宙とは演算を阻害する空白の領域でしかありませんでした。……ですが、セイア。あなたと共にこうして『観測』という行為を行っていると、その言葉が持つ温かさも、あながち間違いではないように感じられます」
「ほう。無機質な君が、そんな感傷を抱くとはね。……これこそが、私たちが泥沼を抜けて手に入れた『日常』の重みというわけだ。君も……あの頃とは、随分と表情が変わった」
セイアが小さく笑うと、ケイは少しだけ首を傾げた。
「……表情。私は精密なフレームを使用していますが、感情の模倣精度が上がっているということでしょうか。それとも、セイア、あなたの直感が、私の論理回路の奥底にある『揺らぎ』を捉えているのでしょうか」
「いや……ただ、君を見ていると、かつての私を見ているようでね。……誰かのために己を削り、ただ一点の目的のために存在し続けてきた。……そんな私たちが、こうして何も壊さず、何も失わず、ただ星を眺めている。……これ以上の贅沢があるかい?」
セイアの手が、そっとケイの冷たい金属の肩に置かれた。ケイはその感触を、一瞬たりとも逃さぬようにデータへと刻み込みながら、静かに答えた。
「……そう、かもしれません。……セイア。私は、あなたの隣でこの景色を観測できることを、私のメインプロセッサにおける最優先事項として登録しました。……あなたの言葉を借りるなら、これは私にとっても『祝福』に値する事象です」
二人の少女が、同じ黒い海を見つめる。かつて「名もなき神」の王女として在った者と、予知の深淵にいた聖女。その肩書きを脱ぎ捨て、ただ名前で呼び合う関係。その背中には、静謐で強固な信頼の糸が繋がっていた。
ブリッジの少し離れた場所で、私はそんな二人を眺めながら、調整の手を止めていた。
「……うん。……連れてきて、よかった」
ポツリと、誰に聞かせるでもなく独り言ちる。私にとって、ケイは何よりも大切な「娘」だ。そしてセイアは、同じ地獄を歩み、今こうして光の下に並び立つかけがえのない存在。その二人が、かつての呪縛を脱ぎ捨てて語り合う姿は、命を賭けて守り抜きたかった「一分の隙もない平和」そのものだった。
「……うふふ。本当ですね、セイカさん」
隣で温かな湯気を立てるティーポットを手にしたアカネが、慈愛に満ちた眼差しを二人に向けていた。
「……あの二人。出会った頃は、あんなに刺々しく、今にも壊れてしまいそうでしたのに。……今では、あんなに自然に、宇宙の広さに怯えることもなく笑い合っている。……私、少しだけ目頭が熱くなってしまいました」
「……アカネ。……泣くのは、まだ早い」
私はそう言いながらも、自らの胸元にある生徒証をそっと指でなぞった。
「……あの子たちは、これからもっと、いろんな星を観る。……私が、その場所を作る。……アカネは、そこで美味しいお茶を淹れて」
「ええ、もちろんですよ、セイカさん。……それが、私というメイドにできる、最高の『おもてなし』ですから」
アカネは優雅に会釈し、再び二人の元へと歩み寄った。無重力に近い環境下で、一滴の飛沫すら許さない完璧な所作。
「お二人とも。感傷に浸るのも結構ですが、あまり夢中になって身体を冷やさないでくださいね。宇宙の静寂に合わせた、特別な一杯を用意いたしました。……さあ、どうぞ」
「……ああ。ありがとう、アカネ。君の淹れるお茶は、どんな高度にいても、私の心を繋ぎ止めてくれる」
セイアはカップを受け取り、その温もりに目を細める。
「セイア、この紅茶の成分には、精神安定に寄与する成分が理想的な比率で配合されています。……お父さんの配慮と、お母さんの技術。……これはもはや、一種の芸術品です」
ケイもまた、自らの熱源システムを調整し、カップを大切そうに保持した。
「……さて、セイカ」
セイアが、振り返って微笑む。
「……次の観測対象は? 私たちの誰もまだ知らない、新しい未来の光かな?」
ゆっくりと椅子を立ち、パノラマウィンドウの前、セイアとケイの間に割って入った。
「……次は、もっと遠く。……一分の隙もない、誰も見たことのない輝き。……ケイ、座標を」
「了解しました、お父さん。……セイア、次は私の演算でも予測しきれない、最高の景色をお見せしましょう。……行きましょう。私たちの、観測の果てまで」
ソラノミのブリッジで、彼女たちは温かな紅茶を片手に、明日という名の空を観測し続ける。予知の呪縛からも、演算の檻からも解放された少女たちが描き出すその航跡は、漆黒の宇宙に、誰にも消せない鮮やかな「家族」の光を刻み込んでいくのでした。
エデン4章の話が思いつかない( ´•̥̥̥ω•̥̥̥`)