未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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治療室の冷徹、合理のブレーキ

 

 

 

 トリニティ統合病院、特別隔離棟。

 かつてエデン条約の調印式が行われた古聖堂の喧騒とは無縁の、無機質な静寂が支配する空間。だが、その一室の気圧は、外気とは明らかに異なっていた。

 

 壁一面に備え付けられたバイタルモニターが、規則的な、しかしどこか力ない電子音を刻んでいる。

 

 ベッドの上には、百合園セイアが横たわっていた。その繊細な神秘を誇ったヘイローは、今はどす黒い「色彩」の残滓に侵食され、時折、断末魔のような不吉な放電を繰り返している。

 

 

「……私の、せい。私が、手を……離さなかったから。……セイア、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 

 その傍らで、ケイは親友の手を握りしめたまま、うわ言のように謝罪を繰り返していた。彼女の体内にある永久機関「ルミナス・コア」は、主の絶望に呼応するように激しく明滅し、制御を失ったエネルギーが治療室の空気をチリチリと焼いている。

 

 その光景を、背後から見つめる二つの影があった。

 

 

「……アカネ。準備は、できている?」

 

 

 天野江セイカの声は、もはや生物的な感情を一切含んでいなかった。彼女の背後で展開された青い翼は、かつてないほどの高出力で固定され、周囲の物理法則を書き換えんばかりの威圧感を放っている。

 

 

「ええ、もちろんです、セイカさん。……アリウス分校。あの『不潔な掃き溜め』の三次元構造スキャンは、既に完了いたしました」

 

 

 室笠アカネは、いつものメイド服の裾を優雅に整えながら、その瞳には一切の光を宿していなかった。彼女が手にする爆薬は、既に「掃除用具」ではなく、対象を分子レベルで解体するための「処刑具」としての気配を纏っている。

 

 

「今回ばかりは、通常の『お掃除』では足りません。……あそこには、あまりにも度し難い汚れがこびりつきすぎています。……手加減を薄める手間すら惜しい。高濃度の毒液をもって、その根源から、一分子も残さず、徹底的に、焼き払うことにいたしました」

 

 

 アカネの口調は丁寧だ。だが、その言葉の一つ一つには、愛する娘を絶望の淵に突き落とし、親愛なる友を壊した者たちへの、底知れない殺意が結晶化していた。

 

 

「……あくまで私たちが狙うのは黒幕。ですが、あのような場所は、歴史のアーカイブに残しておく価値すらありません。……私たちが通り過ぎた後には、ただ硝煙と焦土だけが残る。……それこそが、黒幕にふさわしい『合格点』ではありませんか?」

 

 

 アカネの指が、武器の柄をミシミシと鳴らす。彼女にとって、ケイは自分たちの大切な娘だ。その彼女に「自分が親友を壊した」という、一生消えない呪いを植え付けたアリウスの者――ベアトリーチェ――を、彼女は万死に値すると断じていた。

 

 殺意が飽和し、二人が窓を突き破って死の翼を広げようとした、その時。

 

 自動ドアが、一切の感情を排したような滑らかさで開いた。

 

 

「……そこまでにしておきなさい。天野江セイカ、室笠アカネ」

 

 

 響いたのは、凛とした、それでいて氷のように冷たい少女の声。

 ミレニアムサイエンススクールの最高権力機構「セミナー」の会長、調月リオが、悠然とした足取りで部屋へと足を踏み入れた。

 

 

「……リオ。邪魔をするつもり?」

 

 

 セイカがゆっくりと首を巡らせる。その視線だけで、常人なら心臓が止まるほどの圧力が放たれる。だが、リオは表情一つ変えず、ただ静かにセイアの脳波モニターを見つめた。

 

 

「……おや、リオ会長。あなたもお見舞いに来られたのですね?」

 

 

 アカネが、形の良い唇を吊り上げ、冷笑に近い笑みを浮かべる。

 

 

「ミレニアムの事務に忙しいあなたが、トリニティの病室にまで足を運ぶなんて。……もし、私たちの『清掃作業』を妨げようというのでしたら、たとえ会長であっても、今の私は少々……礼節を欠いた対応をしてしまうかもしれませんよ?」

 

 

 アカネの周囲に、不可視の殺気が渦巻く。だが、リオは彼女を正視することなく、淡々と告げた。

 

 

「……感情に任せてアリウスを灰にしたところで、目の前のセイアが目を覚ます確率は0%よ。……室笠アカネ、あなたほどの有能な女性が、なぜそのような非合理な行動を選択しようとするのかしら」

 

「非合理、ですか」

 

 

 アカネの声が、一段と低くなる。

 

 

「……ええ、そうかもしれませんね。ですが、リオ会長。……あの子たちの、ケイの、あの泣き顔を見てもなお、『合理』という言葉を盾にできるほど、私はできた人間ではありません。……私たちの平穏を蹂躙した者には、それ相応の、絶望の返礼が必要だと思いませんか?」

 

「復讐は、何も解決しないわ」

 

 

 リオは一歩、ベッドの方へと近づく。

 

 

「……むしろ、あなたたちが今その力でアリウスの『心臓』を握り潰せば、セイアの中に逆流している呪詛がその瞬間に固定化され、彼女の意識は永遠に失われてしまうでしょう。……色彩による汚染は、物理的な破壊と連動しているのよ。……破壊が完了した瞬間、セイアという存在もまた、この世界から『確定的な死』として切り離される」

 

 

 リオの言葉に、セイカの翼の放電が、一瞬だけ止まった。

 

 

「……今のあなたたちが行けば、アリウスは滅ぶわ。……けれど、それは同時に、親友であるセイアの精神を、あなたたち自らの手で粉砕することを意味するのよ。……それが、あなたたちが導き出した最適解だと言うのかしら? 天野江セイカ。そして、室笠アカネ」

 

「……っ、それは……」

 

 

 アカネが言葉を詰まらせる。彼女の合理的な思考回路が、リオの突きつけた「事実」を否定できないと理解してしまったのだ。

 

 

「……私は合理主義者よ。常に最善の成功率を模索しているわ」

 

 

 リオは、ようやくセイカとアカネを正面から見据えた。その瞳には、彼女たちと同じ、あるいはそれ以上に重い「覚悟」が宿っている。

 

 

「……セイカ、あなたの力が必要なのは『破壊』ではないのよ。……私が提示することになる『別の方法』のために、今はその力を温存しておくべきだわ。……ここで無意味に力を浪費し、救えるはずの魂を自らの手で握り潰すなんて……そんなこと、あなた自身も、望んでいないはずよ」

 

 

 治療室を支配していた熱狂的な殺意が、リオの「冷徹な合理」という名の冷水によって、急速に冷やされていく。

 

 

「……アカネ。……武器を、下げて」

 

 

 長い沈黙の後、セイカが静かに告げた。

 

 

「……ですが、セイカさん! 私は、あの者を……!」

 

「……わかっている。……けれど、リオの言う通り。……セイアを殺してまで手に入れる勝利なんて、……私には、必要ない」

 

 

 セイカの翼から出ていた光が、粒子となって霧散していく。

 アカネは、悔しさに唇を噛み締め、震える手で武器を収めた。

 

 

「……わかりました、セイカさん。……ですが、リオ会長。……もし、あなたの言う『別の方法』とやらが、私たちを納得させられない代物であったなら……その時は、私たちが『お掃除』させていただきますから。……よろしいですね?」

 

 

 アカネの最後通牒。リオはそれを受け流すように、ただ小さく頷いた。

 

 

「ええ、構わないわ。……最善の策を、用意しましょう」

 

 

 窓の外、アリウス分校があるはずの彼方を見つめる三人の少女。

 戦いはまだ、終わっていない。

 むしろ、本当の「絶望」を書き換えるための、長く苦しい幕が、今まさに上がったのだ。

 

 

 

 




書いてて辛くなったので曇らせはもう終わり
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