「……移動する。この病院の設備では、私の演算速度とコアの出力を同期させるには帯域が細すぎる。それに、色彩の干渉を遮断するための多層防壁も足りない。……私の『ソラノミ』へ行くよ」
その言葉に、調月リオは腕を組み、淀みのない口調で応じた。
「……それが最適解だわ。この脆弱な環境で『色彩』の干渉を制御しようとすること自体、計算が成立していないもの。ソラノミの隔離環境とメインプロセッサの処理能力……。それこそが、私の策を成功へと導く唯一の基盤だわ。セイカ、あなたの戦艦ならば、その条件を満たすことができる」
「アカネ、ソラノミの全システムを起動。……ケイ、準備はいい?」
膝を抱えていたケイが、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。了解しました、お父さん。……私のコアがお父さんの『船』になるのなら。……全出力を、固定します」
「リオ……彼女と連絡はとれてる?」
「えぇ、既に通信は繋がっているわ」
「ヒマリ、悪いけれど付き合ってもらうよ」
『……おやおや、急ぎの案件のようですね。セイカちゃんから直々の指名とあっては、この超天才清楚系病弱美少女ハッカーが断る理由もありません。……合流場所は、あそこですね?』
「ええ。移動中に全データを同期させる。……行くよ」
__________
トリニティ統合病院から移送された百合園セイアの肉体は、今、宇宙戦艦「ソラノミ」の中枢、集中制御ユニットの深部へと安置されていた。
周囲を取り囲むのは、ミレニアムの叡智を象徴する無数のホログラム・ディスプレイ。そして、その中心に座するのはセイカである。
「……移動は完了したわ。ソラノミのメインプロセッサを覚醒。全演算リソースを、私の脳波とルミナス・コアの同期に割り振って」
セイカの指示は、軍の司令官のように無機質で、かつ冷徹だった。
その傍らでは、アカネが優雅な手つきで端末を操作している。だが、その瞳に宿る光は、給仕のそれではなく、城を侵すあらゆる不浄を灰にする守護者のものだ。
「全防衛システム、オンライン。……セイカさん、ご安心を。このソラノミの防壁を突破できる存在など、この世界には存在しません。……もし万が一、羽虫一匹でも近づくようなことがあれば、私がその根源から『消毒』して差し上げます」
アカネの微笑みは完璧だったが、その背後に漂う殺気は、ソラノミの外装を覆う超高電圧の防壁よりもなお鋭い。彼女にとって、この作戦はセイアの救出であると同時に、夫であり主であるセイカの命を賭けた聖戦でもあった。
「……お父さん。……同期準備、完了しました」
ケイが、セイカの足元で静かに告げた。彼女の胸元にある「ルミナス・コア」からは、無数の高密度エネルギーラインが伸び、セイカが横たわるダイブ・カプセルへと直結されている。
「……出力、100%で固定。……私の意識を、お父さんの『船』の外装に変換します。……どんな嵐が来ても、私が、お父さんを離しません」
ケイの声は淡々としていた。感情の起伏を排したその物腰こそが、彼女が室笠家の一員として、自らの役割を論理的に、そして絶対的に遂行しようとしている証だった。セイカを深淵へと送り出し、かつ現世へと繋ぎ止めるための「錨」。それが今の彼女の定義だった。
「……準備はいいようね」
艦橋のコンソールに陣取ったリオが、冷徹な瞳でバイタルチェックの数値を追う。その隣には、車椅子に深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべるヒマリの姿があった。
「……リオ。理論の穴は私が埋めた。けれど、深層意識の『色彩』によるバグは、秒単位で構造を書き換えてくる。……私の演算能力を、デバッグだけに集中させて」
「……わかっているわ、セイカ。……ヒマリ。準備は?」
リオの問いに、ヒマリは長い白髪を指で弄びながら、キーボードを叩く指を止めなかった。
「……ハァ。移動中に送られてきたログを見ましたが、相変わらず血も涙もない計算式ですね、リオ。効率だけを求めて、友人の脳を焼き切るような設計図を引くなんて。相変わらず、性格の悪さが画面越しに伝わってきますよ」
リオはヒマリの方を見ることさえせず、コンソールを叩きながら淡々と返す。
「……ヒマリ。あなたの情緒的な感想は、この作戦の成功率に1%も寄与しないわ。今はその無駄な口を動かす暇があるなら、深層意識のノイズフィルタリングを0.001ミリ秒でも短縮しなさい。それが『全知』を自称する者の義務でしょう?」
「言われなくてもやっていますよ。あなたのような「冷徹な独裁者」に背中を預けなければならないセイカちゃんが不憫で、私の演算処理に同情という名のブーストがかかっているだけです」
二人の間に流れるのは、一触即発の険悪さ。しかし、その画面に表示される演算データは、寸分の狂いもなく完璧に噛み合っている。セイカはダイブ・カプセルへと歩みを進めながら、その光景に小さく笑った。
「喧嘩はそこまでにして。……ヒマリ。私の背中を預けられるのは、友人であるあなたしかいない。……『全知』を謳うなら、この絶望的な成功率を100%まで書き換えてみせなよ」
ヒマリは一瞬だけ皮肉を止め、柔らかな、しかし絶対的な自信を湛えた笑みを浮かべた。
「……ええ。いいでしょう。私の親友がそこまで情けない泣き言を言うなら……この明星ヒマリが、神の領域のデバッグというものを見せて差し上げましょう。……セイカちゃん、あなたを一片の傷もなく、あちら側から連れ戻して差し上げます」
セイカが微かに笑みを浮かべ、ダイブ・カプセルへと身を沈めた。
カプセルのハッチが閉じ、液体状の神経接続媒体が満たされていく。
「……これより、百合園セイアの深層意識への強制介入を開始する。……作戦名『エディット・エデン』。……ターゲットは、親友の魂の奪還。……そして、この物語の不適切な『結末』の修正よ」
セイカの宣言とともに、ソラノミの全エネルギーが一点に集中された。
「……お父さん。……接続、開始します。……3、2、1……」
ケイのカウントダウン。
その瞬間、ソラノミの艦橋に、この世のものとは思えないほど美しく、そして不吉な「青い雷鳴」が轟いた。ルミナス・コアが放つ純粋エネルギーが、現実の物理法則を強引に捻じ曲げ、精神世界への「穴」を穿つ。
「……っ、ノイズレベル急上昇! ……色彩の残滓が、通信路を逆流してきます!」
アカネの瞳が鋭く光る。モニターには、ソラノミの外壁に吸い付くように出現した、正体不明の「黒い影」たちが映し出されていた。色彩の干渉が、現実世界に不浄を実体化させたのだ。
「……ふふ。……ようやく、私のお仕事の時間が来ましたか。……セイカさんの眠りを妨げる、不潔なゴミ溜めども。……一分子も残さず、塵にして差し上げます」
アカネがコンソールを叩くと、ソラノミの副砲群が一斉に旋回を開始した。
深淵に潜るセイカ。
その道を切り拓くリオとヒマリ。
背後で家族の帰る場所を守り抜くアカネ。
そして、全てを繋ぐ錨としてのケイ。
「(……待ってて、セイア。……すぐに行く)」
セイカの意識が、光速を超えて暗黒の深淵へとダイブする。
ソラノミという名の天空の聖域で、キヴォトス最強の家族による、神の領域すら恐れぬ「デバッグ」が、いま苛烈に火蓋を切った。
セイカの視界が、一瞬で「概念」の世界へと塗り替えられた。
上下も左右もない、情報の奔流。
そこは、百合園セイアがかつて見たはずの、そして今は「色彩」に汚染された、壊れかけた夢の残骸だった。
『……セイカちゃん、聞こえますか? こちらヒマリ。……あなたの精神波形、安定しています。……ですが、前方1200キロに、巨大な構造的欠陥——色彩の要塞を確認しました。……それが、セイアさんを閉じ込めている檻の正体です』
「……了解したわ、ヒマリ。……よく見えるわ。……あんな醜い『バグ』、私の世界には必要ない」
セイカの手元に、概念上の「ルミナス・コア」が実体化する。
それは、彼女の意志そのものを物理的な破壊力へと変換する、最強のエディター。
『……お父さん。……出力を、維持します。……迷わないで。……私は、ここにいます』
脳内に直接響く、ケイの静かな声。
その温もりが、冷酷な情報の海でセイカの「自己」を繋ぎ止める唯一の光だった。
「……ええ。……室笠家の主として、そしてあなたのお父さんとして。……無様な姿は見せられないわね」
セイカは、暗黒の要塞へ向けて、光の翼ならぬ「論理の刃」を構えた。
宇宙戦艦ソラノミ。
空の上と、深淵の底。
二つの戦場で、家族の絆が試されようとしていた。
「……さあ、お掃除を始めましょうか。……全演算、開始!」
セイカの叫びとともに、深淵の闇が、青い論理の光によって切り裂かれていった。