セイアへと続く最後の一歩を刻もうとしたその時、空間が粘り気のある極彩色の泥のように脈動し、ひとつの歪な影を形作った。
道化師のような、あるいは聖女を気取ったような、悍ましくも仰々しいドレスを纏った女――ベアトリーチェの幻影が、嘲笑を浮かべてそこに立っていた。
「あら……。『自由なる観測士』が、わざわざこんなゴミ溜めまで掃除に来るなんて。滑稽ですね、天野江セイカ。あなたがどれほど演算を積み上げようと、この『色彩』がもたらす結末は、あなたのような不完全な観測士が書き換えられるほど安っぽいものではありませんよ?」
ベアトリーチェの幻影は、踊るように手を広げ、周囲の虚無を煽る。
「理解しなさい。この子は既に、超越的な恐怖の依代。それを救おうなどという独りよがりな『家族ごっこ』の延長線上で、何が成せると? あなたのその白い翼も、ここで情報の塵となって、醜く折れ曲がる運命にあるのです。さあ、絶望を受け入れ――」
「黙れ」
短く、しかし世界そのものを凍りつかせるような一喝。その言葉は、単なる音声データではない。観測士としての「論理の断罪」だった。
「年増ババアのくだらないポエムに付き合っている暇はないんだ。バグならバグらしく、黙ってデリートされていろ」
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時を同じくして。瓦礫と硝煙に包まれたアリウスの聖堂。ボロボロになったアリウススクワッドを背後に庇い、先生はたった一人で、「本物」のベアトリーチェと対突き合っていた。ベアトリーチェは狂気に満ちた笑みを浮かべ、先生を指差して悦に入っている。
「先生、あなたには失望しました。教育? 愛? そんな不確かなものに縋って、この残酷な真理に抗えるとでも思っているのですか? あなたも、この惨めな子供たちも、私の描いた壮大な物語の生贄に過ぎないというのに――」
"――黙れ、ベアトリーチェ"
先生の、静かだが地を這うような低い声が、聖堂の空気を支配した。その顔には、いつもの温厚な面影はない。生徒を、子供たちを傷つけ、あざ笑う大人への、剥き出しの怒りがあった。
"君の語る『大人』の理屈なんて、一言だって聞く価値はない。……下がっていろ。これからは、私の生徒たちの時間だ"
セイカも、そして現実で戦っている先生も、お互いの状況など知る由もない。しかし、理不尽に抗う二人の意志は、空間を超えて完璧にシンクロしていた。
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『……ふふ。リオ、見ましたか? 今のセイカちゃんの一喝、鳥肌が立ちましたね。……数値化できない「意志」の力が、色彩の汚染率を無理やり押し下げています』
『……ええ。非合理的だけど、これ以上ないほどに効果的だわ。ヒマリ、余計な感傷に浸っている暇はないわよ。……セイカ、道は開いたわ。そのまま核を粉砕しなさい。計算上の「勝利」は、今この瞬間に確定した』
家族が守る背後。友人が拓く前方。そして、世界のどこかで同じように戦っている「大人」の気配。私は翼を大きく羽撃かせ、もはや言葉を失い霧散していくベアトリーチェの残滓を突き抜け、セイアの眠る中心部へとその手を伸ばした。
「……助けに来たよ、セイア」
観測士であり、父である私の純白の光が、深淵の闇を完全に塗り替えた。この瞬間、二つの異なるレイヤーで起きたことは、単なる偶然の一致ではない。それは「生徒を救う」という共通の目的を持った二人が、世界を否定する者に対して突きつけた、明確な回答だった。
私の視界には、もはやベアトリーチェの姿など映っていない。私の意識の大部分は、ソラノミのメインプロセッサを通じて、セイアの精神核の安定化に回されている。その合間を縫って、耳障りなノイズをまき散らすベアトリーチェは、観測士としての私からすれば「取り除くべきエラー」以外の何物でもなかった。
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一方、地上でベアトリーチェを見据える先生の瞳には、かつてないほどの鋭さが宿っていた。ベアトリーチェが口にする「残酷な真理」など、先生にとっては既に聞き飽きた詭弁に過ぎない。大人が子供を導くのではなく、利用し、踏みにじる。その行いそのものが、教育者としての、そしてこの世界の「責任を取る者」としての先生の逆鱗に触れていた。
「黙れ」という言葉に込められたのは、圧倒的な拒絶。それはベアトリーチェが作り上げた歪な物語を、根底から否定する力を持っていた。
先生は知っている。ここで言葉を交わす必要などない。必要なのは、傷ついた生徒たちの手を取り、彼女たちの未来を守り抜くことだけだ。
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指先が彼女の意識の核に触れた瞬間、凍りついていた時間が動き出す。
まつ毛が微かに震え、その瞳がゆっくりと開かれる。色彩の濁りは消え、そこにあるのはいつもの、聡明で、少しだけ寂しげな、けれど確かな光を宿した百合園セイアの瞳だった。
「……ああ、君だったのか。セイカ……」
その声は、掠れてはいたけれど、確かにこの世界の論理に根ざしていた。彼女は戸惑うように瞬きをし、私と、その背後に広がるソラノミの光を見つめた。
「……夢を、視ていたような気がする。終わりも救いもない、ただ冷たいだけの、色彩の物語を。……けれど、その物語の結末を、誰かが乱暴に書き換える音が聞こえたんだ」
セイアが状況を把握しようとしたその刹那、光の粒子を振り払って一人の少女が飛び出した。
「セイア……! セイアぁ……っ!!」
私の傍らから弾かれたように駆け寄ったケイが、文字通りセイアに縋りつくように抱きついた。普段の理知的で冷静な面影はどこにもない。感情が演算を上回り、決壊した涙が彼女の頬を濡らしていた。
「ケイ……? 私を心配してくれたのかい……?」
「当たり前です……っ。どれだけ、どれだけ私が……怖かったと思っているのですか……! 二度と目覚めないんじゃないかって、最悪の予測が出るたびに、私は……!」
ケイはセイアの胸元に顔を埋め、小さな肩を激しく震わせて泣きじゃくった。その手は、二度と離さないと言わんばかりに親友の体を強く握りしめている。
セイアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに愛おしそうに目を細め、ケイの背中にそっと手を回した。
「……済まないね、ケイ。親友に、これほどまで涙を流させてしまうなんて。……でも、嬉しいよ。君の温度が、私を現実に繋ぎ止めてくれる」
その光景を、四人の視線が静かに見守っていた。
「……ふぅ。全く、心臓に悪いわね。これほど不確定要素の多い作戦、二度と御免だわ」
リオがいつもの冷徹さを取り戻そうと努めながらも、その声には明らかな安堵が混じっていた。
「ふふ、私としたことが、少しだけ視界が潤んでしまいました。……お帰りなさい、セイアちゃん」
ヒマリのキーを叩く音が、どこか軽やかなリズムを刻んでいる。
「……良かった。本当に、間に合って良かったです。お疲れ様です、セイカさん」
傍らに立つアカネが、胸に手を当てて深く長い息を吐き出した。その表情は、守り抜いた安堵感に満ちた、いつもの穏やかな笑顔だった。私は、親友の温もりを確かめ合う二人の姿を見つめ、静かに翼の出力を下げた。限界まで引き絞っていた意識が解き放たれ、重い安堵が全身に染み渡っていく。
「ああ……。終わったんだね、ようやく」
深淵の中に描かれた帰還の航路を、ソラノミの光が優しく、力強く照らし出していた。
これで正真正銘エデン条約編完!
次回からはまた幕間が始まります!
作者はこれから貯めてたクロカゲを討伐しに行きます……