未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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万古不易のコペルニクスⅠ
室笠家の休日 ―山海経の熱気と、絆の演算―


 

 

 

 漆黒の宇宙を往く戦艦『ソラノミ』。その中央居住区に位置する室笠家のリビングは、いつも通り清潔で機能的、かつどこか浮世離れした静寂に包まれている……はずだった。

 しかし今日、その静寂は心地よい期待感と、数名の来訪者の気配によって、賑やかに塗り替えられている。

 

 

「――というわけで、ケイ。今度の休日は、友人たちも誘って、どこかへ羽を伸ばしに行きませんか?」

 

 

 ティーポットを傾け、澄んだ琥珀色の紅茶を注ぎながら、アカネが柔らかな微笑みを浮かべて提案した。

 対面に座るケイは、膝の上に置いた端末から顔を上げ、わずかに小首を傾げる。その瞳には、彼女を動かす複雑な演算回路が弾き出した、純粋な疑問が浮かんでいた。

 

 

「……提案の受理を確認。お母さんの判断は、常に私の情操教育における最適解です。ですが、私のQOLは、お父さんとお母さんの傍にいるだけで、既に基準値を150%上回っています。外部への移動によるリスクとリソースの消費を考慮すると、現状維持が合理的かと思われますが」

 

「ふふ、嬉しいことを言ってくれますね、ケイ」

 

 

 アカネが愛おしそうにケイの髪を撫でると、ケイは無機質な瞳を少しだけ細め、心地よさそうにその手に身を委ねた。その様子を横目に、私は手元にあった観測チャートを閉じ、小さく溜息を吐いた。

 

 

「たまには『ソラノミ』以外の空気を吸うのも、あなたというシステムの健全な維持には必要です。それに……その、友達を誘うというのは、私としても……悪い案ではないと思っています」

 

「お父さん……。了解しました。お父さんがそう判断されるのであれば、私はそれに従います。……お母さん、トキから『山海経の限定饅頭を制覇したい』という要望を、0.3秒前に受信しました」

 

「あらあら、トキちゃんは相変わらずですね。それなら、行き先は決まりです」

 

「……山海経ですか。あそこは現在、玄龍門と玄武商会のパワーバランスが不安定なはずです。観光には向かないのでは?」

 

 

 私が懸念を口にすると、リビングの扉がスライドして開き、一人の少女が優雅に入ってきた。

 

 

「ふふ、案ずることはないよ、セイカ。私の予知によれば、次の休日の山海経は、実に『騒がしく、かつ幸福な』結末を迎えることになっている」

 

 

 セイアがいたずらっぽく目を細める。その後ろには、無表情ながらもどこか期待に満ちた瞳をしたトキが、静かに控えていた。

 

 

「……いつの間に乗り込んでいたんですか、貴女たちは」

 

「ケイから招待コードを受信しました。友人としての優先権を行使し、同行を志願します。ピースピース」

 

 

 トキが淡々とVサインを作る。

 

 

「これで決まりですね。セイカさん、私、ケイ。そしてセイアさんにトキちゃん。……五人での、山海経観光です。あ、セイカさん、あちらの市場は活気がすごいですから、迷子にならないようにしっかり私の手を握っていてくださいね?」

 

「……子供扱いしないでください、アカネ。私はこれでも、引率の責任者なんですから」

 

「お父さん。迷子になる確率は低いですが、お母さんの手を握ることは、お父さんの精神安定に寄与すると演算されました。推奨します」

 

「ケイ、あなたまで……」

 

 

 

 

__________

 

 

 

 

 数日後。私たちは山海経の自治区に立っていた。

 

 入った瞬間に押し寄せてくるのは、数多のスパイスが混ざり合った芳醇な香りと、行き交う人々の熱気。ミレニアムの整然とした幾何学的美しさとも、トリニティの静謐な品格とも違う、エネルギーの奔流そのもののような街並みだ。

 

 

「お父さん。視覚・嗅覚・聴覚データの情報密度が、予想を30%上回っています。これが……山海経の『熱』ですか」

 

 

 ケイは珍しそうに周囲を見渡し、その瞳に市場の賑わいを映し出している。その隣では、既に「限定饅頭・販売地点」への最短ルートを算出し終えたトキが、静かに拳を握りしめていた。

 

 

「ターゲット、捕捉。第一目標は『玄武商会特製・黄金肉まん』です。皆さん、遅れないでください」

 

 

 私たちはトキに引きずられるようにして、湯気の立ち込める路地裏へと迷い込んだ。そこは、数多の屋台がひしめき合い、威勢のいい声が飛び交う、山海経の心臓部。

 

 私が地図アプリと周囲の喧騒を交互に確認し、効率的なルートを模索していた、その時だった。

 

 

「ちょっと、そこのグループ! アンタたち、さっきから難しい顔してキョロキョロしちゃって。肝心の『美味いもの』を一つも食べてないじゃない!」

 

 

 背後から飛んできた豪快な声に振り返ると、そこには巨大な中華包丁を腰に差し、腕組みをして不敵に笑う少女が立っていた。

 

 玄武商会の会長、朱城ルミだ。

 

 

「山海経に来て、お腹を空かせたまま歩き回るなんて罪よ、罪! ほら、ボサッとしてないで座った座った。今、最高に美味いのが上がるから!」

 

「……いえ、私たちは観光のついでに効率的なエネルギー摂取ポイントを演算していただけで、別に空腹というわけでは……」

 

 

 私が論理的な反論を試みようとすると、ルミは鼻で笑って、私たちに手招きをした。

 

 

「演算だか何だか知らないけど、そんな難しい顔してたら味が分からなくなるわよ。料理に理屈なんていらないわ。食べて幸せになれるか、それだけでしょ? ほら、こっちに来なさい!」

 

 

 

__________

 

 

 

 

 ルミに促されるまま、私たちは玄武商会の拠点――活気と油の匂いに満ちた食堂のテラス席へと陣取ることになった。

 

 卓上に並べられたのは、透き通るような皮の小籠包、黄金色の焼き餃子、そして深い緑が鮮やかな青菜炒めだ。

 

 

「ほら、冷めないうちに食べなさい! 料理は『待つ』もんじゃない、『攻める』もんなんだからね!」

 

 

 ルミが笑いながら、最後の一皿――不思議な香草の香りがするスープを置いた。

 

 

「……いただきます、お父さん、お母さん」

 

 

 ケイが丁寧に箸を取り、小籠包を口に運ぶ。その瞬間、彼女の瞳がわずかに大きく見開かれた。

 

 

「……味覚センサー、飽和状態。お父さん、この料理……単なる栄養素の集合体ではありません。調理者の『感情データ』が、味という媒体を通じて直接流れ込んでくるような……未知の感覚です」

 

「ふふ、ケイちゃん。それが山海経の、いえ、ルミさんの料理の『隠し味』なのですよ」

 

 

 アカネはスープを一口含み、その深みのある味を確かめるように目を細めた。一方、私は手元のタブレットで、この街の至る所に掲げられた「龍」の紋章を眺めていた。

 

 

「……ルミさん。先ほどから街の至る所で、玄龍門の役人たちが慌ただしく動いていますね。何か、大きな騒動でも?」

 

 

 私の問いに、ルミは一瞬だけ表情を曇らせ、腰に手を当てた。

 

 

「……ああ、アレね。例の『究極のレシピ』の欠片が見つかったとかで、玄龍門の連中――特にあの頑固な門主様が、躍起になって回収してるのよ」

 

「究極のレシピ……。それは、食べれば不老不死になれるとか、世界を支配できるとか、そういった類の非論理的な代物ですか?」

 

「まさか! そんな物騒なもんじゃないわよ」

 

 

 ルミは遠く、山海経の象徴である高い塔を見上げた。

 

 

「ただの料理の書き付けよ。でも、今の山海経には、それが何よりも必要なの。……昔はね、あそこの門主様とも、一緒に鍋を囲んで笑い合ってたんだけどさ」

 

 

 その言葉に含まれた寂寥感に、私は静かにカップを置いた。

 

 

「……『ひとつの未来』、か。キサキという少女は、今、その重圧という名のスパイスで、自分自身の味を見失っているようだね」

 

「セイアさん、予知ですか?」

 

 

 トキが肉まんを頬張りながら尋ねると、セイアは首を振る。

 

 

「いいや、単なる観測だよ。……セイカ、君ならどうする? この『不味い状況』を、君の演算でどう調理するんだい?」

 

「……同意。この状況は、非常に『不味い』と言わざるを得ません」

 

 

 トキが、空になったせいろを静かにテーブルに置きながら、無機質な、けれど確かな意志を宿した瞳をこちらに向けた。

 

 

「先ほどの肉まんは極めて高効率なエネルギー源でしたが、この街に漂う空気は、私の胃袋を満足させるには不透明すぎます。ピースピース」

 

 

 私は、黙々と食べるケイと、それを愛おしそうに見つめるアカネの姿を視界に入れた。

 

 論理的に言えば、他校の、しかも政治的な対立に介入するのはリスクしかありません。ですが――。

 

 

「……ケイ。このスープのレシピを、あなたの演算で『再現』できますか?」

 

「可能です、お父さん。ですが……この『隠し味』、すなわち調理者の献身的な情意までは、現在の私のエミュレータでは完全な再現には至りません」

 

「……その隠し味の補完、私が志願します。アビ・エシュフ、限定解除……あ、いえ、今は友人としての散策モードでした。胃袋の予備タンクを全開放し、全力で山海経の『幸福な結末』を支えます」

 

「それで十分です。……ルミさん。その『究極のレシピ』とやら、もし見つかったら、私たちも一口だけ『味見』をさせてもらえませんか?」

 

 

 ルミは驚いたように私を見つめ、やがてニカッと白い歯を見せて笑った。

 

 

「アンタ、面白いこと言うじゃない! いいわよ、玄武商会は『美味いもの』を求める客は拒まないわ。……その代わり、食べ終わったら皿洗いくらいは手伝ってもらうわよ、セイカ!」

 

「あらあら、皿洗いでしたら私にお任せください。……ね、セイカさん?」

 

 

 アカネの茶目っ気たっぷりな視線に、私は観念して頷いた。

 

 どうやら、この「普通の休日」は、山海経の歴史に残る「究極の一皿」を完成させるための重要な隠し味になってしまいそうだ。

 

 

「お父さん。……ミッション『究極のレシピの観測』、実行フェーズに移行します。トキ、おかわりは三杯までにしてください。移動速度に影響が出ます」

 

「了解、ケイ。……ですが、この杏仁豆腐は別腹と定義します。ピースピース」

 

 

 騒がしく、けれどどこか温かい。 私たちはルミの店を後にし、夕暮れに染まり始めた山海経の街、そして「龍」と「武」が交差する物語の核心へと、ゆっくりと歩みを進めるのでした。

 

 

 

 

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