未来を統べる翼と、優しいメイドの家   作:天野江

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山海経の夜鳴 ―父と母と、少女の休息―

 

 

 

 山海経の街に夜の帳が下りる頃、高台の東屋を包む空気は、先ほどまでの刺すような殺気から、どこか落ち着いた、それでいて親密な熱を帯びたものへと変わりつつあった。

 

 肉まんを半分ほど食べ終えたところで、キサキはふと動きを止めた。遠く、街の影では玄龍門の構成員たちが、主君の「休息」という名の異例事態を邪魔せぬよう、しかし隙のない陣形で周囲を固めているのが見える。キサキはその光景を一度だけ、統治者の冷徹な瞳で一瞥すると、再び手元の茶杯に視線を落とした。

 

 

「……其方ら。妾がこうして、誰の毒味も通さぬものを、見ず知らずの者に促されるまま口にするのが、どれほど異例なことか分かっておるのか?」

 

 

 その声には、先ほどのような鋭い刺はなかった。代わりに、若くして巨大な組織の頂点に立ち、あらゆる「毒」を警戒し続けなければならない統治者としての、深い孤独と重圧が滲んでいた。

 私は、アカネが丁寧に注いだ二杯目のお茶を彼女の前に差し出しながら、ゆっくりと首を振った。

 

 

「論理的なリスク管理の観点から言えば、非合理の極みでしょう。ですが、キサキさん。……ルミさんの料理を信じることは、彼女の『心』を信じることと同義ではありませんか? 私たちは、その心をお裾分けしてもらったに過ぎません」

 

「……ふん。口の減らぬ女じゃ。ミレニアムの計算高い連中とは、少し毛色が違うようじゃのう、セイカ」

 

 

 キサキはそう呟き、惜しむように最後の一口を飲み込んだ。

 すると、それまで沈黙を守り、キサキの挙動をミリ単位で観測していたケイが、ふとキサキの顔をじっと見つめて口を開いた。

 

 

「キサキ門主。……あなたの頬に、肉まんの生地の一部が付着しています。座標、右口角から1.2センチ上方。……そのままでは、統治者としての威厳が0.85ポイント低下すると推測されます。早急な処置を推奨します」

 

「な、なんじゃと……!? 汚れだと!?」

 

 

 キサキが慌てて豪奢な袖で口元を拭おうとした瞬間、その手は空を切った。

 いつの間にか、まるで重力に従う水のように音もなく隣へ移動していたアカネが、清潔なハンカチを広げ、極めて自然な動作でキサキの頬へと手を伸ばしたからだ。

 

 

「はい、綺麗になりましたよ、キサキさん。……そんなに慌てなくても、誰も見ていませんから。ふふ、まるで食べ盛りの小さな女の子のようです」

 

「……っ。其方! 妾を……門主たるこの妾を、子供扱いするでない! 控えよ!」

 

 

 キサキの顔が、先ほどの夕焼けよりも鮮やかな赤に染まった。普段なら不敬罪に問われ、玄龍門の地下牢に送られてもおかしくない振る舞いだ。しかし、アカネの放つあまりにも深く、慈愛に満ちた「母性」の圧力の前に、キサキは統治者としての言葉をすべて封じられてしまったようだった。

 キサキは助けを求めるように、私へと視線を向けた。

 

 

「お父さん。……お母さんの行動は、対象への親愛に基づいた行動です。キサキ門主、其方も私たちの家族の『余白』に、一時的に同期することを推奨します。私の演算によれば、現在のあなたは怒っているのではなく……極めて高度な『照れ』の状態にあります」

 

 

 ケイが当然のように放った「お父さん」という言葉。

 その瞬間、キサキは目を見開き、私とアカネを何度も交互に見つめた。彼女の優れた知性が、目の前の事実と、自分の中にある既成概念を必死に照合しているのが手に取るように分かった。

 

 

「……其方。今、この女を『お父さん』と呼んだか? ……ふむ。見ればたおやかな女人。……なるほど、そうか。型に嵌まらぬ『家族』の在り方というわけか」

 

 

 キサキは少しだけ面白そうに目を細め、私を真っ直ぐに見据えた。

 

 

「山海経の古い規律、伝統という名の枷の中に生きる妾からすれば、いささか……いや、相当な驚きじゃ。じゃが、不思議なものじゃな。其方のその揺るぎない立ち居振る舞い、そしてこの家族の中心に座る姿は、確かに一家の主――『父』としての威厳に満ちておる。……形ではなく、魂の在り方が、其方をそうさせておるのか」

 

「私たちは、ただ私たちらしくあることを選んだだけですよ。……キサキさん、失礼しました。うちの子たちは、少々正直すぎる傾向がありまして。門主としてのあなたにではなく、一人の『キサキさん』に接しているだけなのです」

 

 

 キサキは大きく一つ、深い溜息を吐いた。彼女は背筋を伸ばし、再び冷徹な表情を作り直そうとしたが、その瞳の奥には、確かな親しみの色が混ざっていた。

 

 

「……全く。其方らは、妾のペースを乱すのが得意なようじゃな。……だが、悪くない。……ルミ以外に、これほど無遠慮に妾の懐へ踏み込んできた者は、数えるほどしかおらぬ」

 

 

 キサキは東屋の柱に背を預け、眼下に広がる街の灯りを見つめた。点々と灯る光は、まるで山海経という巨大な龍が呼吸をしているかのようだ。

 

 

「……ルミと妾は、かつては共に夢を語り合った仲での。同じ鍋を突き、同じ未来を信じておった。……じゃが、今の妾は山海経の伝統という名の重石を背負い、あやつは自由という名の風を追っておる。……もはや、混じり合わぬ二つの未来じゃ」

 

「……予知によれば」

 

 

 それまで静かに風の音を聞いていたセイアが、澄んだ声で告げた。

 

 

「二つの未来は、決して並行ではないよ。……いつか、一つの大きな河に合流する。……今日、君がこの『無礼な家族』と食卓を囲んだことが、その河の流れを、ほんの数センチだけ変えたはずだ。それは誰にも観測できない小さな変化かもしれないが……奇跡とは、そうして始まるものだよ」

 

 

 キサキはセイアを不思議そうに見つめた後、ふっと鼻で笑った。

 

 

「……占い師の戯言か。……だが、其方らと過ごしたこの『余白』。……門主としての公式な記録には一文字も残さぬが、妾個人の記憶としては、悪くない出来として保存しておいてやろう」

 

「感謝します。……さて、お父さん。そろそろ移動速度を上げなければ、帰還時刻のデッドラインを割り込みます」

 

 

 トキが、いつの間にか三杯目のおかわりを平らげ、無表情にVサインを作った。

 

 

「了解しました。……キサキさん、素晴らしい景色と時間をありがとうございました。……次はぜひ、私たちの拠点『ソラノミ』へも遊びに来てください。お父さんとお母さんで、最高のおもてなしを約束しますよ」

 

「……考えておこう。……ただし、次もルミの肉まん……いや、それ以上の美味があることが条件じゃ。ピースピース、……などとは言わぬぞ! 真似をさせるな!」

 

 

 キサキは、トキの仕草を無意識に真似しかけて慌てて首を振った。その姿は、山海経の最高権力者ではなく、どこにでもいる、少し背伸びをした、けれど心の温かい少女のそれだった。

 

 私たちは、キサキと彼女を護る影たちに見送られながら、高台を後にした。

 振り返ると、東屋の小さな影が、街の灯りの中に溶け込んでいくのが見えた。

 

 山海経という名の巨大な龍の心臓に、ほんの少しだけ温かい「家族の熱」を置いてこれた。そんな確信を胸に、私たちは夜の山海経へと、ゆっくりと歩みを進めるのだった。

 

 

「お父さん。……キサキ門主の表情筋の緩和率は、接触開始時から42%上昇。精神衛生上の改善を確認。……それと、この山海経の肉まんですが、私個人の『美味しいリスト』に永続保存することを決定しました」

 

「……ええ、そうですね、ケイ。……さあ、帰りましょうか。お母さんの淹れる最後の一杯のお茶が、家で待っていますから」

 

 

 夜風が、心地よく私たちの髪を揺らしていった。

 

 山海経の歴史には残らない、けれど私たちの物語には深く刻まれる、静かな夜の記録であった。

 

 

 

__________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ソラノミ」の静かなリビング。アカネが淹れたハーブティーの湯気が、室内の空気を柔らかく湿らせています。

 ソファに腰を下ろしたセイカは、窓の外に広がる夜の闇をじっと見つめていました。

 

 

「……お父さん。先ほどから視線の焦点が定まっていません。山海経のデータログに、何か未解決のエラーでも残っていますか?」

 

 

 ケイがトレイを運びながら尋ねると、セイカはゆっくりと首を振りました。

 

 

「……ケイ、ログの不具合ではありません。……さっきから、『空見の波』がひどくざわついているんです」

 

 

 セイカの声は低く、落ち着いていましたが、そこには観測者としての確かな懸念が混じっていました。

 

 

「……東屋で彼女に会った時から。……キサキさんの周囲の波が、まるで薄氷を踏み抜く直前のように、細く、鋭く、ひび割れている……。あの子の波は、門主としての威厳で表面を塗り固めていますが、その内側は枯れ果てて、今にも崩れ去りそうですよ」

 

 

 セイカは視線を落とし、手元のカップのふちを指先でなぞりました。

 

 

「……山海経という巨大な龍を繋ぎ止めるために、自分という個の命を、ただの楔として打ち込んでいる……。そんな、危うい波なんです」

 

「……左様でございますか。セイカさんが波でそう感じ取られたのなら、間違いありませんね」

 

 

 アカネが、音もなく茶器を片付けながら静かに同調しました。

 

 

「私も、彼女の『体の動き』を見て、同じ懸念を抱いていました。……完璧な所作で隠してはいても、重心の移動が僅かに遅れ、強張りを意志の力だけで抑え込んでいる。……トキちゃんが肉まんを差し出した時の指先の震え。あれは単なる動揺ではなく、極度の神経衰弱と過労から来る、肉体の悲鳴ですよ」

 

 

 すると、それまで静かに紅茶を口にしていたトキが、静かにカップを置きました。

 

 

「セイカ、アカネ先輩。……私も同意見です」

 

 

 トキは無表情ながらも、その鋭い視線に確かな確信を宿していました。

 

 

「キサキ門主の呼吸音、そして筋肉の僅かな強張り……。戦場に立つ者として見れば、あれは限界を超えた兵士と同じ反応です。私の観察眼に狂いはありません。あれは、精神力だけで肉体を無理やり動かしている状態です」

 

「波と、肉体。……二人がかりでそれを見抜いたとなれば、もはや確証だね」

 

 

 セイアが静かに目を伏せた。

 

 

「……彼女は山海経の『面子』という鎧を纏うために、内側から自分を削り続けているんだ」

 

 

 セイカは「お父さん」としての厳しい、けれど慈しみを湛えた瞳を家族へ向けました。

 

 

「……『思い描くは、ひとつの未来』。……ルミと見た夢の続きを守るために、自分を壊してまで組織の歯車に徹している、ということでしょうか。……あの子は、少し不器用すぎますね」

 

 

 セイカはゆっくりと立ち上がり、アカネの隣に歩み寄りました。アカネの柔らかな香りに触れると、観測者としての硬い表情がほんの少しだけ和らぎます。

 

 

「……アカネ、……次に彼女がここへ来るか、私たちが会いに行く時。……門主としての仮面を剥ぎ取ってでも、強制的に休ませる必要があります。……波を整え、あの強張った体を解きほぐしてあげたい。……ね?」

 

「ええ、分かっております、セイカさん。お父さんがそう決めたのなら、家政を司る者として、最高の養生膳と安らぎの時間を準備しましょう」

 

 

 セイカは小さく頷き、静かに、けれど揺るぎない決意を口にしました。

 

 

「……山海経の龍を救うのは玄龍門の仕事。……けれど、あの子という一人の人間を救うのは、私たちの役目です。……お父さんとして、守ってあげたいですから……ね」

 

 

 ソラノミの夜は、一人の孤独な少女を救うための、密やかな計画と共に更けていきました。

 

 

 

 

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